横浜DeNAベイスターズ/log20230831
横浜ベイスターズ(Yokohama BayStars)[1]は、日本のプロ野球球団でセントラル・リーグの球団のひとつ。神奈川県を保護地域とし、同県横浜市中区にある横浜スタジアムを専用球場(本拠地)としている。
横浜ベイスターズ | |
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会社名 | 株式会社横浜ベイスターズ |
創設 | 1950年 |
所属リーグ | |
セントラル・リーグ | |
歴代チーム名 | |
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本拠地 | |
横浜スタジアム(神奈川県横浜市) | |
収容人員 | 30,000人 |
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永久欠番 | |
100:貢献著名人 | |
獲得タイトル | |
日本一(2回) | |
1960 | 1998 | |
リーグ優勝(2回) | |
1960 | 1998 | |
成績(タイトル以外) | |
日本シリーズ出場(2回) (太字は勝利した年) | |
1960 | 1998 | |
球団組織 | |
オーナー | 若林貴世志(TBSHD 取締役相談役) |
運営母体 | 東京放送ホールディングス (TBSHD) |
監督 | 田代富雄(監督代行) |
二軍(イースタン・リーグ所属)の球団名は湘南シーレックス。同県横須賀市にある横須賀スタジアムを本拠地としている他、同市内には練習場及び合宿所として横浜ベイスターズ総合練習場を有する。
横浜ベイスターズ本拠地以外の主催試合に関しては、横浜ベイスターズ主催試合の地方球場一覧を参照。
球団の歴史
種類 | 株式会社 |
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本社所在地 |
231-0015 神奈川県横浜市中区尾上町一丁目8番 関内新井ビル7階 |
設立 |
1953年12月16日 (株式会社大洋松竹球団として設立) |
業種 | サービス業 |
事業内容 | プロ野球興行事業など |
代表者 |
オーナー 若林貴世志 代表取締役社長 佐々木邦昭 |
資本金 | 1億円(2008年6月27日現在) |
主要株主 |
東京放送ホールディングス 51.54% (同社の連結子会社) フジ・メディア・ホールディングス 30.77% BS-TBS 17.69% (2009年4月1日現在) |
主要子会社 |
ベイスターズサービス ベイスターズソフト |
外部リンク | http://www.baystars.co.jp/ |
特記事項:1954年12月11日に商号を株式会社大洋松竹球団から株式会社大洋球団に改称。1993年4月に商号を株式会社大洋球団から株式会社横浜ベイスターズへ改称。 |
下関・大阪・京都時代
- 元は大洋漁業(現・マルハニチロ水産)の実業団チーム。1930年代には都市対抗野球大会などに出場、1948年に国体で優勝して一躍名をあげる。
- 1949年プロ野球シーズンオフ、リーグ拡張方針で各企業がプロ野球参加に名乗りを上げ、ノンプロ強豪の大洋漁業野球部からは、戸倉勝城・河内卓司・徳網茂ら主力選手が新球団である毎日オリオンズに引き抜かれた。野球部に情熱を注いでいた中部兼市社長は憤慨し、自社野球部のプロ参加方針を打ち出す。
- 1949年11月22日に「株式会社まるは球団」を設立し、球団名を暫定的にまるは球団とした。セ・リーグに加盟。山口県下関市をフランチャイズ、下関市営球場(現在の下関球場とは別)を本拠地球場とした。
- 1950年シーズン開幕後に大洋ホエールズ(たいよう-)に球団名を改称(3月に会社名を株式会社大洋球団に変更)し、9月には事務所を下関市から東京都千代田区に移転。読売ジャイアンツからベテランの中島治康・平山菊二を、大陽ロビンスから藤井勇・林直明を譲り受け、宇高勲のスカウト活動により、東急フライヤーズから大沢清・長持栄吉・片山博らを、阪急ブレーブスからは宮崎剛・今西練太郎らを補強してスタートしたものの、投手力の弱さは如何ともし難く1年目の1950年は5位に終わり、1951年は6位、1952年は4位と伸び悩んだ。
- 1951年、不採算から経営悪化した広島カープを吸収合併することも検討されたが、広島球団関係者や地元市民らの必死の存続運動もあって広島との合併の話は立ち消えになった。
- 1953年1月10日、「シーズン勝率3割未満の球団は解散」という前年の取り決めの該当球団となった松竹ロビンス[2]と対等合併し大洋松竹ロビンス(たいようしょうちく-)、翌1954年には通称名の洋松ロビンス(ようしょう-)に改名。1953年度は球団の合併・統合が決まりながらも運営会社の完全合併が間に合わず、フランチャイズも大洋球団の下関市と松竹球団の京都市で並立。球団運営も2社で1つのチームを運営するという変則的な形となり、選手の給与もそれぞれの前所属チームから支給された。主催試合は興行面の利点から大阪球場で行われる。1年目のシーズン終了後(12月16日)に球団運営会社が新設合併により正式統合され、事務所も大阪球場内に置かれた。当時の会社名は株式会社大洋松竹球団。
川崎時代
- 1954年12月11日限りで松竹は球団経営から撤退。中部謙吉がオーナーとなる。球団名を大洋ホエールズに戻し、保護地域を神奈川県へ移転。川崎市の川崎球場を本拠とする新生ホエールズとして心機一転。成績は松竹との合併前よりもさらに低迷。明大五人衆の筆頭、エース秋山登が毎年の酷使に耐え抜き、読売ジャイアンツから獲得した青田昇が三度の本塁打王を獲得するも、チーム1954年から1959年まで6年連続最下位。
- 1960年、前年まで西鉄ライオンズの監督だった三原脩を招聘。三原は新人近藤昭仁と、シーズン中に近鉄パールスから獲得した鈴木武で二遊間を固め、秋山や島田源太郎を中心とした投手力を前面に押し出し、前年最下位からのリーグ優勝を果たす。日本シリーズでも毎日大映(大毎)オリオンズ相手に全て1点差勝利でストレート勝ちし、日本一に輝いた。
- 1962年・1964年も阪神と激しく優勝を争うもあと一歩及ばず、その後は優勝から遠ざかることとなる。メガトン打線と呼ばれる強力打線や、近藤和彦・クリート・ボイヤー・桑田武・松原誠・平松政次・ジョン・シピンといった名選手を擁したものの、チームとしての総合的な戦力が低く、チーム勝率は5割を超えることすら珍しかった。
- 読売ジャイアンツの9連覇中、大洋ホエールズは強力な打線で読売ジャイアンツの投手陣を粉砕するが、貧弱な投手陣が読売ジャイアンツに打ち込まれ、大味な打撃合戦に発展することが多かった。当時の読売ジャイアンツに打ち合いで勝てるチームの筆頭は大洋ホエールズだった。それも両翼89m、中堅118mという川崎球場の狭さと無縁では無い。しかし、桑田武やジョン・シピン、松原誠など主軸打者の多くが後に読売ジャイアンツにトレードされていった。
- 1976年、川崎から横浜への移転計画を画策していた大洋球団は、横浜における新球場建設の資金を捻出するため、飛鳥田一雄横浜市長の斡旋により国土計画(現プリンスホテル)の出資を受け入れる。これにより、大洋球団の株式保有率は、大洋漁業55%、国土計画45%となる。
- 1977年、オーナーだった中部謙吉が1月に死去。親会社の大洋漁業は長男の中部藤次郎が、大洋球団オーナーは三男の中部新次郎がそれぞれ継承した。
- 松原・米田といった守備の名手に加え、ボイヤー-シピン-ミヤーンら好守備を誇る外国人選手の活躍もあり、1970年代の大洋内野陣は堅守を誇った。1980代に入っても山下、基のち高木に鉄壁の二遊間は受け継がれてゆく。この頃「セカンドが逆シングル捕球からショートにトス、クィックにワンバウンド送球でランナーアウト。」といったプレイを実際に行っていた。
横浜時代(ホエールズ)
- 1978年、国土計画の主導で横浜市中区[3]に建設した横浜スタジアムに移転[4][5]、都市名を入れた横浜大洋ホエールズ(よこはまたいよう-)に改称。横浜の小学生が入り易いファンクラブの設置[6]など営業体制の改革を伴ったこの改変によりファンが増加した。この年、国土計画が福岡野球株式会社(クラウンライターライオンズ)を買収したため、野球協約に抵触することとなり、同社が持つ大洋球団の株式はニッポン放送とTBSへ2:1の割合で売却された。これより先2002年初めまで、球団株式保有率は大洋漁業(のちにマルハ)55%、ニッポン放送30%、TBS15%となった。
- 1982年、長嶋茂雄を監督に招聘する布石として長嶋と親交のある関根潤三を監督に迎えた。長嶋一茂をドラフト1位指名するなどの経営方針があったが、長嶋招聘は失敗した。
- ジュニアと呼ばれた関根浩史投手の入団について日産球団との交渉が破談した。
- 田尾五打席敬遠(詳細は出来事の項を参照)を行い物議を醸す。
- 1982年10月18日[7] フジテレビジョン『月曜ナイター 大洋×中日』が球団主催試合歴代トップ[8][9]となる番組平均世帯視聴率36.5%を記録する。
- 1983年シーズン途中、タイドウォーター・タイズでプレーしてた若菜嘉晴捕手を獲得。エース遠藤のフォークボールをノーサインで受けるテンポの良い野球が好評だった。
- 遠藤一彦はエースとして連年の200イニング以上登板を記録し、当時読売ジャイアンツに在籍したクロマティからメジャーリーグで活躍できる選手と称された。
- 1985年近藤貞雄が監督に就任。「スーパーカートリオ」(後述を参照)を売り出し注目された。遠藤、斉藤明夫頼みの投手陣は改善されず、チーム成績は振るわず近藤貞雄監督は2年で退任。
- 1987年には広島を4度の優勝に導いた古葉竹識を監督に迎えるが、成績は振るわず。
- 1992年11月11日、親会社の大洋漁業がコーポレートアイデンティティ実施によりマルハに改称することに伴い、横浜大洋ホエールズも地域に密着した市民球団を目指し、球団名を横浜ベイスターズに改称した。翌年4月に会社名も従来の株式会社大洋球団から株式会社横浜ベイスターズに変更。球団名から企業名「大洋」を外し、都市名の「横浜」のみを冠するという方針はCI導入決定時に決まっていたが、改称後の球団名は社内外では当初、愛称をそのまま使用した「横浜ホエールズ」になるという憶測があった。しかし、中部慶次郎オーナーは、かつて大洋漁業の主力事業だった商業捕鯨の規制が強まっていることを指摘し「ウチの会社はもうこれ以上、クジラばかりに頼るわけにはいかなくなった。だから愛称も変更しなければならない」と、社内に新愛称を検討するよう指示。その結果、愛称は「ベイスターズ」となった(「捕鯨をしている会社が球団名に鯨を使っているから祟られて優勝できない」という迷信もあった)。また、ベイスターズの選手がマルハのCMには一切出演しないことが確約された。[10]
横浜ベイスターズ時代(マルハ)
- 1993年、近藤昭仁が監督に就任。この年から始まったフリーエージェント制度により、シーズン終了後に巨人の駒田徳広を獲得。高木豊・屋鋪要・市川和正ら主力選手が大量解雇された。駒田獲得資金捻出の影響などと言われる。
- 1994年、獲得した駒田徳広の他、佐伯貴弘や波留敏夫などを起用して若返りを図るが、混戦のシーズンの中最下位に終わる。
- 1995年、4位ながらも12年ぶりのシーズン勝率5割台を果たす。フロントにおける近藤監督の評価は芳しくなく、この年限りで任期満了退任となった。鈴木尚典が3番レフトに定着。
- 1996年、大矢明彦が監督に就任。4月を首位で折り返し、「セ・リーグの台風の目」と評されながらも5月以降失速、5位に終わる。
- 1997年、権藤博をバッテリーチーフコーチに迎える。シーズン後半に首位・ヤクルトを脅かす急追を見せたもののあと一歩及ばず37年ぶりのリーグ優勝を逃す。勝利への執念が選手に根付き、翌年の快進撃につながる事となった。大矢監督は快進撃をサポートしつつも2年契約を終えオフに辞任。
- 1998年、権藤博が監督に就任。抑えの佐々木主浩を不動の中心とする投手陣と、一度打ち始めると止まらない「マシンガン打線」が噛み合い38年ぶりのリーグ優勝・日本一を果たした。佐々木の愛称にちなみ大魔神社が建立される。10月8日の優勝決定を佐々木は「ベストゲーム」としている[11]。
- 相思相愛の松坂大輔を1位指名したが抽選漏れ。
- 1999年、この年もマシンガン打線が絶好調でチーム最高打率を叩き出すものの、投手陣が三浦大輔の不調や野村弘樹・佐々木主浩の故障などで揃わず、3位に終わる。
- 2000年、金城龍彦が新人王と首位打者の二冠に輝くものの、優勝争いには届かず2年連続の3位。
- ファーム組織を湘南シーレックスと改称し、独立採算を目指した活動を開始する。
- 2001年、森祇晶が監督に就任。この年のみ順位決定方式が異なり、5年連続のAクラス(3位)となった(この年の順位に関しては後述)。
横浜ベイスターズ時代(TBSHD)
- 2002年、開幕から記録的な低迷を続け、森監督がシーズン終了を待たずして休養を余儀なくされる(最終勝率.363)。3年契約の2年目だったが、この年限りで事実上の解任となる。
- 1月26日に親会社(筆頭株主)がマルハからニッポン放送に変更する予定だったが、当時ニッポン放送の関連会社であったフジテレビがヤクルトスワローズ球団株を20%強保有していたため、一転してTBS(現:東京放送ホールディングス(TBSHD))への移行がプロ野球オーナー会議で承認され、球団オーナーが当時のTBS社長砂原幸雄となった(詳細は筆頭株主交代の節を参照)。TBSがスポーツ団体の経営をするのは国際プロレス以来である。これに際し、1978年以降ニッポン放送に独占中継権を押さえられていたため喪失していたTBSラジオの中継権が復活。横浜スタジアムからのナイター中継の他、巨人戦以外の週末のデーゲームを「THEベースボール・ベイスターズ」と題して放送を開始した。同時間帯のレギュラー番組『サタデー大人天国!宮川賢のパカパカ90分!!』(現在の『パカパカ行進曲!!』)ならびに『伊集院光 日曜日の秘密基地』の好調により1シーズンで終了。
- 2003年、待望の生え抜き監督山下大輔が監督に就任。若手重視・攻撃重視の起用がことごとく空回りし、勝率も前年を下回る.324を記録。5位からも22.5ゲーム以上離され(この年の1位と5位のゲーム差は20)、45勝94敗1分という惨憺たる成績で他球団や他球団のファンからは完全にお荷物扱いされる。シーズン90敗到達は日本プロ野球では1970年のヤクルト以来実に33年ぶりであった。
- 2004年、シーズン終了目前まで5位争いを続けるが、最終戦に敗退しカープと勝率0.00092差という超僅差で45年ぶりの3年連続最下位が確定。シーズンオフに一場靖弘への金銭授受の問題からオーナーが砂原幸雄からTBS副社長の若林貴世志に交代。
- 2005年、牛島和彦が監督に就任。不調だった投手陣が復活、4年ぶりのAクラスとなる3位に浮上した。エグゼクティブ・アドバイザーとして石橋貴明(とんねるず)を抜擢、監督・選手とファンとのパイプ役を担わせる等新しいファンサービスを試みた。
- 2006年、投手陣の先発駒不足や二段モーション禁止の影響、主力野手陣の相次ぐ不調・故障などにより、4・5月に低迷。6月以降は、共に福岡県東福岡高校出身である村田修一・吉村裕基若手野手の台頭、牛田成樹など若手投手の起用もあったが、負け越して最下位に終わる。
- 球団側は続投を希望したものの、牛島監督は最下位の責任を取り、シーズン途中の9月3日にこの年限りの退任を発表。森・山下に続き、2年で監督が交代することとなった。
- 4月3日、スポーツ活動を通じて地域貢献を目指すNPO法人横浜ベイスターズ・スポーツコミュニティを設立し、活動を開始した。理事長はOBの平松政次、副理事長は畠山準が就任した。
- シーズンオフには投手陣強化のため、毎年のように故障続きで戦力として計算しにくい多村仁をソフトバンクに放出し、寺原隼人を獲得。数年前から毎年のように移籍が噂されていた巨人の仁志敏久を、小田嶋正邦+金銭のトレードで獲得する。この年チーム唯一の2桁勝利の門倉健が年俸査定に不満を持ち、FA宣言をして巨人に移籍。激動のオフとなった。また「チーム運営統括」というゼネラルマネージャー的ポジションの幹部として日産自動車硬式野球部にて監督を務めた村上忠則が就任。
- 2007年、10年ぶりに大矢明彦が監督に復帰。FA移籍した門倉健の人的補償として、当時215勝を挙げ、43歳にして未だ健在の工藤公康を獲得。移籍組やベテラン勢の活躍により、前半戦は一時首位に立つなど上位を猛追し3位で折り返す。後半戦は連敗もあり借金を作るが、最終戦前で返済。
- 2008年、阪神キラーの三浦を開幕投手に欠くと、開幕カードの阪神戦を3連敗する。その後も低迷を続け、2年ぶりの最下位に終わった。この年に飛躍した内川に加えて、村田・吉村の強力クリーンアップをもってしても投手陣が壊滅的で最下位に沈む。内川の打率(.378)がチーム勝率(.338)を上回るという2リーグ分裂後では初となる珍記録も記録された。
- CS放送の本拠地での中継権利をJsportsからTBS運営のTBSニュースバードに移行。
- 2009年、WBCでの村田の離脱や、開幕6連敗など成績面で不振が相次ぐ。5月18日、大矢監督の無期限休養を発表(事実上の解任)。同19日からはこれまで二軍監督を務めていた田代富雄が監督代行を務める。
チーム成績・記録
- リーグ優勝 2回
- (1960年、1998年)
- 日本一 2回
- (1960年、1998年)
- Aクラス 15回
- (1960年、1962年、1964年、1969年〜1971年、1979年、1983年、1990年、1997年〜2001年、2005年)※1
- Bクラス 44回
- (1950年〜1959年、1961年、1963年、1965年〜1968年、1972年〜1978年、1980年〜1982年、1984年〜1989年、1991年〜1996年、2002年〜2004年、2006年〜)
- 最多勝 80勝(1964年)
- 最多敗 99敗(1955年)
- 最多引分 17分(1979年)
- 最高勝率 .585(1998年)
- 最低勝率 .238(1955年)
- 最多連敗 14 (1955年、2008年)
- 最長試合時間 6時間13分(1998年8月9日対広島戦)
- 連続Aクラス入り最長記録 5年(1997年〜2001年)
- 連続Bクラス最長記録 10年(1950年〜1959年)
- 通算4000敗 (2007年4月4日の対広島戦で、2リーグ制発足後最速の記録)
- ※1 2001年のセ・リーグの順位は、勝率順ではなく、勝利数順のため、勝率の場合はBクラス(4位)になっていた。
その他の記録
- 最小ゲーム差 1.0ゲーム(1964年)
- 最大ゲーム差 61.5ゲーム(1955年)
- 最多本塁打 194本(2004年)
- 最小本塁打 51本(1955年)
- 最高打率 .294(1999年)
- 最低打率 .208(1956年)
- 最高防御率 2.31(1971年)
- 最低防御率 4.94(1977年)
チームの特徴
球団名
- 第二次世界大戦中に存在した大洋軍とは名前が同じだけで、繋がりは全くない。
- 以前の愛称「ホエールズ」は親会社・大洋漁業のかつての主要業務が捕鯨だったことに由来する。
- 現在の愛称「ベイスターズ」は「横浜ベイブリッジ」と「星」とを組み合わせた。日本人が考えた造語で、英語の母語話者には通じないらしく、『ジャパンタイムズ』等の国内発行の英字新聞ではしばしば「'Stars」と略して表記される。アメリカのプロスポーツチームの本拠地ではグリーンベイ、タンパベイなど、湾を意味するベイが入っている地名があるため、一部のアメリカのメディアではチーム名が「ヨコハマ・ベイスターズ」ではなく「ヨコハマベイ・スターズ」として認識されることもしばしばある。
- 改称時、愛称が「B」で始まる球団が既にオリックス・ブルーウェーブ(略称・BW)と近鉄バファローズ(略称・Bu)の2球団存在していたため「Yokohama BayStars」の「YB」を略称としている。オリックスと近鉄は2005年シーズンより合併しオリックス・バファローズ(略称・Bs)となっているため、愛称が「B」で始まる球団の重複状態は現在も続いている。
マスコット
- 球団マスコットは頭が星形のキャラクターたちである。
- ホッシー - 背番号は登場年に因み1993。瞳が偏っているホッシー(ニューホッシーとも)もいる。背番号2001。
- ホッシーゾ - ホッシーの息子。背番号1993。
- ホッシーナ - ホッシーの娘。背番号1993。
- ブラックホッシー - 黒いユニフォームの背中に「マスコット命」、サングラスの下に充血した目という謎のキャラクター。TBSの野球番組『好プレー珍プレー』の番組内企画で生まれたジョークマスコット。中の(スーツアクター)は以前に阪神タイガースマスコットの「トラッキー」のアクターとしてその派手なパフォーマンスが人気を集めており、「流星ジャンプ」に代表されるハチャメチャなアクションで絶大な人気を得た。球団としてもグッズ製作に乗り出そうとした矢先の2004年オフ、「中の人」が東北楽天の「非公認」マスコットMr.カラスコの「中の人」として引き抜かれたことで消えた。この時「ブラックホッシー獲られちゃったよ…」と肩を落とした横浜の峰岸球団社長だけでなく、佐伯貴弘(中の人に横浜入りを勧めたとも言われている)や三浦大輔、果ては若林オーナーまでもが失意のコメントを残している。横浜スタジアムで開催された2008年のオールスター第2戦で復活を果たしている。
- 球団のマスコットではないが、横浜スタジアムではTBSのマスコットである「BooBo(ブーブ)」とTBSラジオの番組であるエキサイトベースボールのマスコットである「エキベ〜」が登場する。
応援スタイル
トランペット・ドラム(太鼓)・選手別応援歌・応援メガホンやバットの使用・ユニフォーム着用などは他球団の多くと同様だが、トランペットなどの楽器は応援には珍しい二重奏を用いている。独特な旋律は応援歌の枠を超えて他球団ファンにも人気がある。移籍して入団する選手が口を揃えて「横浜のファンは大人しい(紳士的)」と言うなど、他球団の野次合戦とは一線を隔し応援についての申し合わせを遵守している。
以下は2009年時点のもの
- 本拠地・横浜スタジアムでは試合前イベントの時間を確保する都合上、スタメン発表時に応援歌演奏(1-9)を並行して行っている(メンバー発表→応援歌演奏→メンバー発表→応援歌演奏…の繰り返し)。このスタイルは相手チームも同様に行っている。
- 得点時には「熱き星たちよ」が演奏される。ホームラン時、勝利時にはその前にファンファーレが演奏される。
- 代打登場時には1回だけ代打のテーマが演奏される。佐伯貴弘・村田修一については、代打で登場した場合でもファンファーレが優先される。
- 投手の打席では投手用のテーマが演奏されるが、三浦大輔の打席に限り固有のテーマが演奏される。なお、2009年からはグリンも固有のテーマが演奏されている。過去には斎藤隆・野村弘樹・マホームズに対しても固有のテーマが演奏された。
- 以前は選手別応援歌CDが発売されており、これらの曲が用いられていた。近年入団した選手では応援団が作成したテーマや、過去のあまり使用されなかった選手のものを流用するなどしている。
- チャンステーマ演奏時や太鼓が使用できない神宮球場では、応援メガホンやバットを用いず手拍子での応援が行われている。
- 7回の攻撃時には、ホームでは「熱き星たちよ」の映像が流され、ビジターでは「WINNING」が応援団により演奏される。多くの球団で行われているジェット風船は横浜スタジアムで禁止されているため、ファンの間で浸透性が少ないこともあり、ビジター・地方球場でも(勝利時も含めて)飛ばすファンは少ない。
- アウトコールは9回以降にリードしている場面に限り行われる。
- 2007年より試合時、1-9の前にファンファーレが演奏されるようになった(初期のころはビジターのみ、ファンファーレは「勝利の輝き」のサビの部分)。
- トランペット、及び笛の使用が禁止されている宮城球場では、メロディー部の口喇叭を含め応援歌の歌唱をアカペラで行う。ヒットによる出塁や盗塁時に「いいぞ いいぞ ○○(人名)」を、四死球や野手選択など相手のミスによる出進塁時に「Let's Go Let's Go ○○(人名)」を通常の三三七拍子に変えてコールする。宮城球場以外でも、鳴り物応援を自粛する夜10時以降にはこの応援を行う。
戦績
- 現存するセ・リーグ6球団の中で、シーズン勝率が6割に達したことがない唯一の球団である。最高勝率は1998年の.585。
- 生え抜き監督が少ないため(後述)、現存するセ・リーグ6球団の中で唯一生え抜き監督によるリーグ優勝がない。
- 日本シリーズに出場は2回しかないが、現存の12球団のうち、出場していない楽天を除く11球団の中で唯一シリーズ敗退が無い。
- 現存するセ・リーグ5球団全てに対して通算対戦成績が負け越している。セ・リーグ発足時には同じ弱小チームだった広島東洋カープや東京ヤクルトに対しても、前者には1960年代までは勝ち越していた時期があったが、70年代中盤に入ってからの広島黄金期樹立により、逆転(初のリーグ優勝した1975年から10年連続の負け越しを喫した)し、後者に対しても1980年代には6シーズンも勝ち越す(1981年、84年、87年はタイで、負け越したのはヤクルトが昭和最後のAクラスシーズンでもあった1980年だけ)等1979年時点では5つ負け越していたのを逆転したが、1990年代のヤクルト躍進と21世紀に入ってからの横浜の低迷によって勝敗が再逆転した(特に1993年には4勝22敗と大きく負け越し、90年代全体の負け越しの半分以上を占めた)。[12]
営業・ファンサービス
- 以前は巨人戦のみ内野自由席を指定席として販売していたが、2005年以降行われていない。
- 200?年から、レフト側外野指定席の一部を対戦カード別年間指定席として発売するようになった。2007年は三塁側内野指定席の一部についても「ビジターシート」として対戦カード別年間指定席が発売された。
- 2005年から、横浜スタジアムの可動席前(一・三塁付近)にあったネットが撤去された。選手とファンとの距離感が縮まり、試合前や勝利時には選手とのコミュニケーションが取れるようになっている。この付近の席に人気が集中したため、2006年からFA席・FB席新設という形で事実上のチケット値上げが行われた。
- 試合前・試合中に行われるイベントの種類・回数はかなり多く、攻守交代時のうち半分程度は何らのイベントが行われている。
- 以下は2007年時点のもの
- スピードガンコンテスト(試合ごとに異なる募集形式で選ばれた10名がマウンドから投げる、ホーム最終戦はマスコミ記者対抗戦が行われるのが恒例。読売新聞関連の記者には必ずブーイングが起こる)
- スタプリタイム(オーロラビジョンを使用した写真撮影、試合前と試合中に数回ずつ)
- ベイスターズバズーカ(客席に子供向けのシャツやカラーボールを発射、試合中に3〜4回程度)
- ハマスタダンスコンテスト(5回裏終了後。オーロラビジョンを使用したダンスコンテスト、一番多く映った人に賞品が送られる。賞品は2006年がグローブ、2007年がデサント提供の年間指定席ペア招待券)
- 帽子の投げ入れ(勝利した場合のみ)
- 第二ヒーローインタビュー(試合勝利後に正面レストラン外に設置されたテラスから、影のヒーローなどを中心にインタビューが行われる。球場の外からテラスを見上げる形になり、当日試合を見られなかった人も勝利の余韻に浸ることが出来る。)
- 横浜スタジアムでは交流戦と相手チームのマスコットが来場している時、ならびに(本球場での)同一カードシーズン最終戦に限り、7回にビジターの応援歌が流れる。
株主構成
- 株式会社東京放送ホールディングス 47万株(51.54%・BS-TBS保有分と合わせTBSグループとして69.23%保有)
- 株式会社フジ・メディア・ホールディングス 34万株(30.77%・旧法人としてのニッポン放送保有株)
- 株式会社BS-TBS 23万株(17.69%)
上記三社で事実上の株主比率は100%にはなるが、極わずかながら株式会社アール・エフ・ラジオ日本も株を持っている。
フジ・メディア・ホールディングス(フジテレビの親会社)は東京ヤクルト球団株の20%程度かつ横浜球団株30.77%を保有し、日本テレビは巨人の球団株を保有しながらアール・エフ・ラジオ日本に出資しているため、これらの横浜球団株を、全株TBSグループに売却することを検討しているが、実行されていない。
TBSホールディングスがオーナーでありながら、TBSグループ(地上波)での対巨人戦以外の試合の中継はめったに行われない。巨人戦以外は視聴率および聴取率が取れない事にも起因している。通常はテレビ神奈川が単独で放送し、同局で放送しないデーゲーム分のみ、自社またはテレビ東京系列(対中日戦はテレビ愛知、対阪神戦はテレビ大阪)の中継で補っている。フジテレビも放映権は保有しているが、現在は同局では放送せず、対戦相手の地元系列局(対阪神戦は関西テレビ、対ソフトバンク戦はテレビ西日本)制作中継のために行使しているのが現状である。ラジオ中継は、株主上位2社(TBSラジオ&コミュニケーションズ・ニッポン放送)が基幹局を務めるJRN系、NRN系において裏送りも含めて中継している。主に、巨人戦が雨天中止になった時の予備カードや、巨人戦が ないときに放送される。
その他
- 監督にチームの生え抜きOBは少なく、在籍経験がないか、あっても短いいわゆる「外様」が多い。株主であるニッポン放送・フジテレビやTBSの解説者より監督を迎える傾向にあったことによる。歴代の生え抜き監督は秋山登・土井淳・江尻亮・近藤昭仁・山下大輔の5人(代行を含めても田代富雄を加えて6人)しかいない。
- 監督の平均在任期間が短い。2006年までの56年間に延べ26人で平均は2.2年。通算5年以上監督を務めたのは三原脩と別当薫の2人にすぎない。短命続きが長期的なチーム作りの障害になっているという声もある。
- 1998年の優勝前後に複数年契約を連発し失敗したことへの反省から、契約は単年契約を基本としている。
- 球団関連会社から『月刊ベイスターズ』というファンマガジンを発売(毎月25日)している。やくみつる・山本哲士といった辛口のコラムニスト陣が球団を容赦なく批判することで有名。漫画家のみずしな孝之は『月刊ホエールズ』(当時)への投稿がきっかけで漫画家デビューし、1999年に連載復帰、今も続いている。
- 毎年、他球団に比較して試合消化が遅い。雨天中止などによってヤクルト戦がよく流れ、シーズン終了間際にまとめて組まれる事がある。屋外球場でも瀬戸内側にある阪神甲子園球場や広島市民球場に比べて関東は雨が降りやすいことや、収入面での影響が大きい巨人戦や阪神戦は多少の雨でも強行することなどが要因として挙げられる。
- 1970年代から2000年代前半にかけて、牛込惟浩を中心としたスカウト陣によりスチュアート、クリート・ボイヤー、ジョン・シピン、フェリックス・ミヤーン、ラム、ピータース、カルロス・ポンセ、ジェームス、ジム・トレーシー、ジム・パチョレック、レイノルズ、シーツ、マイヤー、ロバート・ローズ、グレン・ブラッグス、タイロン・ウッズら、結果を残した外国人野手を次々と獲得した。
- 2000年代から、捕手出身監督(森祗晶・大矢明彦)が就任しては、正捕手(谷繁元信・相川亮二)にFA移籍されてチーム成績の壊滅的な低迷を招き、シーズン途中での指揮官交代を余儀なくされている。
ユニフォームの変遷
- 1950年〜1951年 白は「WHALES」。グレーは「Whales」と「WHALES」を併用。白とグレーの「WHALES」は球団ロゴが左胸についたシールズ型。
- 1951年 ロゴが筆記体の「W」に変更される。同時にビジター用の定番となる「TAIYO」の印が初登場。
- 1952年 胸に「TAIYO WHALES」と書かれたビジター用が登場。この年監督に就任した小西得郎がピッツバーグ・パイレーツのビジター用(胸ロゴが「PITTSBURGH」)を参考にしたものである。このフルレターユニフォームはシーズンオフに松竹ロビンスと合併したため1年しか使われなかったが、1959年に1年だけ復活している。
- 1953年 松竹ロビンスと合併し大洋松竹ロビンスに名称変更。黒いロゴと赤いロゴはホーム用で春・秋用。ノースリーブで赤いロゴのユニフォームは夏用だった。ビジター用は「Taiyo Shochiku Robins」の頭文字を取って筆記体で「TSR」。
- 1954年 球団本体がようやく合併し洋松ロビンスとなる。ホーム用とビジター用は同じデザイン。
- 1955年 大洋ホエールズが復活。同時にロゴの中に線が入ったおしゃれなユニフォームが登場。左袖に「KANAGAWA」の印が入る。
- 1955年〜1958年 ブルックリン・ドジャースを参考にしたユニフォームに変更。左袖のワッペンは最初は「KANAGAWA」だったが、1957年から親会社の「まるはマーク」に変更。
- 1959年〜1962年 クリーム地に橙色の「Whales」ロゴ。1960年から地色が白となり、胸番号が入る。1961年には左袖にチャンピオンマークが入る。
- 1963年 1年間だけ白地に赤の「Whales」ロゴ(黒い縁取り入り)。ビジター用の「TAIYO」のロゴが太くなり、ラインがオレンジ色から赤に変更される。
- 1964年〜1972年 白地に黒の「Whales」ロゴ(赤い縁どり入り、レターが逆転)。1968年に帽子の印が筆記体の「W」となる。この「W」の書体は、当時のワシントン・セネタースの帽子と同じ。2005年には、ワシントン・ナショナルズの帽子として復活した。背中に名前が入るのもこのユニフォームからである。ホームゲーム用は「KAWASAKI」と本拠地の川崎市を意味する英文字が、ビジター用は選手の英文字がそれぞれ使われた。最初、東京オリンピックで来日した外国人選手が、大洋のホームゲームのナイター中継を観て「このチームは全員、KAWASAKIという選手なのか?」と言ったという。
- 1973年 白地でオレンジ色のロゴが1シーズンだけ復活。背番号の上の「KAWASAKI」(ビジター用のみ)もこれが最後。
- 1974年〜1977年 基本カラーが湘南電車カラーと呼ばれたものになる(経緯については後述)。
- ホーム用は、白地でないものを採用。オレンジ色地に緑の「Whales」ロゴが入ったユニフォームを使用。
- ビジター用は緑地に橙色「TAIYO」ロゴとなっている。
- 1977年後半から、袖の「丸に『は』(まるは)」マークが「鯨に乗った少年」のイラストに変更。
- 1978年〜1992年 本拠地が川崎から横浜への移転を期に、球団名が「横浜大洋ホエールズ」となり、チームカラーが紺一色になる。
- 1993年〜 2008年 チーム名が横浜ベイスターズとなり、ユニフォームを一新。チームカラーのマリンブルーと呼ばれる青[13]を基調とし、スパイクも青地に白ラインとなる。ユニフォームは第3ボタンまで脱着可能(後は飾りボタン)のプルオーバータイプとなる。背番号、胸番号、選手名は日本球界で初めてカッパー・プレート・ゴシックと呼ばれる製版業で使われる書体を採用。。途中若干のマイナーチェンジはあったものの、球団史上最も長い16シーズン採用されたデザインとなった。
- ホーム用は、白地に青のピンストライプ。青地に白の縁取りの「BayStars」のロゴ。胸番号、背番号は黒、選手名は青となる。
- ビジター用は、上着が青、パンツが白で、袖とパンツに2本ライン(上着は白、パンツは青)が入る。胸ゴロは白ので「YOKOHAMA」の文字とβの印、選手名、背番号、胸番号は白。
- 2009年〜 横浜開港150周年に合わせてホーム・ビジターとも一新。ホーム用はピンストライプがなくなり、左胸に「β」の印、右腹部に背番号。「BAYSTARS」のロゴがパンツの左側ラインに入る。両肩に星マークが入り胸元にyokohamaの頭文字にちなみ「Yネック」を採用。ボタンがないプルオーバータイプで、新素材を採用、さらなる軽量化を行った。ビジター用は灰色の下地に白のピンストライプ、前面に筆記体の「Yokohama」の文字、左腹部に背番号。ホーム用同様「Yネック」。ホーム・ビジターとも2005年・06年の交流戦で使用されたユニフォームがベースとなった。アンダーシャツ、ベルト、スパイクの色は紺色になった。帽子のマークも過去の交流戦・サマーユニフォーム同様紺地に「β」のみとなり、球団改称以来使用していた星がなくなった。ビジター用のみツバの色が青色。
交流戦限定ユニフォーム
- 2005年〜2006年 ホーム用はピンストライプがなくなって左胸には「β」の印、右袖に背番号。TBSのロゴが入った。ビジター用は灰色の下地に前面に筆記体で「Yokohama」の文字、ホーム用と同じく右袖にも背番号。
- 2007年〜2008年 ホーム用のみとなり、チームカラーの青を一切使わない紺ベースのユニフォーム。左胸には「β」の印、右胸に背番号が紺に金の縁取り。両脇には横浜赤レンガ倉庫をイメージした臙脂色が用いられる。楽天の交流戦ユニフォーム(ホーム用)と非常に良く似ている。
- 2009年は登場せず。
夏季限定ユニフォーム
2004年から毎年夏季限定ユニフォームを採用している。いずれも8月主催試合でのホーム用のみ。
- 2004年〜2005年は白の下地の前面に「BayStars」のロゴが入り脇下が青で西武ライオンズのデザインと非常に似ていた。両年とも期間終了後に選手のサインをいれファンへプレゼントされる。背番号の氏名ローマ字は記載されていない。
- 2006年〜2007年は白地の前面にブロック体で「BAYSTARS」の刺繍、その左上の方に背番号、左肩に「yokohama」、背中には背番号のみで首周りは青色で肩付近にかけてマリンブルーにし、帽子はマリンブルー地に「B」のみ。「ベータ・キャップ」と称される。
交流戦・夏季限定ともに、2年ごとにデザインが変更される予定である。[14]
ユニフォームスポンサー
- いずれもホームゲーム用。太字斜線は現在掲出中のスポンサー。
左胸
袖部分
ズボン
ヘルメット
歴代本拠地
- ※本来は旧松竹ロビンスの本拠地衣笠球場と旧大洋ホエールズの本拠地下関球場のダブルフランチャイズだったが、実質的には旧松竹の準本拠地とされていた大阪球場の方が集客能力が高いということで、使用頻度が多くなった。
歴代監督
※太字は優勝達成監督。
※斜字は生え抜き監督。
- 渡辺大陸(1950年)
- 中島治康(1951年)
- 有馬義一(1951年)
- 小西得郎(1952年-1953年)※1
- 永沢武夫(1954年)
- 藤井勇(1955年)※2
- 迫畑正巳(1956年-1958年)
- 森茂雄(1959年)
- 三原脩(1960年-1967年)
- 別当薫(1968年-1972年【第1次】)※3
- 青田昇(1973年)
- 宮崎剛(1974年)
- 秋山登(1975年-1976年)
- 別当薫(1977年-1979年【第2次】)※4
- 土井淳(1980年-1981年)※5
- 関根潤三(1982年-1984年)
- 近藤貞雄(1985年-1986年)
- 古葉竹識(1987年-1989年)
- 須藤豊(1990年-1992年)
- 江尻亮(1992年)
- 近藤昭仁(1993年-1995年)※6
- 大矢明彦(1996年-1997年【第1次】)
- 権藤博(1998年-2000年)
- 森祇晶(2001年-2002年)※7
- 山下大輔(2003年-2004年)
- 牛島和彦(2005年-2006年)
- 大矢明彦(2007年-2009年【第2次】)※8
歴代オーナー
- 100-球団に対して貢献のある著名人(複数)
顕彰
横浜ベイスターズでは、通算2000本安打、通算200勝、250セーブを記録した選手に対し、球団より貢献者として顕彰される。各人物は、横浜スタジアムの外野フェンス右翼部分にレリーフを飾り顕彰している。現在の対象者は以下の通り。
球団歌
- 熱き星たちよ(球団歌)
- 勝利の輝き(応援歌)
- 若き王者たち(公式ソング)※湘南シーレックス
- Searex Horizon(公式テーマ)※湘南シーレックス
過去に使用された球団歌
- 行くぞ大洋(球団歌)(歌:三鷹淳とチャッピーズ)※大洋・横浜大洋時代
- 勝利花(応援歌)(歌:三鷹淳とチャッピーズ)※大洋・横浜大洋時代
- 横浜Boy Style(イメージソング)(歌:CoCo)
- WINNING(応援歌)(歌:CoCo)
- BE A HERO(公式ソング)(歌:クレイジーケンバンドfeat.小野瀬雅生)※2006年まで
主なキャンプ地
- 山口県・下関球場:1950、1952
- 兵庫県・神戸銀行グラウンド:1951
- 兵庫県・明石球場:1953、1960~1961
- 長崎県・大橋球場:1954
- 鹿児島県・鴨池球場:1955、1957~1958
- 千葉県・銚子球場:1956、1962
- 岡山県・岡山球場:1956
- 静岡県・三保東海大グラウンド:1959~1961
- 愛媛県・松山球場:1959
- 静岡県・島田球場:1972~1973
- 静岡市・草薙球場:1963~1971、1974〜1979、1981〜1986の1軍キャンプ、(1981・1987~1989の2軍キャンプ)、他
- アリゾナ州メサ市・ホホカム球場:1980〜1981の1軍キャンプ
- 宜野湾市・宜野湾市立野球場:1987~
- 神奈川県・横浜ベイスターズ総合練習場:1990~
- 沖縄県・嘉手納町野球場:湘南シーレックス
出来事
セ・リーグ最長イニング記録
1952年9月7日に西京極球場で開いた松竹との対戦(ビジター)でセ・リーグの当時の最長イニング記録である延長20回(1-2x敗戦)を戦い抜いた。
38年の空白
大洋ホエールズとして1960年に初優勝を果たした後、1998年まで優勝から遠ざかった。
1964年は終盤まで阪神タイガースと首位争いをしていた。残り2試合で1勝すれば優勝だったが、敵地甲子園での阪神戦だったため、降った雨はごくわずかだったが阪神側の意向で中止になったという(試合開始前の開催か中止かの判断は主催チームが行う)。その後、阪神は9連勝で逆転優勝を果たした。優勝を決めたのは8連勝目の中日ドラゴンズ戦。
当時大洋の正捕手として活躍していた明大五人衆の一人、土井淳は「1962年(この年も終盤まで阪神と競り合いながら優勝を逃している)と1964年のどちらかに優勝していたら、38年も優勝から遠ざかることはなかったと思う」と語っている。
荒川事件
1969年のドラフト会議での早稲田大学野球部の荒川尭に対する大洋の強行指名が発端となって起きた、プロ野球ドラフト史上最大とされる事件。
荒川は当初入団を拒否、その後の経過の中では熱狂的な大洋ファンと目される者による荒川への傷害事件まで発生するに至る。後に荒川は形式的に大洋に入団し、サンケイに移籍してプロ野球選手として活動するも、傷害事件の被害の後遺症と言われる視力障害により早々に選手生命を絶たれる結果となってしまった。
この事件が原因となって、大洋ホエールズ時代はもとより、横浜ベイスターズとなってからも2008年まで早稲田大学在籍の選手をドラフト指名する事はなかった。
湘南電車カラーのユニフォーム
1974年-1977年のシーズンに使用されたユニフォームのこと。ホーム用は橙色、帽子とビジター用は緑色を使用していたため、当時の国鉄の湘南電車を髣髴とさせるその配色から「湘南電車カラー(湘南カラー)」といわれた。
このユニフォームが採用される契機になったのは山下大輔の入団である。当時の大洋は草薙球場でキャンプを行うなど静岡とのつながりがあった。そこに静岡県出身の山下がドラフト1位で慶大から入団。当時ヘッドコーチだった秋山登が「静岡名産のミカンとお茶を題材にしたユニフォームは出来ないものか」とオーナーの中部謙吉に提案したところ、中部も「食品会社としてイメージアップにつながる」と了承、その結果橙色と緑を使ったユニフォームが完成した。具体的なデザインは、オークランド・アスレチックスの当時のユニフォームを参考にしている。
田尾五打席敬遠
1982年、長崎慶一(当時「啓二」)は首位打者争いでトップを走っていたが、中日ドラゴンズの田尾安志は長崎に6厘差で迫っていた。
中日にとってはシーズン最終戦となる大洋対中日戦で大洋は田尾に対し5打席連続敬遠を行った。この大洋の行為に対し田尾は五打席目で抗議の意味を込めた空振りを行った程であった。一方の長崎はこの試合を含め欠場し、最終的に長崎は首位打者となった。[15]
この試合は長崎と田尾の首位打者争いよりもはるかに重要な意味がある試合であった。この試合が行われる前の時点で中日は全日程を終了していた読売ジャイアンツとゲーム差0で並んでいた為、中日が勝てば中日の優勝。大洋が勝てば巨人の優勝とリーグの優勝が掛かった大一番だった。
大洋は先頭打者での敬遠で走者となった田尾をあっさりホームへ返してしまうなどこの試合に大差で敗れ、中日の優勝が決まる事となった。
当然この大洋のチームの勝利よりも個人の記録を優先した行為に納得出来るファンは殆どおらず、試合後「回の先頭打者である田尾へ敬遠した大洋の行為は敗退行為[16]ではないか」と連盟に抗議が集中する事態となった。
抗議は一段落した後も世論はこの大洋の行為に「アンチ巨人だが、さすがにあれは巨人ファンに同情した。」「中日ファンとして素直に喜べない優勝になってしまった」等疑問を投げかけ、宇佐美徹也は著書『プロ野球データブック』で大洋の行為を糾弾した。
当時の監督だった関根潤三は、その後フジテレビの野球解説者として、同局の解説者となった田尾と再会し、「当時の大洋では個人成績だけがニュースになる状態だった」と、敬遠へと至った経緯を説明、「時々あの敬遠の場面を夢に見て目を覚ますことがある」とも打ち明けた。これ以降関根と田尾との関係が修復された。
1995年のオールスターファン投票
1995年、この年のオールスターゲームが横浜スタジアムで開催される事になり、ゲームを盛り上げるために当時の球団社長らが率先してファンに対してファン投票への参加を呼びかけた。これが大量の「組織票」を発生させる結果となってしまい、横浜からは佐々木主浩・駒田徳広・ロバート・ローズ・佐伯貴弘・グレン・ブラッグス・畠山準の6人が選出されたのに対して巨人・阪神の両人気球団からは1人も選ばれず、批判の的となった(他の3名はヤクルトの古田敦也と広島の江藤智、野村謙二郎)。特に佐伯と畠山に至ってはノミネートこそされていたものの、選出時点ではスタメンを波留敏夫や鈴木尚典に譲ることが多く、レギュラーとは言えなかったため当人たちも困惑気味だった。
試合では普段は抑えの佐々木が先発し、誰にも踏み荒らされていないマウンドで投球するという珍しい光景が見られた。
プロ野球脱税事件と緊急補強
1997年、プロ野球選手による脱税が発覚し、横浜からは波留敏夫、万永貴司、川崎義文、米正秀の4名が関わっている事が分かった。特にリードオフマンで特攻隊長的役割を担っていた波留の離脱が予想されることは、優勝争いを行う上でも大きな痛手となるため、外野手の補強が急務となった。そこで、先発転向後2年間結果が出なかった盛田幸希とのトレードで近鉄から中根仁を獲得した。開幕当初こそ井上純やホセ・マラベなどがスタメンに名を連ねていたが、中根は「左殺し」として左投手先発時のスタメンや、左投手への代打の切り札として1998年の優勝に貢献した。波留も6週間の出場停止が解けると、二軍での調整も一切禁じられていた球団の方針だったにも関わらず、権藤監督によりぶっつけ本番でスタメン復帰する。復帰当初こそ無調整の状態からなかなか結果を残せなかったが、その後調子を取り戻し7月には月間MVPに輝くなど、奮起した。当時のヒーローインタビューでは「今日のヒーローは波留選手です」というインタビュアーの声と同時に「ヤッター」と自らを鼓舞させ、脱税事件の反省をしたのか感涙と戒めの男泣きを憚り無くお立ち台で見せた。
史上初3度のサイクル安打
日本プロ野球でサイクルヒットを複数回達成した選手は藤村富美男、松永浩美、ロバート・ローズの3人しかいない。藤村、松永は2度達成して現役を退いた。
ローズはこれを3回達成した。1995年5月2日の中日戦で単打、2連続二塁打、本塁打、三塁打の順で、1997年4月29日のヤクルト戦で本塁打、二塁打、2連続単打、三塁打の順で達成した。3度目は1999年6月30日の広島戦。二塁打、(四球)、単打、三塁打、そして本塁打の順で安打を放ち、日本新記録となる3度目のサイクル安打を決めた。
2001年と2005年の順位
2001年からセ・リーグの順位決定方法が変更された。勝率1位のチームと勝ち数1位のチームが異なる場合はその両チームによるプレーオフでリーグ優勝チームを決めることにした。
その初年度の2001年、横浜は69勝67敗4分けで、広島は68勝65敗7分けでシーズンを終えた。勝率は横浜.507、広島.511。前年までの順位決定方式なら広島が上位になるところが、この年は「勝率の順位と勝利数の順位が異なる場合は、勝利数を優先して順位を決定する」とリーグアグリーメントで決めていた。このため勝ち数で上回っている横浜が3位に入り、5年連続でAクラス入りした。この順位決定方式はシーズン中の勝利数が経過試合数が多いという理由で上位とされることがあるため、実態が分かりづらいなどの理由からわずか1年で「勝率優先」に戻した。
2005年は順位決定方法が勝率順に戻っていたため、69勝(70敗7分け、勝率.496)の横浜が3位、71勝(73敗2分け、勝率.493)のヤクルトが4位となった。
筆頭株主交代
2001年11月16日、経営が悪化していた当時の親会社・マルハが球団株の第2位の株主だったニッポン放送への球団株譲渡(身売り)を発表、NPBも一旦はこれを認めた。ところが10日以上も経ったところで読売ジャイアンツ渡邉恒雄オーナーが「ニッポン放送の持分法適用関連会社であるフジテレビがヤクルトスワローズの球団株を所有しており、横浜球団のニッポン放送への売却は野球協約に抵触する」と異議を申し立て、これをきっかけにニッポン放送への球団株売却は頓挫。最終的に第3位株主のTBS(現:TBSホールディングス(TBSHD))に譲渡された。この際、TBSがもともとベイスターズの株主企業のひとつだったことから「筆頭株主の交代」という判断が下された。この判断により野球協約に規定されている新規加盟料30億円の支払いは不要とされた。2009年にはTBSが認定放送持株会社「TBSホールディングス(TBSHD)」に移行した為、球団の株主もTBSHDに移行された。
それまでの球団の身売りは球団名からユニフォームまで一新されるケースばかりだったが、横浜のケースは球団名もユニフォームもそのまま残された。[17]変わったところは、ユニフォームの袖についたTBSのロゴマークが入ったワッペンだけである。横浜ファンでもあるコラムニストの綱島理友は「ファンを悲しませない最もスマートなやり方。球団の身売りはこうあるべきだ」と高く評価している。
2005年10月、楽天がTBSの株式を大量購入し筆頭株主となった。楽天がすでに東北楽天ゴールデンイーグルスを運営していることから野球協約違反になる可能性が再び浮上した。11月に楽天側は経営統合を撤回、資本・業務提携となったが、TBSが認定放送持株会社「TBSホールディングス(TBSHD)」に移行した事から楽天は買収を断念、反対株主の株式買取請求権を行使し、TBSHDに対し保有全株式の買取請求を行ったことにより、この問題は収束した。
幻に終わった「21世紀初」のダブルヘッダー
- 2007年9月30日、横浜対ヤクルトスワローズの試合が横浜スタジアムで14時開始のダブルヘッダーとして開催されることが一旦は決まっていた。当初、2試合のうちの1試合は地方開催(同年8月にこのカードで下関球場と西京スタジアム=山口市での開催があった)の都合により、その中止となった場合の日程確保の観点から開催日・球場未定とされたものであった。
- ダブルヘッダーは1998年に開催されて以後しばらく行われておらず、実現すれば21世紀初めてのことになる予定だった。ちなみに現状での最後のダブルヘッダを行ったのも横浜である。
- しかしあいにくの雨のためこのダブルヘッダーは2試合とも中止となり、後日の延期開催も10月8日・10月9日のばら売り=1試合ずつ開催[18]となったため、このダブルヘッダー開催は実現しなかった。よって現状も21世紀に入ってからダブルヘッダーでの開催はされていない。
九州で交流戦
2008年5月28日に新大分球場(主催:大分放送)、29日に北九州市民球場(主催:RKB毎日放送)でセ・パ交流戦を行った(ともに対福岡ソフトバンクホークス)。ユニフォームも通常使っている交流戦ユニフォームではなく、主催ゲームのユニフォームを使った。北九州市民球場はホークスの準本拠地球場となっている為、この球場を使用する公式戦でホークスがビジター用のユニフォームを着て試合をするのはソフトバンクになって初めてのことであった。ただし、ダイエーホークス時代にはオープン戦では読売ジャイアンツ主催のホークス戦が過去に何度も行われている他、広島東洋カープ主催でも一度行われたためビジターユニフォームを着用済み。普段この球場のライト側で応援するホークスのファンを考慮してか、ベイスターズは3塁側ベンチを使用した。
同年5月26日〜5月30日までの間、横浜市中心部はTICAD(アフリカ開発会議)(5月28日〜5月30日)開催のためテロ対策など警備を強化しており、地方開催へ売り興行を行ったと見られる。観客の大半はホークスファンであったが、首位打者争いをしていた内川聖一にとっては地元大分への凱旋試合となった。
ベイスターズは近年北九州市民球場で毎年オープン戦を開催しており、ベイスターズファンの比較的多い山口県や北九州市及びその周辺地域はベイスターズの準フランチャイズ的地区ともいえる。
キーワード
明大五人衆
1956年に明治大学から秋山登・土井淳・岩岡保宏・黒木弘重・沖山光利の5名が入団した。
横浜大洋銀行
1980年代、本拠地・横浜を主な営業エリアとする横浜銀行や、当時存在した太陽神戸銀行をもじって、他球団のファンが大洋や大洋ファンを揶揄する意味で用いた。大洋ファンも自嘲の意味で用いることがあった。長年低迷し続け、毎年のように他球団に貯金を配給し続けてきた結果、いつしかこのような不名誉な呼称がつけられた。現在は横浜銀行と呼ばれる。そのためか、横浜銀行と関係があるように思われているが、実際には直接的な関係はない。横浜銀行#その他を参照のこと。
巨人戦に連敗し続けたシーズンは、テレビ朝日のニュースステーションが久々に巨人に勝った際に「今後の融資はお断りいたします」というオチのあるビデオを作ったほどである。
1990年に須藤監督就任後は汚名を返上するようになり、近藤昭仁監督時代は巨人キラーだった。
ベイスターズのオフィシャルグッズショップ「ザ・ベイスターズ」のレジでは、横浜銀行のロゴ入り金銭皿を使っていたことは、あまり知られていない。
スーパーカートリオ
高木豊、加藤博一、屋鋪要の俊足打者3名を指す。近藤貞雄監督時代の1985年に彼ら3人を打順の1 - 3番に並べ、当初は「スポーツカートリオ」と命名された。当時解説者だった長嶋茂雄が「スーパーカートリオ」と言い間違え、それがマスコミでも広まる。球団側も積極的に修正しなかったため、結果としてこの名が定着した。後に加藤の代わりに高橋雅裕を加えたニュースーパーカートリオが結成された。
2006年7月16日の横浜-広島戦のイベントで、広島の川口和久-達川光男のバッテリーと打者・田代富雄と共に一回限りの復活がなされた。結果は高木・二盗死、加藤・牽制死、屋鋪・二盗成功。
花の44年組
チーム名がホエールズからベイスターズに変わる1993年頃、昭和44年(1969年)(昭和45年の早生まれの者も含まれるので、正確には昭和44年度)生まれの選手が多数一軍で活躍した事から呼ばれた言葉。具体的には、斎藤隆・野村弘樹・島田直也・五十嵐英樹・有働克也・盛田幸妃・進藤達哉など。彼らは当時24〜5歳の若手であり、数年後の日本一達成時にも、移籍した有働と盛田以外は全員が主力として活躍した。現在、斎藤以外は全員現役を退いたが、野村がコーチとして、有働が打撃投手として、進藤がスカウトとして、盛田が球団職員としてそれぞれ横浜に在籍している。
翌年の昭和45年生まれも谷繁元信・石井琢朗・波留敏夫・佐伯貴弘・井上純と当たり年であった。98年の日本一を達成できたのはこの昭和44,45年組の「黄金世代」といえる選手たちの働きが大きかったと言える。
マシンガン打線
ベイスターズ打線の代名詞。長打力はないものの、連打でたたみかける途切れのない打線を形容して命名され、1998年の優勝時にベイスターズ打線の愛称として定着した。基本的なオーダーは、石井琢朗 - 波留敏夫 - 鈴木尚典 - ロバート・ローズ - 駒田徳広 - 佐伯貴弘(中根仁) - 進藤達哉 - 谷繁元信 - 投手の順である。
横浜ドーム
クアトロK
横浜の4人の救援陣(木塚敦志、加藤武治、川村丈夫、マーク・クルーン)を指す。4人の頭文字の「K」とイタリア語で4を意味する「クア(ワ)トロ」から。
関連項目
人物(架空人物含む)
- 横浜ベイスターズの選手一覧
- Template:横浜ベイスターズ及びその前身球団ドラフト指名選手
- 横浜55年会
- 大堀隆
- 左門豊作-巨人の星に登場する大洋の選手。1976年から79年までの続編『新・巨人の星』では最終章で球団が横浜大洋となり、大リーグボール右1号(蜃気楼の魔球)を打った場所も横浜球場。飛雄馬と初めて会った場所も横浜である。
- 土門剛介
- 玉置宏
- 今井翼
- 池杉昭次郎(かつての名物応援団長)
- みのもんた(2007年、TBS内でのベイスターズ応援団長)
- スタジアムDJ
- オフィシャルリポーター
- diana(球団の公式チアリーディングチーム、TBSトライメディアが運営)
記録関連
新聞・放送(マスコミ)関連
- プロ野球中継
- 放映権 (日本プロ野球)#横浜ベイスターズ
- TBS・BS-TBS・TBS R&C・東通・TBSニュースバード
- nojimaスタジアム(横浜スタジアム主催試合インターネット中継nojimaスタジアム)
- ザ・プロ野球(TBSニュースバードで2008年から完全放送中。TBS地上波で放送がない場合はtvkで放送される場合もある。その場合は外部所属のフリーアナウンサーが実況する)
- move on ベイスターズ(2008年)
- Love BayStars(2009年-)
- TBSラジオ エキサイトベースボール
- みのもんたの朝ズバッ!
- ニッポン放送
- ニッポン放送ショウアップナイター(1978年に横浜大洋主催試合の独占放送権を取得し、2002年の筆頭株主交替まで主な中継番組であった)時々、試合を放送することがある。
- J SPORTS
- J SPORTS STADIUM(1998年から2007年まで放送。ジュピターテレコム(J:COM)・フジテレビなどが主要株主(2005年スポーツ・アイ ESPN合併後はTBSもわずかながら出資)だが、ベイスターズがTBS傘下に入ってからも引き続き放送された。TBS傘下入り後はTBSのアナウンサー・解説者の出演が多かった他、TBSのアナウンサーと大洋・横浜OBのフジテレビ・tvkの解説者の組み合わせとなる場合もあった)
- 神奈川新聞
- tvk
- イッツ・コミュニケーションズ・横浜ケーブルビジョン
- move on ベイスターズ!(横浜スタジアムでのナイター試合開始直前の平日17:30〜17:45に生放送される番組)
本拠地・神奈川県や横浜市関連
脚注
- ^ 中文表記では横浜海湾明星棒球団或いは横濱湾星棒球団とされる。
- ^ 球団史においては傍系扱いとなり、
大東京軍(社名:大日本野球連盟・東京協会、経営:國民新聞社・1936年-1937年)
→ライオン軍(経営:共同印刷→田村駒商店、スポンサー:ライオン歯磨本舗・1937年-1940年)
→朝日軍(社名:朝日野球倶楽部・1941年-1945年)
→パシフィック(1946年)
→太陽ロビンス(スポンサー:太陽レーヨン・1947年)
→大陽ロビンス(1948年-1949年)
→松竹ロビンス(スポンサー:松竹・1950年-1952年)
の球団史や結成年度・優勝回数・その他記録は一切カウントされない。 - ^ 須田泰明『スポーツの今日を刻む〜スポーツジャーナリスト21人からのメッセージ〜』
(杉山茂・岡崎満義+スポーツデザイン研究所編 創文企画 2002年 ISBN 4-921164-11-8)
に横浜市への球場使用料は1試合2,000万円とある。
また、同著に元・球団社長の大堀隆が語ったとして
「98年にベイスターズがセ・リーグで優勝し、日本シリーズも制したとき、同時期にかながわ・ゆめ国体も開かれていたんです。どちらが地域=横浜市の活性化に力があったか。私はベイスターズだと思う。地下街に佐々木の大魔神神社できたくらいですから。国体には何年にもわたって何千何百億円ものお金が使われたはずです。それにくらべて、せめてベイスターズには横浜球場の使用料を安くしてもらいたいと希望するのですが、それができない。市に言わせると、もし安くしたら必ず市民から、たかが一私企業のための利益をはかり、結局は税金を使うことになるようなことは許せない、と抗議の電話が殺到するだろう、というのです」
とある。 - ^ 横浜スタジアム建設の際、一口250万円の市民株主800口によるオーナーズ・クラブに内野席シーズン・シートを45年間与えたため、2023年まで(株)横浜スタジアムが運営(指定管理者)する球場を専用球場とすることが規定されている。このオーナーズ・クラブは球団総務部内のオーナーズ・クラブ事務局が管理している。
出典:「座談会 横浜公園とスタジアム~開港から現在まで~」有隣堂『有鄰』第398号平成13年1月1日 - ^ このほかに第3セクターである(株)横浜スタジアムとの間に契約を交わし、20年契約で入場料収入の29%、シーズン席の収入の30%と販売経費を球団から球場へ払い、球場内広告に対して5,000万円、物販協力金として350万円を球場から球団へ支払うというものだった。1978年(初年度)の横浜スタジアムは広告収入5億3,300万円、物販収入9億2,000万円。1993年は、球場収入13億9,200万円、広告収入13億9,300万円、物販収入15億6,500万円で、経常利益は13億9,600億円、資産は現金・預金・有価証券で64億3,800万円であった。この契約は現在も延長されていると思われる。
- ^ 横浜大洋友の会(現・横浜ベイスターズ友の会)。球団主導の横浜ベイスターズ全国ファンクラブとは別組織。
- ^ 上記「田尾五打席敬遠」該当試合
- ^ ビデオリサーチ調べ
- ^ 1977年9月26日以降
- ^ ホエールズ・ベイスターズ選手のCM出演は、1991年に、中山裕章と高橋雅裕が大洋漁業の『パッ缶』のCMに出演した。2000年には金城龍彦が松坂慶子とともに『東京電話』(東京通信ネットワーク(TTnet):フュージョン・コミュニケーションズ及びKDDIの前身企業)のCMに出演している。
- ^ Template:私のベストゲーム
- ^ ベースボール・マガジン社刊行「スポーツ20世紀」シリーズVOL.3「プロ野球名勝負伝説」139ページを参照の事。
- ^ ブルーアズール=藍青色
- ^ 2008年は夏季オリンピック北京大会開催のため8月主催試合が8カード21試合中13試合と少ないため、夏季限定ユニフォームの着用はない。
- ^ 「山口忠良#エピソード」を参照「田尾安志#エピソード」を参照
- ^ 日本プロフェッショナル野球協約第177条参照のこと。
- ^ ロッテ・オリオンズも1971年に経営権利を大映と毎日新聞社連合からロッテ製菓に譲渡した当時、球団名もユニフォームも1969年=この時、ロッテ製菓は冠スポンサー(命名権に相当)であった=に変更された当初のものをそのまま使っていた。
- ^ もし8日が中止となった場合に9日のダブルヘッダー開催の可能性があった。