源 隆俊(みなもと の たかとし)は、平安時代中期から後期にかけての公卿醍醐源氏高明流、権大納言源隆国の長男。官位正二位権中納言

 
源 隆俊
時代 平安時代中期 - 後期
生誕 万寿2年(1025年
死没 承保2年3月13日1075年4月1日
官位 正二位権中納言
主君 後一条天皇後朱雀天皇後冷泉天皇後三条天皇白河天皇
藤原寛子(皇后宮職→中宮職→皇太后宮職→太皇太后宮職)
氏族 醍醐源氏高明流
父母 父:源隆国、母:源経頼の娘
兄弟 隆俊隆綱俊明隆基国俊公綱定賢、隆覚、覚猷、長俊、隆信、藤原俊家室、橘俊綱正室
不詳
俊実、隆子
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経歴

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後一条朝末の長元8年(1035年従五位下叙爵し、長暦2年(1038年左兵衛佐に任官する。長暦4年(1040年)従五位上・右近衛権少将に叙任されると、長久2年(1041年正五位下、長久4年(1043年従四位下寛徳元年(1044年)従四位上、寛徳2年(1045年)左近衛権中将、永承元年(1046年)右近衛権中将、永承4年(1049年正四位下後朱雀朝から後冷泉朝前半にかけて近衛次将を務めながら昇進する。

永承6年(1051年蔵人頭(頭中将)に任ぜられると、康平2年(1059年参議に任ぜられ公卿に列した。参議任官と同時に近衛中将を止められ、康平4年(1061年)には右大弁を兼ねたほか、修理権大夫を兼帯した。

康平8年(1065年)上﨟参議4名(藤原祐家源顕房藤原経季源資綱)を超えて、正三位権中納言に昇進。翌治暦2年(1066年皇后宮権大夫に任ぜられると、没するまでの約10年に亘って後冷泉天皇后・藤原寛子に仕えた。後三条朝の延久3年(1071年正二位に至る。

承保2年(1075年)3月13日に出家薨去享年51。最終官位は権中納言正二位兼太皇太后宮大夫。没後、太皇太后宮大夫の官職は存命であった父の源隆国が継いだ。

官歴

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公卿補任』による。

系譜

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h 『近衛府補任』

参考文献

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公職
先代
源経長
皇太后宮大夫太皇太后宮大夫
藤原寛子

1073 - 1075
次代
源隆国
先代
源経任
治部卿
1067 - 1075
次代
藤原経季
先代
源経長
皇后宮権大夫中宮権大夫→皇太后宮権大夫
藤原寛子

1066 - 1073
次代
藤原宗俊
先代
源俊房
近江権守
1062 - 1066
次代
藤原能季
先代
藤原経家
右大弁
1062 - 1066
次代
源経信
先代
源資綱
備前権守
1061 - 1062
次代
藤原祐家
先代
藤原資房
周防権守
1057 - 1061
次代
源資綱
先代
源資綱
蔵人頭
1051 - ?
次代
藤原能季