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'''北条 氏盛'''('''ほうじょう うじもり'''、[[1577年]]([[天正]]5年) - [[1608年]][[6月30日]]([[慶長]]13年[[5月18日 (旧暦)|5月18日]]))は、[[安土桃山時代]]の武将、[[江戸時代]]の大名。[[河内国]][[狭山藩]]の初代[[藩主]]。通称は助五郎。官位は従五位下美濃守。
 
[[北条氏規]]の長男で、後北条氏5代当主[[北条氏直]]の養子。母は[[北条綱成]]の娘。[[正室]]は[[旗本]]・[[船越景直]]の娘。子に[[北条氏信 (狭山藩主)|北条氏信]](長男)、[[北条氏利]](次男)、北条氏重(三男)。
 
天正18年([[1590年]])、[[豊臣秀吉]]の[[小田原征伐]]によって[[後北条氏]]が滅亡した後、父と共に[[高野山]]に向かったが、やがて秀吉に許されて、天正19年(1591年)、養父氏直が病死すると、その遺跡である[[下野国]]4000石の所領を与えられた。翌、天正20年(1592年)、[[朝鮮出兵]]で、肥前名護屋に従軍した。慶長5年([[1600年]])、父の氏規が死去するとその家督を継ぎ、五大老筆頭の[[徳川家康]]からも河内狭山にあった父の遺領7000[[石 (単位)|石]]を安堵された。こうして氏盛は、計1万石1千石の大名となり、狭山藩の初代藩主となったのである。同年、[[関ヶ原の戦い]]では東軍の[[西尾吉次]]隊に属し、本領を安堵された。家康の将軍就任後は徳川氏へ仕えた。慶長13年(1608年)に死去。享年31
 
{{先代次代|[[後北条氏|北条氏(織豊大名)当主]]|第2代:1591年 - 1603年|[[北条氏直]]|徳川政権へ}}
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{{先代次代|[[狭山藩|北条氏(狭山藩初代)藩主]]|1600年 - 1608年|-|[[北条氏信 (狭山藩主)|北条氏信]]}}
 
[[Category:織豊政権の大名|ほうしよううしもり]]
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