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'''千村陣屋'''(ちむらじんや)は、[[江戸時代]]に[[美濃国]][[可児郡]][[久々利村]](現在の[[岐阜県]][[可児市]]久々利)にあった[[江戸幕府]]の[[交代寄合]]で[[木曾衆]]の[[木曾衆#千村平右衛門家|千村平右衛門家]]の[[陣屋]]。後に尾張藩の重臣となったが、幕府にも仕えた。現在陣屋の建物は残っていない'''久々利陣屋'''または'''千村氏屋敷'''とも呼ばれた。'''久々利陣屋・千村氏屋敷・久々利役所'''とも呼ばれた
 
'''久々利陣屋'''または'''千村氏屋敷'''とも呼ばれた。
 
== 概要 ==
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[[慶長]]6年([[1601年]])2月、[[千村良重]]は、[[徳川家康]]によって[[木曽谷]]から久々利村への移動を命じられ、千村陣屋を構えた。
 
濃州殉行記によると敷地は東西約300m、南北約270mあり、「郭外濠ありて城郭の如し」と記されており、上屋敷・下屋敷・庭園がある広大なものであった。
久々利村には家臣の屋敷が70軒ほどあり、他の[[木曾衆#久々利九人衆|久々利九人衆]]の家臣の屋敷が50軒ほどあって、さながら小さな城下町的な雰囲気であった。
 
上屋敷には20を超える部屋があり、政務の場と、奥向きの場に分かれ中奥で繋がっていた。政務の場には家老の部屋や勘定所があり、役所として執務が行われていたため、久々利役所とも呼ばれた。現在、上屋敷の跡地には石垣の一部が残っているのみである。
現在、陣屋の跡地には、八十一隣春秋園、可児郷土歴史館、久々利診療所、久々利保育園、久々利公民館などが建てられている。
 
上屋敷の西側には下屋敷があり、隠居の部屋や、部屋住みの者の生活の場として用いられた。
 
下屋敷の北側には、回遊式庭園の春秋園があり、現在も残っている。
 
陣屋の背後には久々利城址、南側には久々利川が流れていて陣屋の堀の代わりとなっていた。
 
久々利村には家臣の屋敷が70軒ほどあり、他の[[木曾衆#久々利九人衆|久々利九人衆]]の家臣の屋敷が50軒ほどあって、さながら小さな城下町的な雰囲気であった。
 
陣屋の背後には久々利城址、南側には久々利川が流れていて陣屋の堀の代わりとなっていた。
 
現在、陣屋の跡地には、八十一隣春秋園、可児郷土歴史館、久々利診療所、久々利保育園、久々利公民館などが建てられている。
==八十一隣春秋園・木曾古文書歴史館==
可児市久々利にある「八十一隣春秋園」は、千村陣屋の下屋敷の跡地にある日本庭園である。
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庭園の中には、千村平右衛門家に伝わる書図など多くの資料が展示されている「木曾古文書歴史館」があり、「[[今井兼平]]書状」もある。
 
見学には事前予約が必要。八十一隣春秋園には他にも、千村平右衛門家の菩提寺である[[東禅寺 (可児市)|東禅寺]]があり、千村平右衛門家の歴代の墓石が並んでいる。
 
また、隣の千村陣屋の上屋敷跡には「可児郷土歴史館」があり、可児で造られた陶器や発掘された化石、歴史に関する資料などが展示されている。