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'''井深 宅右衛門'''(いぶか たくえもん、[[文政]]13年[[1月26日 (旧暦)|1月26日]]([[1830年]][[2月19日]]) - [[明治]]30年[[1897年]][[3月19日]])は、[[日本]]の[[幕末]]から明治にかけての[[会津藩|会津武士]][[会津]]士)明治時代の地方官吏、教育者である。幼名は梶之助、名は重義、宅右衛門は通称である。
 
==生涯==
父の死去により、家禄550石井深家を継ぐ。物頭、組頭、町奉行、奏者番上席などを歴任し、[[京都守護職]]となった会津藩軍事奉行として幕末の京へ赴く。[[慶応]]2年([[1866年]])に会津へ戻り学校奉行に就任。藩校・[[日新館]]館長として教育にあたる。のちの[[白虎隊]]士らが在籍していた時期である。[[鳥羽・伏見の戦い]]に敗れた会津藩は藩領の防衛体制を固めることになり、宅右衛門は日新館の教師、学生などから構成された第二遊撃隊頭として出陣。越後方面の会津藩飛び地の守備にあたった。この時15歳であった長男・[[井深梶之助|梶之助]]は同行を許されなかったが、後を追い宅右衛門と同陣している。[[町野主水]]らと共同して戦ったが、新政府軍が[[若松城|会津若松城]]城下へ侵攻したことに伴い撤退。宅右衛門は入城に成功して籠城戦に加わり、用人として[[松平容保]]父子の側で仕えた。しかし藩は降服することとなり、宅右衛門は藩主[[松平喜徳]]に従って、江戸で謹慎生活を送った。
幼名は梶之助、名は重義、宅右衛門は通称である。宅右衛門は漢学に優れ、また茶道も会津怡渓派の皆伝を受けた。
 
会津藩は[[会津藩#斗南藩|斗南藩]]として再興されることとなり、宅右衛門は[[五戸町|五戸]]に移住するが、明治6年([[1873年]](明治6年))に会津戻り、若松区長、小学校教員、南会津郡書記、田島村戸長を勤めた。墓は[[青山霊園]]にある。
;幕末
父の死去により、家禄550石井深家を継ぐ。物頭、組頭、町奉行、奏者番上席などを歴任し、[[京都守護職]]となった会津藩軍事奉行として幕末の京へ赴く。慶応2年に会津へ戻り学校奉行に就任。藩校・[[日新館]]館長として教育にあたる。のちの[[白虎隊]]士らが在籍していた時期である。[[鳥羽・伏見の戦い]]に敗れた会津藩は藩領の防衛体制を固めることになり、宅右衛門は日新館の教師、学生などから構成された第二遊撃隊頭として出陣。越後方面の会津藩飛び地の守備にあたった。この時15歳であった長男・[[井深梶之助|梶之助]]は同行を許されなかったが、後を追い宅右衛門と同陣している。[[町野主水]]らと共同して戦ったが、官軍が[[若松城|会津若松城]]城下へ侵攻したことに伴い撤退。宅右衛門は入城に成功して籠城戦に加わり、用人として[[松平容保]]父子の側で仕えた。しかし藩は降服することとなり、宅右衛門は藩主[[松平喜徳]]に従って、江戸で謹慎生活を送った。
 
== 人物 ==
;明治
幼名は梶之助、名は重義、宅右衛門は通称である。宅右衛門は* 漢学に優れ、また茶道も会津怡渓派の皆伝を受けた。
会津藩は[[斗南藩]]として再興されることとなり、宅右衛門は[[五戸町|五戸]]に移住するが、[[1873年]](明治6年)会津に戻り、若松区長、小学校教員、南会津郡書記、田島村戸長を勤めた。墓は[[青山霊園]]にある。
* 明治2年([[1869年]](明治2年)、藩の責任者として切腹することとなった[[萱野権兵衛長修]]は、[[溝口派一刀流|一刀流溝口派]]の免許皆伝を受けた人物であった。萱野は奥義を伝える人物として宅右衛門を選び、その死の直前に竹火箸で伝授を行った。この奥義はのちに宅右衛門の娘婿である旧会津藩士・和田又四郎<ref>『日本陸海軍総合事典』では「和田又次郎」となっている。</ref>(([[視学制度|視学官)]])に伝えられ、さらに又四郎からその子[[和田勁]]、[[和田晋]]に伝えられた。
 
;一刀流溝口派
[[1869年]](明治2年)、藩の責任者として切腹することとなった[[萱野権兵衛]]は、[[溝口派一刀流|一刀流溝口派]]の免許皆伝を受けた人物であった。萱野は奥義を伝える人物として宅右衛門を選び、その死の直前に竹火箸で伝授を行った。この奥義はのちに宅右衛門の娘婿である旧会津藩士・和田又四郎<ref>『日本陸海軍総合事典』では「和田又次郎」となっている。</ref>(視学官)に伝えられ、さらに又四郎からその子[[和田勁]]、[[和田晋]]に伝えられた。
 
==井深家==
[[室町時代]]初期に[[信濃国]]で起きた[[大塔合戦]]に井深氏の名が登場する。[[守護]][[小笠原氏]]の一族で侍大将として[[善光寺]]に入り、現在の[[長野市]][[後町]](後庁ー御庁)において、もっぱら政務に携わった井深勘解由左衛門で後庁氏の名もある。大塔合戦敗戦後は小笠原氏の本拠である現在の[[松本市]]近くの岡田伊深にある伊深城山を拠点として[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]をむかえた。[[武田信玄]]の信濃侵攻により主家の小笠原氏が出奔したため隣接地の武田側領主である[[大日方氏]]に仲介を依頼して武田氏に従属した。
井深家は会津九家と称された藩内の名門である。戦国時代末期、井深茂右衛門重吉は[[武田勝頼]]の人質となっていた[[保科正光]]の救出に功を挙げるなど、[[保科氏|保科家]]の重臣であった。その子茂右衛門重光は[[保科正之]]の家老となり、正之の埋葬の際は祭式に加わっている。他に許されたのは[[山崎闇斎]]、[[吉川惟足]]、[[服部安休]]([[森成利|森蘭丸]]の孫)など7名である<ref>『保科正之公傳』(保科正之公三百年祭奉賛会)、169頁-170頁)</ref>。重光の男子3人が分家し、幕末には7家に分かれ、井深本家は当主・茂右衛門重常が家禄1000石で[[若年寄#諸藩の若年寄|若年寄]]を務めた。
 
井深家は会津九家と称された藩内の名門である。戦国時代末期、井深茂右衛門重吉は[[武田勝頼]]の人質となっていた[[保科正光]]の救出に功を挙げるなど、[[保科氏|保科家]]の重臣であった。その子茂右衛門重光は[[保科正之]]の家老となり、正之の埋葬の際は祭式に加わっている。他に許されたのは[[山崎闇斎]]、[[吉川惟足]]、[[服部安休]]([[森成利|森蘭丸]]の孫)など7名である<ref>『保科正之公傳』(保科正之公三百年祭奉賛会)、169頁-170頁)</ref>。重光の男子3人が分家し、幕末には7家に分かれ、井深本家は当主・茂右衛門重常が家禄10001,000石で[[若年寄#諸藩の若年寄|若年寄]]を務めた。
 
重光の次男・三郎左衛門重喬家の幕末の当主は日新館の武講頭取であった井深数馬(200(200)で、次男[[石山虎之助|虎之助]]は石山家の養子となり、[[白虎隊]]士として自刃。長男の井深基は[[愛知県]][[西加茂郡]]や[[碧海郡]]の郡長などを務め、孫に[[井深大]]がいる。
 
宅右衛門の井深家は三男・清大夫重堅に始まり、宅右衛門の子が[[井深梶之助]]、[[井深彦三郎]]である。
 
一族には白虎隊士として自刃した[[井深茂太郎]]、[[戊辰戦争]]後に民政局員を斬殺し([[束松事件]])獄死した[[井深元治]]らがいる。
 
;==親族==
*父 井深清大夫重保
*母 リツ子 (柴太一郎次女)
**本人:'''井深宅右衛門'''
*妻 八代子 ([[西郷近思]]四女)
*義兄*妻:八代子 (会津藩家老[[西郷頼母]](会津藩家老の妹、[[西郷近思]]四女)
***長男 [[井深梶之助]](明治学院総理)
***次男 [[井深彦三郎]](衆議院議員)
****孫 [[井深健次]](陸軍軍医中将)
****孫 [[井深八重]](ハンセン氏病看護)
****孫 [[和田勁]](満州国陸軍中将)
****孫 [[和田晋]](剣道範士九段)
****孫婿:[[荒川文六]](九州帝国大学総長)
***女婿:[[真野文二]]([[九州大学|九州帝国大学]]総長)
 
==脚注==
{{Reflist}}
<references />
 
==参考文献==
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*『三百藩家臣人名事典2』新人物往来社、1988年
*『日本人名辞典 第1巻東京篇』日本図書センター、1987年。
*『大衆人事録 東京篇(第13版)』、1939年。
*『源祖・井深勘解由とその時代』、非売品
 
{{デフォルトソート:いふか たくえもん}}
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[[Category:1830年生]]
[[Category:1897年没]]
[[Category:福島県出身の人物]]