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[[1537年]](天文6年)、近辺の14諸将の協力を得て[[金山城 (美濃国)|烏峰城]]を築城するが、これは道三の背景あってのものと推定される。翌年の[[1538年]](天文7年)に正義はこの新城に入城すると、大納言を自称した。
 
[[1539年]](天文8年)8月、画工に命じて等身大の甲冑姿の肖像を書かせたが、これは浄音寺(現・[[可児市]]兼山。正義開基という)に現存し、[[恵那郡]]岩村[[大圓寺 (恵那市)|大圓寺]]住持[[明叔慶浚]]の讃がある<ref>{{Cite book |和書|last= |first= |author= 兼山町史編纂委員会|authorlink= |coauthors= |year= 1972|title= 兼山町史|publisher= 兼山町|location= |page= 59|id= |isbn= |chapter= 斉藤正義鳥峰城創築}}</ref>。
 
[[1548年]](天文17年)2月、配下の[[久々利城]]主[[久々利頼興]]に館へ酒宴に招かれて謀殺された。享年33歳。遺骸は浄音寺に葬られた<ref>{{Cite book |和書|last= |first= |author= 兼山町史編纂委員会|authorlink= |coauthors= |year= 1972|title= 兼山町史|publisher= 兼山町|location= |pages= 61 - 62|id= |isbn= |chapter= 土岐三河守斉藤正義を討つ}}</ref>。烏峰城は頼興の手勢500余人により落城し、頼興の一族の土岐十郎左衛門が留守代とされた。これに対し道三が報復せず、頼興も久々利城に優る烏峰城に自ら入城して正義に取って代わろうとしなかったのは、正義の勢力が拡大し意に沿わなくなったため、道三が配下の頼興を使って謀殺したからではないかという見方もある<ref>{{Cite book |和書|last= |first= |author= 兼山町史編纂委員会|authorlink= |coauthors= |year= 1972|title= 兼山町史|publisher= 兼山町|location= |pages= 62 - 63|id= |isbn= |chapter= 鳥峰城落城}}</ref>。
 
なお、[[1583年]](天正11年)1月、正義の孫、[[加木屋正則]]により頼興は討ち果たされた。