坂氏(さかし、生年不詳 - 天正11年〈1583年4月)は、安土桃山時代女性織田信長側室織田信孝の生母。名は不詳。

生涯

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信長の側室となった時期、出自等は不明である[1]永禄元年(1558年)に信長との間に信孝を出産した(日付は4月4日とされ、熱田に住む叔父の岡本良勝の屋敷といわれる)[1]。次男・信雄より信孝が20日早く生まれていたにもかかわらず、坂氏より信雄の母が正室的立場で、身分の差により信長への報告を遅れさせ、出生順位を置き換えられ三男扱いされたとの説もある[2][注釈 1][1]

永禄11年(1568年)に信孝が伊勢神戸具盛の養子になると、それに同道した。この時に同族と思われる坂仙斎が信孝付の家臣となっている[1]。また信孝の異父兄弟となる小島兵部少輔も家臣となった。天正8年(1580年6月29日朝廷から杉原紙や練香を下賜されているが、何故下賜されたのかは不明である[1]。天正10年(1582年6月に信長が本能寺の変で死去すると、美濃岐阜城主となった信孝に従い美濃に移った[1]。信孝は柴田勝家と結んで羽柴秀吉と敵対し、12月に秀吉に岐阜城を攻められて降伏した際に、坂氏は信孝の娘と共に人質となった(『兼見卿記』)。

天正11年(1583年)4月、信孝が勝家と結んで再挙兵したため、秀吉により孫娘と共ににされた[4](『北畠物語』)。

坂氏は一定の政治力があり、朝廷から杉原紙などを下賜されたことに加え、秀吉の人質だった天正11年(1583年)3月5日に禁裏に蚊帳を、東宮誠仁親王美濃紙を献上するなど[注釈 2]、秀吉・信雄に対する朝廷工作を秘密裏に働きかけている。

脚注

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注釈
  1. ^ 「神戸録」「北畠物語」などの記述で、疑問視もされている[3]
  2. ^ 御湯殿の上の日記』にさん七母とある。
出典
  1. ^ a b c d e f 岡田 1999, p. 163
  2. ^ 小和田 1991, pp. 116.
  3. ^ 谷口 2005, p. 248.
  4. ^ 小和田 1991, pp. 132–133.

参考文献

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  • 小和田哲男『織田家の人々』河出書房新社、1991年。ISBN 4309222072 
  • 小和田哲男『秀吉の天下統一戦争』吉川弘文館、2006年。ISBN 978-4642063258 
  • 岡田正人『織田信長総合事典』雄山閣、1999年。 
  • 谷口克広『信長の司令官 武将たちの出世競争』〈中公新書〉2005年。