織田敏定

室町時代後期から戦国時代の武将。室町幕府 尾張下四郡守護代。斯波氏の家臣。清洲織田氏(織田大和守家)当主。清洲城主

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織田 敏定(おだ としさだ)は戦国時代大名織田久長嫡男尾張下四郡の守護代。織田大和守家(清洲織田家)の当主。清洲三奉行の一家「弾正忠家」の織田信定の父とする系図もあるが仮冒の可能性も指摘されている。

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時代 戦国時代
生誕 宝徳2年(1450年) ?
死没 明応4年(1495年7月
改名 敏定、常英(号)
別名 又六、三郎、治郎左衛門(通称)
戒名 蓮光院殿常英大居士
官位 大和
幕府 室町幕府尾張国守護代
主君 斯波義敏義寛
氏族 織田氏(自称:藤原氏
父母 織田久長朝倉教景の娘
兄弟 敏定敏任常寛織田因幡守
敏信?、敏宗寛定寛村秀敏信定
大雲永瑞、養子:信友

生涯

織田大和守家(清洲織田家)は元々織田宗家(尾張守護代家)に仕える尾張の在地領主で、又守護代の立場であったが、敏定の代に主家を凌いで急激に台頭する。

応仁元年(1467年)、応仁の乱が起こると、斯波義廉を支持して西軍についた主家の織田伊勢守家(岩倉織田家)の織田敏広に対抗し、尾張守護斯波義敏・義良(義寛)父子を擁立し、細川勝元率いる東軍側についた。

文明8年(1476年)、敏定は守護・義寛に命じられ、敏広の居城であり、尾張中島郡にある尾張守護所の下津城を攻め、敏広とその岳父の斎藤妙椿ら連合軍と戦い、敏広を破り、敏広、義廉らを山田郡の国府宮に駆逐した。

しかし敏広が巻き返し敏定が尾張から追放させられた。しかし、幕府は敏定の尾張入国を推進し、主家の敏広に代わり幕府から尾張守護代を任じられた。同年、10月12日に都から尾張へ下国し、美濃守護土岐政頼と妙椿らに擁立され、新たな守護所となった清洲城へ入城した。同年、嫡流の敏広と西軍の義廉を兇徒として、再び戦って勝利した。斎藤家は敏定側へ寝返ったと思われたが、妙椿は幕命を逆らい敏広に援軍を送る。それに対して、敏定は美濃国牽制のため、信濃小笠原家長に救援を要請したという。(『小笠原文書』)  同年、12月4日、養父妙椿の後ろ盾を得て、清洲城奪還に乗り出した敏広に清洲城を包囲されると、一時は全員討死の覚悟をしたが、右眼を矢で射抜かれたまま、奮戦し、これを退けた。

幕府の再三介入により、文明11年(1479年1月19日、妙椿・敏広連合軍と敏定は和睦を結んだ、これにより、敏定と敏広は尾張国の半国を分割統治することとなり、尾張下四郡(愛知郡、知多郡、海東郡、海西郡のこと、最初は清洲織田家は中島郡海東郡の二郡及び山田郡の一部のみ)の守護代となる。『大乗院寺社雑事記』では「尾張国合戦、二郡分織田大和安堵、持是院与和談之由」とある。織田大和とは敏定の事で、持是院は斎藤妙椿の事である。その後は敏定は義寛とともに在京していたという。

やがて岩倉織田家との和睦が崩れ、文明13年(1481年3月、再び敏広と戦うが、これを破る。同年、8月織田広近と共に上洛し、8代将軍義政に貢ぎ物をした。(『親元日記』) 同年、敏広が亡くなったため、敏定は一時的に織田家の主導権を握った。長享元年(1487年)の長享の乱六角高頼征伐のため、敏定は義敏の跡を継いだ斯波義寛と共に参戦した。

同年、主君・義寛の名代として、敏定が越前の主権を幕府に願え出た。その後、尾張争乱のため、尾張へ下国し、その隙をつき、敏定は愛知郡へ進出した。さらに翌年の長享3年(1489年)義尚が死去し、足利氏の家督争いが起こると後の11代将軍義澄方に付く。2年後、延徳3年(1491年)に再び延徳の乱で敏定は一門衆を率いて、義寛へ従軍し、功績を立てた。明応3年(1494年船田合戦が起こると、美濃守護土岐氏の家督争いが起こり、妙椿の跡を継いだ斎藤妙純に岩倉織田家が味方すると、斎藤氏には宿怨があったため、美濃小守護代石丸利光の娘を嫡子・寛定の妻に迎えていたため、石丸方に付き、敏広の後を継いだ斎藤方の織田寛広と戦うが、翌年の明応4年(1495年7月、敏定は布陣中に病死(『船田前記』には「大和前司病をもって卒す」とあり、大和前司とは敏定の事であるとされる)。享年46(『犬追物記』によると「文明十三年十月二十九日、三十二歳、大和守敏定」の署名があり、没年はこれを計算した物である)。家督は嫡男の寛定が継いだ。

肖像画

清洲城を包囲された際の敏定の姿を伝わる実成寺所蔵の「織田雍州藤原敏定寿像」の肖像があり、主君の斯波義寛とともに描かせたものである。現在は名古屋市博物館に所蔵されている。ちなみにその画像賛に「和州刺史織田敏定廼出藤氏、自其先常松而相継治尾」とあり、このことから敏定は藤原を自称したとされる。

清洲宗論

清洲城内で行われた日蓮宗寺院同士の宗論。文明14年(1482年)、尾張国内で日蓮宗正統を巡り、甲斐身延山久遠寺と京都六条本国寺の対立が起こると、守護代として混乱を治めるため、清洲城内で両派に抗論を交わさせた(敏定は唯一本国寺方に味方し、久遠寺方の織田与三郎広忠と対立)。問答の結果は本国寺方の勝ちに終わり、久遠寺方に帰順の起請を提示させ決着をつける。のち敏定は清洲城下に本要寺を建立したり、明応2年(1493年7月2日には萱津の長久山実成寺に領地を寄進してと、敏定が日蓮宗の振興に務めたことを知られている。

関連項目

外部リンク

先代
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清洲織田家当主
1450 - 1495
次代
織田寛定