明知遠山氏

美濃遠山氏の一派

これはこのページの過去の版です。2400:2410:a423:4c00:dd25:cf00:5cfe:954e (会話) による 2020年7月18日 (土) 02:58個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

藤原氏 > 加藤氏 > 遠山氏 > 明知遠山氏

明知遠山氏(あけちとおやまし)は、利仁流加藤氏一門美濃遠山氏の一派。

明知遠山氏
家紋
遠山九字直違(分家が使用)
本姓 藤原北家利仁流
家祖 遠山景重遠山氏
種別 武家
士族
出身地 美濃国恵那郡明知村
主な根拠地 美濃国恵那郡明知村
著名な人物 遠山景行遠山利景
遠山景元
支流、分家 武蔵遠山氏相模遠山氏信州遠山氏
凡例 / Category:日本の氏族

鎌倉時代の初期に岩村遠山氏から分家して明知城を拠点としたが、戦国時代末期に武田氏の攻撃により失領。江戸時代になって旧領の一部を回復し、幕府旗本となって明知陣屋を構え、明治維新を迎えるまで続いた。菩提寺は岐阜県恵那市明智町にある龍護寺で、明知遠山氏代々の墓が現存する。

歴史

宝治元年(1247年)、遠山景朝の子で、明知遠山氏の始祖・遠山三郎兵衛景重が明知城を築き、代々守護したという[2][注釈 1]

室町時代は、『花営三代記』の応永28年(1422年)の記事に遠山明知小太郎景時、同小太郎景氏、応永30年(1423年)の記事に遠山明知小太郎、文安元年(1444年)の『文安年中御番帳』に遠山明知大蔵少輔がみえる[3]

戦国時代の遠山氏の宗家は岩村城主の岩村遠山氏で、遠山一族は美濃国恵那郡およびその周辺に勢力を持ち、「遠山七家(遠山七頭)」と称された。その内の岩村遠山氏・明知遠山氏・苗木遠山氏を、「三遠山(遠山三頭)」と呼んだ[4][5]。 伝えによれば、遠山景保の子供の遠山直景は大永年間(1521年前後)に明知城を退去し、士卒180名を率いて北条早雲の配下に入ったとされるが、このいきさつは定かではない。 天文12年(1543年)に遠山景行(惣四郎)が当主となった。天文24年(1555年)頃から、遠山諸氏は甲斐信濃を領する武田氏に属していたが、同時に尾張の織田信長の年下の叔母おつやの方とも婚姻関係を結んでいた。岩村城城主であった遠山景任が病死すると武田とは関係が悪化した。

元亀元年(1570年)12月、武田信玄の重臣 秋山虎繁が、遠山氏の領地に侵入した際に勃発した上村合戦遠山景行は秋山虎繁(信友)の軍勢に破れて自刃[6]。嫡男・景玄も戦死した[6]。景行の嫡孫・遠山一行(与助)が居たが、幼少のために景行の次男で叔父の遠山友治が城主代行となった。

元亀3年(1572年)12月、 武田氏の西上作戦が開始されると、織田方となっていた遠山氏は攻撃を受け、岩村城は降伏。このときに明知遠山氏の一族が相模に行き北条氏に仕え武蔵遠山氏となったという説がある。ただし武蔵遠山氏の初代は景行のおじ・直景で、彼が東国へ移動した理由は不詳である。

天正2年(1574年)、武田勝頼の家臣山県昌景の侵攻で明知城は陥落し(明知城の戦い)、景行の次男で城主代行の遠山友治も討死にした[7][8]。友治も討死にして累代が絶えたことから、家臣一同が相談して遠山利景(勘右衛門)が、飯高山満昌寺の住持から還俗して跡を継いだ[6]。天正3年(1575年)の長篠の戦いで武田氏が衰退し織田方の攻勢で利景は小里城を落とし、明知城も明知遠山氏の下に戻った[6]。(東濃の戦い)

しかし天正10年(1582年本能寺の変後、羽柴秀吉についた森長可苗木城遠山友忠を追い東美濃を制圧、これをみて利景は妻の実家である足助鈴木氏を頼り、一行とともに三河足助城へ逃れた。小牧・長久手の戦いのなかで一時的に利景は明知城を奪回したが、和睦により森氏に返還されてしまった。その後、遠山一行・利景は家康に従った[6]

天正13年(1585年)、一行が依田康国の下で小諸城を守る[9]

天正16年(1586年)冬、利景の養子となっていた一行は、信州から駿府へ向かう途中、甲信国境の平沢峠で大雪のため凍死している[9]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦では、森氏から代わって明知城を領した岩村城田丸直昌が西軍についたため、利景は田丸方の守る明知城を落城させ、その功で戦後に旧領回復を成し遂げて江戸幕府成立後は6531石の交代寄合となり、串原遠山氏が代々家老となった。しかし一国一城令のため、利景の子・遠山方景(勘右衛門)のとき明知城を取り壊し、明知城の大手門前に明知陣屋を構えて本拠地としたが、5代目の遠山伊清の時に江戸常駐の旗本寄合席となり陣屋代官を村上氏に任せて廃藩置県まで継続した。

12代遠山景高は安芸守となりペリー来航時の浦賀奉行を務める。景高の五男信任は高家武田家に養子に入った。方景の孫による分家からは、江戸後期に著名な遠山景元が出ているが、その父は永井氏の出身の養子であり、血縁はない。

明知遠山氏の一族は、松山城を構える伊予松山藩愛媛県松山市)の藩主久松松平氏に仕えたという[10] 。この系統は遠山九字直違家紋を使用している。 なおアール・エフ・ラジオ日本の会長・遠山景久の家の家紋も遠山九字直違である。

旗本・明知遠山氏の知行所

  • 美濃国恵那郡-5,401石5斗6升9合
  • 明知村・高波村・峰山村・馬坂村・落倉村・小杉村・馬木村・門野村・杉平村・野志村・上手向村・久保原村・下手向村・釜屋村・原村・田代村・猿爪村・吉良見村・小泉村・大船村・上田村・大栗村・田良子村・阿妻村・一色村・颪村・柏尾村・岩竹村・安村・土助村・才坂村・浅谷村・須淵村・野原村の中の(上切村・上中切村・中切村・下切村)
  • ※浅谷村・須淵村・野原村は、現在は愛知県豊田市旭町の一部となっている。
  • 美濃国土岐郡-1,130石8斗8升4合
  • 小里村の中の羽広村・山田村の中の曾木村・猿子村の中の一部・戸狩村の一部

家紋

寛政重修諸家譜』 第七百八十七巻によると、景行家は以下と記載されている。

  • 主紋:丸に二引き
  • 替紋:丸に六本格子  補項として「『寛永系図』 丸に九字に作る」と記載有り。

一族

系譜

脚注

注釈

  1. ^ 土岐氏の一族である明智土岐家より譲り受けたという俗説もある(『恵那業書』)。

出典

  1. ^ 『日本城郭大系』[要文献特定詳細情報]
  2. ^ 『東濃雑録』の記載による[1]
  3. ^ 『中津川市史』
  4. ^ 加藤 1926, pp. 153–155.
  5. ^ 黒川 1915, pp. 140–141.
  6. ^ a b c d e 堀田 1923, p. 99.
  7. ^ 加藤 1926, pp. 166–169.
  8. ^ 黒川 1915, pp. 142, 151–152.
  9. ^ a b 堀田 1923, p. 100.
  10. ^ 「遠山譜」記載による

参考文献

史料
  • 『東濃雑録』
  • 『恵那業書』
  • 『花営三代記』
  • 『文安年中御番帳』
  • 「遠山譜」
  • 『伊那旧事記』