「小笠原長房 (旗本)」の版間の差分

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'''小笠原 長房'''(おがさわら ながふさ、生年不詳 - [[明暦]]元年[[6月6日 (旧暦)|6月6日]]([[1655年]][[7月9日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]末期から[[江戸時代]]前期にかけての[[武将]]。[[後北条氏|北条氏]]に仕えた後に[[徳川氏]]に仕えて[[江戸幕府]][[旗本]]となった。[[小笠原康広]]の子。母は[[北条氏康]]の娘。子に[[小笠原長真]]・[[小笠原元定|元定]]・[[蒔田義勝]](義弟[[蒔田頼久]][[養子]])がいる。幼名は孫増(孫増丸)。通称は六郎、市左衛門、縫殿助。法名は紹機
 
[[天正]]2年([[1574年]])[[2月19日 (旧暦)|2月19日]]付の[[北条氏政]][[判物]]によって、小笠原氏の家督が孫増に譲られたことが知られる。『[[寛政重修諸家譜]]』は、これを[[小笠原元続]]から嫡男・康広への家督継承として孫増=康広とするが、既に壮年で氏康の一字を得ている康広がこの名乗りをしたとは考えにくく、近年の研究者はこれを康広から長房への家督継承としている(『後北条氏家臣団人名辞典』など)。