上水道
上水道(じょうすいどう)とは、一般的には水道法による水道のことを指し、水道法による定義では「導管およびその他の工作物により、水を人の飲用に適する水として供給する施設の総体をいう」とされている。下水道などと区別するために上水道と呼ばれることが多い。
水道事業
一般の需要に応じて、水道により飲用に適する水を供給する事業のうち給水人口が100人を超えるものを水道事業という。
- 簡易水道事業 - 水道事業のうち給水人口が5000人以下であるもの(水道法)
- 水道用水供給事業 - 水道により水道事業者に対してその用水を供給する事業(水道法)
- 上水道(事業) - 水道事業のうち簡易水道を除いた給水人口が5000人を越えるものを、上水道(事業)ということがあるが、厳密には水道法で定義された概念ではない。
水道事業者
水道事業を経営しようとする場合は、厚生労働大臣または都道府県知事の認可を受けなければならない。認可を受けた水道事業者は、事業計画に定める給水区域内の需要者から給水契約の申込みを受けたときは、正当な理由がなければ拒むことができず、原則として、水道により給水を受ける者に対し、常時水を供給しなければならない。また、施設を変更したり、料金を変更するときは、厚生労働大臣等の認可を受けなければならないなど、水道法の規制を受ける。
現在、水道事業はそのほとんどが地方公共団体により経営される企業(地方公営企業)によって行われている。多くの地域で、個々の需用者と直接契約して給水する「水の小売り」は各市町村の水道事業が担当している。都府県営水道がある地域でも「水の問屋」として各市町村に対して給水するのが普通だが、例外として、東京都(23区全域と多摩地区の一部)・千葉県(北西部の大部分)・神奈川県(中央部の大部分)などでは、都県営水道が直接利用者と契約して給水している。
水道事業を行なう主体は、都道府県では水道局あるいは企業庁・企業局の水道部門である。市町村では、水道局・水道部・水道課と呼ばれているほか、上下水道局・建設部などの一部門となっている自治体も多い。複数の市町村にまたがる企業団や組合が水道事業を行なう地域もある。近年、水道料金の値上げが多い。理由として、水源地の水利権の高コスト体質や施設の老朽化、建設時の借入金の負担や市町村合併伴うものや節水意識で単価を上げると言った理由が多い
水源
構成要素
- 取水施設
- 浄水施設
- 貯水施設
- 配水施設
- 送水ポンプ
- 導管
- 水量計
水質基準
水道法による水質基準は、厚生労働省令により50項目の検査項目、検査方法及び基準値が定められており、これに適合しないと水道水として供給できない。
なお、水質基準とは別に、水質基準に準じて検出状況を把握し、水質管理上留意すべき項目として、水質管理目標設定項目があり、農薬などの目標値が定められている。[1]
日本水道協会が全国の水質検査結果をデータベース化して公開している。[1]
上水道の歴史
水道のルーツは古代地中海沿岸諸国とされる。当初は、深いところにある井戸の水を遠くに運ぶための水路であったと考えられている。
古代ローマ人は後世「ローマ水道」と呼ばれることになる巨大なネットワークを構築したが、中世以後衰微する。
日本では、16世紀半ば、北条氏康の小田原支配時に早川から水を引き、小田原城下に飲用として供した小田原早川上水が最古の水道と考えられている。豊臣秀吉の小田原攻めに参陣した諸大名たちは、この上水を見て、自領の上水開設の参考にしたものと考えられている[2]。徳川家康もその一人で、1600年頃の江戸の都市建設のために井之頭池から引いた神田上水をはじめ、その後、玉川上水、千川上水などが江戸の町に引かれていった(後に青山・亀有・三田の3つを加えて「六上水」と称した)。現代から見れば、浄水施設や各戸給水がないという問題点があったものの、当時世界でもっとも進んだ設備を有していた。
水道の近代化は1787年のパリで蒸気式揚水用ポンプが使われ、1829年にロンドンで砂濾過池による浄水設備の設置以降のことであり、鉄製パイプによる水道管の開発など19世紀のヨーロッパで急速に発達した。
日本の近代的水道は、1887年(明治20年)10月17日に、横浜の外国人居留地で給水されたのが始まりである。当時居留地では、井戸を掘っても塩水が混じり、飲用に適さなかった。そこで当時の神奈川県知事は、イギリス人技師のH.S.パーマーを顧問に招き、相模川の上流に水源を求めて近代水道の建設に着手した。1885年(明治18年)に始められた工事は、1887年(明治20年)9月に竣工し、翌月から給水が始められた。近代水道は、1890年(明治23年)に水道の全国普及と水道事業の市町村による経営を内容とする水道条例が制定されたことにより、都市部で急速に実用化された。旧来の水道設備が充実していたために整備が遅れていた東京でも、1898年(明治31年)には多摩川から淀橋浄水場を経由して、市内へと配水する設備が完成した。