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一方では、映画俳優として大成した[[長谷川一夫]](初代鴈治郎門下)や市川雷蔵の歌舞伎復帰企画などの噂もあったものの、噂は噂の域を出ることのないまま諸事情で実現に至らなかった。特に雷蔵は、歌舞伎界復帰を望んでいたとされるが、1969年(昭和44年)夏に37歳の若さで病没している。また、同じように戦後不振だった[[上方落語]]が1970年頃に復興し、1980年頃からは[[漫才]]に[[漫才ブーム|史上空前の大ブーム]]が始まったが、対照的に関西では歌舞伎は相変わらず時代後れのものとされて、新たなファン層の拡大さえもままならない状態が続いていた。
 
そんな中で、東京の[[澤村藤十郎 (2代目)|二代目澤村藤十郎]]が自主公演「関西で歌舞伎を育てる会」を立ち上げる。1977年(昭和52年)、歌舞伎興行の低迷ゆえに大阪の[[新歌舞伎座 (大阪)|新歌舞伎座]]が、藤十郎と兄[[澤村宗十郎 (9代目)|九代目宗十郎]]の襲名披露を最後として、ついに歌舞伎公演から手を引くことになり、これに責任を感じての奮起だったと言う。東京の歌舞伎関係者も、関西歌舞伎の凋落は歌舞伎界全体の衰退に繋がりかねないと、相当の危機感を抱いていたのである。そんな関西歌舞伎の復興を目指す人々の熱意と大阪市の助成金や民労協の協力もあり、興行側も重い腰を上げた。1979年(昭和54年)5月に朝日座で第1回公演が行われ、実に52年ぶりとなる船乗り込みも行われた。
 
この公演は1989年(平成元年)まで十回続く。東京からは宗十郎、藤十郎兄弟のほか、[[中村勘三郎 (17代目)|十七代目中村勘三郎]]・[[中村勘三郎 (18代目)|五代目中村勘九郎]]親子、[[尾上梅幸 (7代目)|七代目尾上梅幸]]、[[市川團十郎 (12代目)|十代目市川海老蔵]]、[[尾上菊五郎 (7代目)|七代目尾上菊五郎]]、[[中村吉右衛門 (2代目)|二代目中村吉右衛門]]、[[松本幸四郎 (9代目)|九代目松本幸四郎]]、[[中村富十郎 (5代目)|五代目中村富十郎]]。地元は[[片岡仁左衛門 (13代目)|十三代目片岡仁左衛門]]、[[片岡我童 (13代目)|十三代目片岡我童]]、[[中村鴈治郎 (2代目)|二代目中村鴈治郎]]、[[片岡仁左衛門 (15代目)|片岡孝夫]]、[[片岡我當 (5代目)|五代目片岡我當]]、[[片岡秀太郎 (2代目)|二代目片岡秀太郎]]、[[實川延若 (3代目)|三代目實川延若]]、[[嵐徳三郎 (7代目)|七代目嵐徳三郎]]、[[坂田藤十郎 (4代目)|二代目中村扇雀]]などが参加。人気のある古典と分かりやすい狂言を巧みに並べたり、藤十郎主催のイベント「歌舞伎の見かた」で、観客を芝居に出てくる馬に乗せるなどの趣向が大いに話題を呼び、場所も第2回から[[中座]]で行われるようになった。この時の熱気は十五代目仁左衛門が「・・・お客様があふれて、二回の客席の階段にまで座って見てくださいました。当時の中座の支配人がお尻に敷くのに古い芝居のポスターを出してきましてね。『それはいかんやろ』ということで座布団をお出ししたこともありました。」<ref>{{Cite book|title=関西・歌舞伎を愛する会結成四十周年記念七月大歌舞伎パンフレットp・37|date=2019年7月20日|year=2019年|publisher=大阪松竹座}}</ref>と述懐している。