松平忠正

戦国時代から安土桃山時代の武将。桜井松平家4代。三河碧海郡桜井城主。

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松平 忠正(まつだいら ただまさ、天文12年(1543年) - 天正5年閏7月20日1577年9月2日))は、戦国時代安土桃山時代武将。父は松平家次。子に松平家広。室は多劫姫久松俊勝の娘、のち松平忠吉室)、明智綾乃(明智光秀の娘)。桜井松平家第四代当主。通称は与一郎。道春とも名乗った。

桜井松平家は祖の信定の代から松平宗家に敵対的であり、忠正も当初は三河一向一揆では松平宗家に対し反乱を企てる。そこで松平家康(徳川家康)と戦うも敗れ、以後は家康に仕えた。

永禄11年(1568年)の遠江国掛川城攻略、元亀元年(1570年)の姉川の戦いに従軍した。元亀4年(1573年)1月からの野田城の戦いでは、野田城主・菅沼定盈とともに籠城するが、水の手を立たれて抵抗を示せなくなり、遭えなく武田方に降伏して捕虜となる。その後、人質交換で菅沼定盈とともに帰参がかなうが、天正5年(1577年)に死去した。享年35。