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超プロ住民 (会話 | 投稿記録)
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[[1960年]](昭和35年)1月から「[[眠れる美女]]」を『新潮』に連載開始した。この作品は川端の「[[魔界]]」をより明確に展開させたものとして、以前の『[[みづうみ]]』や、その後の『[[片腕 (小説)|片腕]]』の世界観に繋がり、老年となっても芸術家として新たな創造に向かう精進の姿勢がうかがわれるものとなった<ref name="kawashi7">「第七章 美への耽溺―『千羽鶴』から『眠れる美女』まで―」({{Harvnb|川嶋|1969|pp=243-284}})</ref>。5月に[[アメリカ国務省]]の招待で渡米し、7月には[[ブラジル]]の[[サンパウロ]]での第31回国際ペンクラブ大会にゲスト・オブ・オーナーとして出席した。8月に帰国し、随筆「日本文学の紹介――未来の国ブラジルへ――[[ニューヨーク]]で」を『朝日新聞』に発表した。この年、[[フランス政府]]からは、オルドル・デザール・エ・デ・レトル勲章の[[芸術文化勲章]](オフィシエ勲章)を贈られた<ref name="shindo36">「第三部第六章 晩年」({{Harvnb|進藤|1976|pp=468-483}})</ref>。
 
[[1961年]](昭和36年)執筆取材のため数度、京都に旅行し、[[左京区]][[下鴨]]泉川町25番地に家(武市龍雄方)を借りて滞在し、1月から「[[美しさと哀しみと]]」を『[[婦人公論]]』に連載開始する。5月には、[[ノーベル文学賞]]への推薦文を[[三島由紀夫]]に依頼した<ref name="shokan530">[[三島由紀夫]]「川端康成宛ての書簡」(昭和36年5月30日付)。{{Harvnb|三島往復書簡|2000|pp=150-151}}、{{Harvnb|三島38巻|2004|p=294}}。「1961年度ノーベル文学賞に川端康成氏を推薦する」({{Harvnb|三島往復書簡|2000|pp=238-239}})</ref>{{refnest|group="注釈"|実際、1961年(昭和36年)に、川端が[[ノーベル文学賞]]を受賞する可能性があったことが、2012年(平成24年)の[[スウェーデン・アカデミー]]の情報開示で明らかになった <ref name="kabun12">[https://web.archive.org/web/20130310191315/http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/700/130247.html 川端康成 ノーベル賞選考で新資料](2013年3月10日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) - NHK「かぶん」ブログ・NHK科学文化部、2012年9月4日。</ref>。ちなみに三島は、2014年(平成26年)の開示情報で、1963年(昭和38年)度のノーベル文学賞の有力候補6人の中に入っていたことが明らかになった<ref name="nikkei"> [http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG03019_T00C14A1CR8000/ 三島由紀夫、ノーベル文学賞最終候補だった 63年]([[日本経済新聞]] 2014年1月3日号)</ref><ref name="yomiuri2">「三島ノーベル賞目前だった」([[読売新聞]] 2014年1月4日号)</ref>。なお、6人の中には三島の他に[[谷崎潤一郎]]、[[西脇順三郎]]、川端も名を連ね、1964年、1965年度も同4名が候補に入っていた<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG05H1D_V00C16A1000000/ ノーベル文学賞の65年選考 川端が「日本人で最有力」](日本経済新聞 2016年1月5日号)</ref>。1965年については川端と谷崎の同時授賞も検討されていた<ref>[https://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2018_1010.html 記者が見た ノーベル文学賞秘話](NHK NEWS WEB 2018年10月10日 19時20分)</ref>。}}。10月からは、伝統を継ぎながら新しく生きる京都の人々を背景に[[双子]]の姉妹の数奇な[[運命]]を描いた「[[古都 (小説)|古都]]」を『朝日新聞』に連載開始した。この作品で描かれたことにより、京都で育まれている伝統[[林業]]の[[北山杉]]が注目された。「古都」執筆の頃、以前よりも多量に[[睡眠薬]]を常用することが多かった<ref name="kotoato">「あとがき」(『古都』新潮社、1962年6月。文庫版『古都』新潮文庫、1968年8月。改版2010年)</ref><ref name="dokuhonnenpu"/>。11月には第21回[[文化勲章]]を受章した。
 
[[1962年]](昭和37年)、睡眠薬の禁断症状により、2月に東大[[冲中重雄|冲中内科]]に入院した。10日間ほど意識不明状態が続いたという<ref name="kotoato"/>。入院中に、[[東山魁夷]]から文化勲章のお祝いに、京洛四季シリーズの北山杉の絵『冬の花』が贈られた<ref name="kotoato"/>。10月には、[[世界平和アピール七人委員会]]に参加し、[[湯川秀樹]]、[[茅誠司]]らと[[ベトナム戦争]]でのアメリカの北爆に対する反対声明を出した。11月に単行本『眠れる美女』が新潮社より刊行され、これにより第16回[[毎日出版文化賞]]を受賞した。同月には、[[掌の小説]]「秋の雨」「手紙」を『朝日新聞』PR版に発表。随筆「秋風高原――落花流水」を『風景』に連載開始した。