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下級[[貴族#日本|貴族]]出身の[[紫式部]]は、後に[[一条天皇]]から[[日本書紀]]など[[漢文]]で書かれた日本の歴史書への見識をほめられるなど{{Refnest|group="注"|一条天皇は源氏物語を[[女房]]に読ませそれを聞いて述べた言葉、『この人は日本紀をこそ読みたるべけれ、まことに才あるべし』(作者は日本紀を読んでいるはずだ、かなりの学者のようだ)<ref name="ichijyo">{{cite journal|和書|author=秋山虔 |date=1984-09 |url=https://twcu.repo.nii.ac.jp/records/19121 |title=この人は日本紀をこそ読みたるべけれ |journal=日本文學 |publisher=東京女子大学 |volume=62 |pages=1-11 |CRID=1050845762588545664}}</ref>。<br>日本紀は[[漢文]]で書かれた日本の歴史書で、6つの史書「[[六国史]]」を指す。「[[日本書紀]]」、「[[続日本紀]]」、「[[日本後紀]]」、「[[続日本後紀]]」、「[[日本文徳天皇実録]]」、「[[日本三代実録]]」。<br>これら6つ史書は[[漢文]]で全文が書かれており、当時、日本の[[政治]]や[[行政]]の公的文書は漢文で書かれたため<ref name="kanbun">[https://chuseimonjo.net/general.html 『日本の中世文書』 国立歴史民俗博物館]</ref>、漢文は男性[[貴族#日本|貴族]]にとって必須の知識だったが貴族女性は漢文の読み書きは不要とされ、漢文に堪能な紫式部は宮中内で「日本紀の御局(みつぼね)」とあだ名されたことが[[紫式部日記]]にある<ref name="nhk-book-Genjibook">NHK出版、NHK『100分 de 名著』ブックス 紫式部 源氏物語 p,29-p,30、p,35 上智大学文学部教授 [[三田村雅子]]。動画「[https://www.nhk-ondemand.jp/program/P201700164800000/ NHK「100分de名著 源氏物語」第1回]」。</ref>。}}、幼少より日本と中国の歴史書、[[和歌]]、[[漢籍]]、[[漢詩]]の理解に優れ{{Refnest|group="注"|『[[紫式部集]]』に幼少期から晩年に至る多数の[[和歌]]を残した紫式部は、[[漢詩]]について『[[紫式部日記]]』に幼少期の様子を以下のように書いている。紫式部の父で漢詩や和歌に通じた学者だった[[藤原為時]]は、紫式部の兄弟に漢詩文を教えても理解が悪かったが、その側で聞いていた紫式部があっさり理解してしまい、為時が「残念だ、お前が男だったらなあ、男として生まれなかったことは不幸なことだ(*)」と嘆いた<ref>NHK出版、NHK『100分 de 名著』ブックス 紫式部 源氏物語 p.27 (2012/3/24)上智大学文学部教授 三田村雅子。動画「[https://www.nhk-ondemand.jp/program/P201700164800000/ NHK「100分de名著 源氏物語」第1回]」。</ref>。(*)原文「口惜しう、男子にてもたらぬこそ幸なかりけれとぞ、つねになげかれはべりし」。<br>『源氏物語』が執筆された[[平安時代]]中期は[[国風文化]]の最盛期で『[[竹取物語]]』など他の[[物語 (日本文学)|物語]]同様に『源氏物語』は[[平仮名]]([[変体仮名]])で書かれたが、紫式部の[[和歌]]や[[漢籍]]・[[漢詩]]そして日本と中国の歴史書([[六国史]],[[史記]],[[長恨歌]])など[[漢文]]で書かれたこれらへの知識や見識の深さが『源氏物語』の随所に生かされており<ref name="nhk-book-Genjibook"/>、漢籍、漢詩、[[和歌]]の知識が必須の男性[[貴族#日本|貴族]]からも読まれた<ref name="nhk-book-Genjibook2">NHK出版、NHK『100分 de 名著』ブックス 紫式部 源氏物語 第1章 p,29、p,35-p,36、上智大学文学部教授 [[三田村雅子]] (2012/3/24)。</ref><ref name="kanseki-kanshi">{{Cite journal|和書|author=野田有紀子 |date=2020-03 |url=https://teapot.lib.ocha.ac.jp/records/43090 |title=平安貴族社会における女性の漢才評価と書状 |journal=お茶の水史学 |publisher=お茶の水女子大学文教育学部人文科学科比較歴史学コース内読史会 |volume=63 |pages=93-128 |hdl=10083/00063885 |CRID=1050285299935948160}}</ref>。<br>当時、[[貴族#日本|貴族]]階級の男女ともに[[和歌]]の嗜みは重要だったが、貴族女性には[[漢文]]は不要とされ[[漢籍]]や[[漢詩]]がわからない(漢文の読み書きができない)者が多かった。源氏物語誕生以前から『[[竹取物語]]』『[[伊勢物語]]』『[[うつほ物語]]』『[[落窪物語]]』など現存する作者不詳の作品をはじめ、[[物語 (日本文学)|物語]]作品は、主に[[平仮名]]([[変体仮名]])で書かれたことから貴族女性やその子供向けの読み物として、漢籍・漢詩そして和歌に比べて低く見られていた<ref name="nhk-book-Genjibook2"/>。<br>源氏物語内の[[漢籍]]・[[漢詩]]の引用については以下参照。{{Cite journal|和書|author=三浦佳子 |date=2015-03 |url=https://u-gakugei.repo.nii.ac.jp/records/35820 |title=光源氏の教育観にみる栄華への注視 : 白居易の諷諭詩との関連から |journal=学芸古典文学 |ISSN=1882-7012 |publisher=東京学芸大学国語科古典文学研究室 |volume=8 |pages=35-49 |hdl=2309/145448 |CRID=1050006994043411712}}}}、平安期では晩婚となる20代半ばすぎに[[藤原宣孝]]と結婚し一女をもうけたが、結婚後3年ほどで夫と死別し、その現実を忘れるために物語を書き始め、これが『源氏物語』の始まりともいわれる<ref name="nhk-book-Genji">NHK出版、NHK『100分 de 名著』ブックス 紫式部 源氏物語 P27、上智大学文学部教授 [[三田村雅子]]。動画「[https://www.nhk-ondemand.jp/program/P201700164800000/ NHK「100分de名著 源氏物語」第1回]」。</ref>。当時、[[紙]]は貴重で、紙の提供者がいればその都度書き{{Refnest|group="注"|[[江戸時代]]の[[松永貞徳]]の源氏物語の写本全54冊(54帖)の1冊1冊の厚みが示すように、[[紫式部]]は当初多くの分量は書けず1冊(1帖)の厚みは薄いが、支援者の[[藤原道長]]により安定した[[紙]]の供給が行なわれて以降は34帖「[[若菜 (源氏物語)|若菜]]」のように1冊(1帖)の厚みが急激に増した<ref name="Mitamura" />。(参考)『源氏物語』与謝野晶子訳<ref>角川文庫 1999年(平成11年)5月10日</ref>、各帖の総ページ数より、1帖「[[桐壷]]」26、2帖「[[帚木_(源氏物語)|帚木]]」44、3帖「[[空蝉_(源氏物語)|空蝉]]」12、そして、34帖「[[若菜 (源氏物語)|若菜]]」上192、下190。}}、仲間内で批評し合うなどして楽しんでいたが{{Refnest|group="注"|[[紫式部日記]]より。当初、[[紫式部]]は仲間内で意見を言い合ったり手紙のやり取りで批評し合って楽しんでいたことから「最初は現代の同人誌のような楽しみ方だった」<ref name="Mitamura" />。}}、その物語の評判から[[藤原道長]]が娘の[[中宮]][[藤原彰子|彰子]]の家庭教師として紫式部を呼んだ{{Refnest|group="注"|[[紫式部]]が[[中宮]][[藤原彰子|彰子]]に「[[白氏文集]]」と「[[新楽府]]」の2つの[[漢籍]]を講義する様子を描いた"[[:ファイル:Murasaki Shikibu Nikki Emak HachisukaS.jpg|絵巻物]]"。絵の右側、手前が紫式部、奥に中宮彰子、絵の左側は、蔀戸の背後で語り合う[[女房]]たち(紫式部日記絵巻の[[紫式部日記絵巻#蜂須賀家本|蜂須賀家本]]より)}}。<br>
 
当時、政治・行政など多くの公的文書は外国語である[[漢文]]で書かれ<ref name="kanbun"/>、漢文が必須の男性[[貴族#日本|貴族]]に対し、女性貴族には不要とされその読み書きができず[[漢詩]]や[[漢籍]]なども理解しない者が多かったが<ref name="nhk-book-Genjibook2"/>、天皇の妃である[[中宮]]には[[白氏文集]]など漢詩の教養が要求され、その才に秀でた[[女房]]が教育にあたった<ref name="Mitamura" />。[[一条天皇]]の代では、[[清少納言]]が中宮[[藤原定子|定子]]に{{Refnest|group="注"|[[枕草子]]第299段に、中宮定子が清少納言に[[唐]]の[[白居易]]の漢詩「香炉峰の雪」に関する知識を試したところ、清少納言がそれに答えて簾(すだれ)を高く上げ、「香炉峰の雪は簾をかかげて看る」部分を、定子に再現して見せた場面が描かれている。<br><枕草子・原文>雪のいと高う降りたるを、例ならず御み格こう子しまゐりて、炭す櫃びつに火おこして、物語などしてあつまりさぶらふに、「少納言よ。香炉峰の雪いかならむ」と仰おおせらるれば、御格子上げさせて、御み簾すを高く上げたれば、笑はせたまふ。人々も「さる事は知り、歌などにさへうたへど、思ひこそよらざりつれ。なほこの宮の人にはさべきなめり」といふ。}}、同じくその後、一条天皇の中宮になった[[藤原彰子|彰子]]には紫式部が漢詩を教えるなどした。宮中に上がった紫式部は、この宮仕えをしながら[[藤原道長]]の支援の下で物語も書き続け{{Refnest|group="注"|この宮仕えをした際、約1年半にわたり宮中の様子を中心に「[[紫式部日記]]」を書いた。}}、54帖からなる『源氏物語』が完成した<ref name="Mitamura" />。この原本は現存せず[[鎌倉時代|鎌倉]]初期の「[[藤原定家自筆本源氏物語|藤原定家自筆本]]」が現存する最古の[[写本]]となる。
 
物語の概要は、天皇の実子だが天皇になれない宿命{{Refnest|group="注"|光源氏は3歳で母親の[[桐壺]]を亡くしており、当時、母方の後ろ盾がないと即位し天皇になることは極めて困難だったため、母を亡くした光源氏が、宮中の勢力争い、権力闘争に巻き込まれることを避けるために、父は光源氏のことを思い皇族から籍を外した<ref name="Mitamura-hikarugenji">NHK出版、NHK『100分 de 名著』ブックス 紫式部 源氏物語 第1章 p,15-p,17、p,22-p,25、p,28-p,33 上智大学文学部教授 [[三田村雅子]](2012/3/24)。動画「[https://www.nhk-ondemand.jp/program/P201700164800000/ NHK「100分de名著 源氏物語」第1回]」。</ref>。<br>このコンプレックスがその後の光源氏の上昇志向の源になり、天皇に近い高貴な女性を自分のものにすべく<ref name="Mitamura-hikarugenji-jyosei">NHK出版、NHK『100分 de 名著』ブックス 紫式部 源氏物語 第1章 p,15-p,16 上智大学文学部教授 [[三田村雅子]](2012/3/24)。動画「[https://www.nhk-ondemand.jp/program/P201700164800000/ NHK「100分de名著 源氏物語」第1回]」。</ref>、「[[藤壺]]」や「[[六条御息所]]」などと関係を持ち、ついに天皇「[[朱雀帝]]」の后妃(こうひ)に内定していた「[[朧月夜 (源氏物語)|朧月夜]]」(光源氏の政敵の娘)と関係を持ったことから([[花宴|第8帖]])、流刑など報復を予期し26歳の時に自ら須磨に流れた(謹慎した)([[須磨 (源氏物語)|第12帖]])。しかし、2年弱で都に帰ることができ([[明石 (源氏物語)|第13帖]])、結局、39歳の時に「[[准太上天皇]]」(じゅんだいじょうてんのう)となった([[藤裏葉|第33帖]])。「天皇になれない宿命を背負った皇子」であった光源氏が、「天皇と同じか、それを超える存在」となった(ただしこの件は光源氏が実の父親だと知った「[[冷泉帝]]」の尽力で実現したことだった)<ref name="Mitamura-hikarugenji"/>。<br>ちなみに、千年前の読み手にとって、「光源氏」の「光」が意味することは、「かぐや姫」などに見られるように”超越的な素質”、”光り輝いている人”を意味する一方で、”天皇になりそこなった皇子”を意味した。すなわち「源氏」の前に置かれた「光」という言葉は、当時は、”天皇以上にすばらしい才能を持っているが天皇になりそこなった皇子たち”を意味する形容詞でもあった<ref name="Mitamura-hikarugenji-ohji">NHK出版、NHK『100分 de 名著』ブックス 紫式部 源氏物語 第1章 p,16、p,30-p,33 上智大学文学部教授 [[三田村雅子]](2012/3/24)。動画「[https://www.nhk-ondemand.jp/program/P201700164800000/ NHK「100分de名著 源氏物語」第1回]」。</ref>。古代より大勢実在し、後継者争い([[壬申の乱]])に破れ死亡した[[弘文天皇|大友皇子]]もその一人で、生前は才能があり眼が光り輝くようだと伝えられている<ref name="Mitamura-hikarugenji-ohji"/>。(参考文献)『源氏物語 - 天皇になれなかった皇子のものがたり』新潮社(2008/9/1)}}を幼くして父から与えられた主人公[[光源氏]]の栄光と没落、その政治的欲望と権力闘争の数々、光源氏の栄華復活とその死後、子と孫そして紫式部が自らを投影したとも思われる女性<ref name="Mitamura-ukifune">NHK出版、NHK『100分 de 名著』ブックス 紫式部 源氏物語 第4章 p,120-p,127、上智大学文学部教授[[三田村雅子]] (2012/3/24)。動画「[https://www.nhk-ondemand.jp/program/P201700164800000/ NHK「100分de名著 源氏物語」第4回]」。</ref>、この三者の世界と女性の末路など、全54帖。[[桐壺|第1帖]]~[[幻 (源氏物語)|第41帖]]は「光源氏」を軸に描かれ、[[匂宮|第42帖]]~[[夢浮橋|第54帖]]は「[[薫]]」を軸に描かれる。なお、執筆された[[11世紀]]初頭は[[国風文化]]の最盛期で、時代を反映し、紫式部は自身の[[和歌]]や他者の[[物語 (日本文学)|物語]]作品と同じく、源氏物語の記述には[[漢字]]([[漢文]] [[万葉仮名]]・男手)ではなく[[平仮名]]([[変体仮名]]・女手)を使用している{{Refnest|group="注"|[[894年]]の[[遣唐使]]停止で大陸文化の流入がなくなったことで、日本独自の文化が発展。その一つが文字で[[平仮名]]、[[片仮名]]が誕生した(発明された)。<br>[[古事記]]、[[日本書紀]]、[[万葉集]]等々、漢字のみで全文を記述していた時代に比べ、特に[[平仮名]]によって[[日本語]]を話し言葉で書けるようになり繊細な感情や雰囲気を表現する自由度が大きく増し<ref>動画「[https://www2.nhk.or.jp/school/watch/bangumi/?das_id=D0005120304_00000 摂関政治と国風の文化~平安時代~「10min.ボックス 日本史」NHK]」</ref>、源氏物語の誕生以前から[[平仮名]]([[変体仮名]])を用いた創作活動が展開され、『[[竹取物語]]』『[[大和物語]]』『[[伊勢物語]]』『[[うつほ物語]]』など作者不詳の[[物語 (日本文学)|物語]]作品をはじめ、[[紀貫之]]の日記文学『[[土佐日記]]』、[[和歌集]]では『[[古今和歌集]]』([[古今和歌集真名序|真名序]]は[[漢文]]) 等々、[[貴族#日本|貴族]]階級の男女によりあるいは天皇の命により生まれた。<br>[[10世紀]]末からは[[紫式部]]や[[清少納言]]なども平仮名を積極的に[[和歌]]、[[物語 (日本文学)|物語]]、[[随筆]]などの創作物そして手紙や日記などに使った。この平仮名の成立と浸透で[[平安時代|平安]]期には女性作品が多数生まれ、その後の[[日本文学|国文学]]の発展へと繋がった<ref>新もういちど読む山川日本史 p,73-p,75 山川出版社</ref><ref>[https://www2.nhk.or.jp/school/watch/bangumi/?das_id=D0005120260_00000 NHK for School 紫式部・清少納言、国風文化の誕生 | 歴史にドキリ]</ref>。<br>「男手」(おとこで)、「女手」(おんなで)については、この当時、[[漢字]]([[漢文]] [[万葉仮名]])を主に男性が使用したことから漢字は「男手」と呼ばれ、それとは対象的に[[平仮名]]を主に女性が積極的に使ったため平仮名は「女手」と呼ばれた<ref>山川 日本史小辞典 改訂新版 「女手」(おんなで)の解説</ref>。}}。(物語詳細は「[[源氏物語各帖のあらすじ]]」参照)