島津忠将

日本の戦国時代の武将。相州家(島津氏一門)3代当主島津忠良次男で、相州家4代当主。大隅清水城主を勤めた

島津 忠将(しまづ ただまさ)は、戦国時代武将島津氏の家臣。相州家第4代当主。島津忠良の子。子に日向佐土原藩初代藩主島津以久垂水島津家の初代とされるが、垂水を領有したのは子の以久の代になってからである。

 
島津 忠将
時代 戦国時代
生誕 永正17年5月5日1520年5月21日
死没 永禄4年7月13日1561年8月23日
改名 政久
別名 又四郎(通称
戒名 心翁大安居士
墓所 清水楞巌寺
官位 右馬頭
主君 島津貴久
氏族 島津相州家
父母 父:島津忠良、母:寛庭夫人島津成久の娘)
兄弟 御南肝付兼続室)、御隅樺山善久室)、貴久忠将にし種子島時尭室、肝付兼盛室)、花舜夫人島津義久室)、尚久
養女:円信院殿(種子島時尭の次女、島津義久継室)
佐多忠成の娘
女(入来院重豊室)、以久、女(島津忠長室)
テンプレートを表示

生涯

編集

永正17年(1520年)、伊作家10代および相州家3代当主島津忠良の子として誕生した。

兄の島津貴久が島津宗家を継いだため、薩摩島津氏の分家の相州家を継ぐ。武勇に長けた人物で、貴久をよく補佐して各地を転戦。領内統一戦のほとんどに参加し武功を挙げた。天文17年(1548年)、大隅肝付氏日向伊東氏の備えとして要衝の大隅清水城(今の霧島市国分清水)の城主となる。

永禄4年(1561年)、大隅廻城城主(廻久元)の目が不自由であることと久元の息子が幼いことにつけこみ、肝付兼続が廻城を奪った。これに対し、主君の貴久は忠将と長男の島津義久を向かわせた。忠将は竹原山に陣を構えていたが、突出した味方の町田久倍を救おうとしたところ、兼続の攻撃を受け戦死、清水の楞厳寺に葬られた。弟を討たれた貴久は自ら軍を率い出陣し兼続を撃退、廻城を奪還している。

なお、忠将が討ち取られた場所(霧島市福山町福山)には供養塔が建立されている[1]

脚注

編集