佐々宗淳
佐々 宗淳(さっさ むねきよ、寛永17年5月5日(1640年6月24日) - 元禄11年6月3日(1698年7月10日))徳川光圀に仕えた人物である。号は十竹(じっちく)、字は子朴(しぼく)、通称は介三郎(すけさぶろう)。彰考館総裁であった。物語『水戸黄門』に登場する佐々木助三郎のモデルであるとされている。
生涯
讃岐国出身で15歳のときに京都の臨済宗妙心寺の僧侶となり、後に黄檗宗も学んだ。仏教以外の諸学問にも通じていた。
延宝6年(1678年)、仏教に疑問を持ち寺僧と大論争をした末に寺を追われて還俗して水戸藩に仕える。光圀はその大胆さと見識を愛して側近として用いた。光圀のもとで『大日本史』の編纂に携わり那須国造碑の修復と調査、楠公碑の建立の実務を行なった。
元禄9年(1696年)、彰考館総裁に就任したが同年総裁を辞任し西山荘の光圀に仕えた。
元禄11年(1698年)、死去。“享年59(満58歳没)” [利用者の方へ]。明治40年(1907年)11月15日、明治政府より贈従四位。