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希菴は京都の出身で、[[建仁寺]]の[[月谷]]禅師に従って出家し各地を巡って修行した。次に[[雪嶺瑾公]]から文墨を学んだ後、[[愚渓寺]]([[岐阜県]][[可児郡]][[御嵩町]])の[[明叔慶浚]]禅師の高徳に心うたれて参禅し、ついにその法を嗣ぎ、明叔禅師の命に従って京都妙心寺の[[塔頭]]のひとつである[[大心院]]に入った。天文12、13年([[1543年]]-[[1544年]])頃、美濃国の[[大圓寺 (恵那市)|大圓寺]]の住持であった明叔慶浚の後任として[[遠山荘]]の[[地頭]]の[[遠山景前]]に招かれて大圓寺に入った。当時、希菴は[[臨済宗]]に手厚い保護を与えていた[[武田信玄]]とも懇意であり、武田信玄と遠山景前との仲介役の立場にあった。[[弘治 (日本)|弘治]]2年(1556年)7月に遠山景前が死去し、[[遠山景任]]が後を継ぐと[[織田氏]]から妻を迎え([[おつやの方]])関係が深まり始めた。希菴は飛騨の[[禅昌寺 (下呂市)|禅昌寺]]へ移り、[[永禄]]元年([[1558年]])禅昌寺にて遠山景前の三回忌の法要を行った。その時の[[香語]]は以下の通り「岩村城主遠山景前三年忌香語 這香感仏御風来 熱向一炉酬旧知 散却辟邪濫却敵 煙霏興衝溢坤維 三年景前忌抹香 宰木三霜悠忽移 遠山依田碧参差 国公不是干才栗 開露吹香七月茶 同 三年一笛風 法界即円融 塔影墓誰外 芙蓉初日紅 同塔婆」。希菴はその後永禄3年([[1560年]])勅を奉じて大本山妙心寺に入り管長職を5度もつとめ、名声は高まった。希菴は[[雪江]]の定めた一住三年の制を一住一年に改めて同門出世の道を開いた。大圓寺は[[永保寺]](岐阜県[[多治見市]])、[[愚渓寺]](岐阜県[[御嵩町]])とともに[[東濃]]三名刹とよばれ、美濃[[遠山氏]]一族の菩提寺である。禅昌寺は天下の十刹古禅寺として知られている。
永禄7年([[1564年]])、[[武田信玄]]が菩提寺の[[恵林寺]]に、礼を尽くして希菴を迎え、信玄の生母[[大井夫人]]の十三回忌法要を営んだ。山梨県[[南部町 (山梨県)|南部町]]の[[円蔵院 (山梨県南部町)|円蔵院]]には伝わる[[穴山信友]]の肖像(信友は永禄3年(1560年)に死去)には希菴玄密の賛文が寄せられている。賛文は永禄10年(1567年)のもので、永禄9年(1566年)の信友七回忌に際して信友の子[[穴山信君]]により発注されたという。希菴は恵林寺から再び妙心寺に戻り、さらに大圓寺へ再度迎えられた。
 
元亀3年(1572年)秋山虎繁が率いる[[甲斐国|甲斐]]と[[信濃国|信濃]]の武田勢が[[岩村遠山氏]]の[[岩村城]]を包囲して開城させた。([[岩村城の戦い]])。信玄は大圓寺に居る希菴に対し、恵林寺へ戻るように再三使者を送り要請したが希菴は応ぜず、「老來一枕黒聒餘、使者敲門頻起予、但恨風流賢守識、閑名幾度上除書」と詩を書いて返答とした。その答辞を見て信玄は激怒し[[秋山虎繁]]に命じて希菴の殺害と大圓寺を始めとする遠山領内の全ての寺院の焼討ちを命じた。岩村城開城から約2週間後の11月26日、大圓寺に対しても武田勢が攻撃するとの噂を聞いて身の危険を感じた希菴は、伴の者と寺から逃亡した。これを知った虎繁は、刺客として松澤源五郎、林甚助、小田切與助の3人を送り、彼らは[[飯羽間村]]で希菴一行に追付いて、[[飯羽間川]]にかかる橋の上で全員を殺害した。享年70前後であった。ところが希菴を殺害した3人は、半月もたたない内に気が狂ったり、狂った馬から落ちて命を落とした。それに留まらずその5箇月後には信玄が死亡している。
 
希菴が元亀3年11月に殺されたことは、[[甲陽軍鑑]]末書九品之九に『関山宗の名和尚希菴と申すを、甲州へ御呼び候へども御越なきとて、信玄公秋山伯耆守に被仰付御ころし候。元亀三壬申年十一月廿六日に如此。伯耆守申付候出抜は伊奈の松沢源五郎小田切与介林勘介是三人なり。何れも十五日の内に狂気さし、あるひは癲狂をかき落馬して死する也。信玄公も其次の年天正元年四月十二日に御他界也。禅宗の名知識などに悪しく御あたり有るべからず候其のため有り様に書付申候也云々』とある。殺害された希菴らは村人達によって付近に葬られ[[希菴塚]]と呼ばれ現存している。
 
東濃三大名刹の一つと言われ、約15ヘクタールもの広大な敷地と常時100名を越す修行僧が居た大圓寺の建物群は、武田勢に焼かれて、仏像や庭園などの貴重な文化財、遠山氏累代の墓や過去帳をはじめとする書物や絵画もろとも全て焼失し、歴史の幕を下ろした。その為希菴には三の自賛[[法嗣頂相]]は残っていないありそれぞれ発展した岐阜県[[下呂市]][[玉龍寺]]に残る「異本葛藤集」に、「金襴黒竹紫袈裟、伝受還陀老克家、真相元来是無相、儼然面目趙昌花、希菴和尚肖像自賛」と法脈はいまも灯ってい記述がある。
 
希菴には三[[法嗣]]があり、それぞれ発展したので希菴の法脈はいまも灯っている。
==飛騨の禅昌寺に残る希菴の遺筆==
「宗補蔵主従弱齢偏歴諸訥子門而参禅有年矣頃者入吾花園拈花室請益従前参得底之公案一々呈露之山野一鎚下百雑碎 蔵主捏來轉一機於外則看盡長安一日花而大徹大悟可謂吾花園門下眞種草也矣雖然年尚少壮久長養聖胎而他事異日建法幢立宗旨利済人天以報佛祖之深恩者思之々々」永禄第三稔龍集 庚申三月如意珠日