中田 儀直(なかた ぎちょく、1889年12月8日[1] - 1975年6月10日[2])は、日本政治家衆議院議員(2期)。

経歴

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秋田県出身[2]1910年、秋田県立大館中学校(現・秋田県立大館鳳鳴高等学校)卒[2]陸軍に入り、歩兵中尉に進む。その後、大館町議、秋田県議、大館町長、内閣東北局委員[2]、帝国在郷軍人会本部評議員、同秋田支部評議員会議長[2]北秋田郡連合青年団長、(株)大館製作所取締役社長、北鹿新聞社、東北酒造各(株)取締役、秋田鉄工業組合長となる[2]

1936年第19回衆議院議員総選挙で秋田1区(当時)から立憲政友会公認で立候補して初当選[3]。次点の候補者(石川定辰)と1票差だった。そのため、選挙結果が争われ、石川が当選者と認められ、中田は当選無効となり失職する。翌1937年第20回衆議院議員総選挙で当選[4]1942年第21回衆議院議員総選挙では翼賛政治体制協議会の推薦を受けたが落選した[5]。終戦後、公職追放となった[6]1951年追放解除[7]。1975年死去。

脚注

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  1. ^ 衆議院『第七十二回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1937年、21頁。
  2. ^ a b c d e f 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』446頁。
  3. ^ 『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』105頁。
  4. ^ 『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』114頁。
  5. ^ 『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』123頁。
  6. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、一般該当者名簿400頁。公職追放の該当事項は「翼賛県事務局長郡協町支武徳会支所長郷軍聯合推薦議員」。
  7. ^ 『朝日新聞』1951年6月19日朝刊1面。

参考文献

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  • 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年。
  • 日本国政調査会編『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』国政出版室、1977年。
  • 『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。