「善信尼」の版間の差分
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[[584年]]([[敏達天皇]]13年)、[[高句麗]]から渡来した[[僧]]・[[恵便]](えびん)に師事して出家し、善信尼と名乗った。同年、[[蘇我馬子]]が邸宅内に[[百済]]から請来した[[弥勒仏]]の石像を安置した際、弟子となった恵善尼・禅蔵尼とともに斎会を行ったと伝えられる。翌[[585年]](敏達天皇14年)3月、[[物部守屋]]による廃仏運動により法衣を剥ぎ取られて全裸にされ、海石榴市(つばいち、[[奈良県]][[桜井市]])の駅舎で鞭打ちの刑に処された。[[588年]](崇峻天皇元年)に[[戒律]]を学ぶため百済へ渡り、[[590年]](崇峻天皇3年)3月に帰国した。帰国後は[[大和国]][[桜井寺]]([[明日香村]]豊浦か)に住し、善徳など11人を尼として出家させるなど、仏法興隆に貢献した。 |
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この年、蘇我馬子が居宅の東に仏殿を作り、[[弥勒菩薩]]の石像を安置したとき、3人の尼はその大会(大きな[[法会]])に呼ばれた<ref name=shoki488></ref>。僧尼をもてなすことは仏教の実践では大切なことで、馬子・氷田・達等らは3人の尼を篤く尊崇した。蘇我馬子は、翌[[585年]](敏達天皇14年)2月24日には仏塔を建てて大会を催した<ref name=shoki490>『日本書紀』巻第20、敏達天皇14年2月戊子条。新編日本古典文学全集『日本書紀』2の490 -491頁。</ref>。 |
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== 関連項目 == |
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*[[扶桑略記]] |
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*[[渡来人]] |
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*[[仏教公伝]] |
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== 仏教弾圧 == |
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ところが仏教を拝んだせいで疫病が流行したと考えた[[物部守屋]]と[[中臣勝海]]が、3月1日に天皇から仏法を断てという詔を得た<ref name=shoki490-2>『日本書紀』巻第20、敏達天皇14年3月丁巳条。新編日本古典文学全集『日本書紀』2の490 -493頁。</ref>。[[佐伯御室]]が馬子のもとに遣わされた。役人は、引き渡された善信尼の三衣([[袈裟]])を奪い、禁固して、[[海柘榴市 (大和国)|海石榴市]](つばいち、[[奈良県]][[桜井市]])の亭(駅舎)で鞭打った<ref name=shoki490-2></ref>。 |
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== 百済留学と帰国 == |
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敏達天皇はまもなく亡くなり、続いて即位した[[用明天皇]]は仏教に心を寄せていた。[[587年]](用明天皇2年)6月21日に、善信尼は「出家の道は戒をもって本とします。[[百済]]に向かい、戒法を学び受けたいと願います」と馬子に語った<ref name=shoki510>『日本書紀』巻第21、用明天皇2年6月甲子条。新編日本古典文学全集『日本書紀』2の510 -511頁。</ref>。馬子が百済からの使節に依頼したところ、帰国後に国王に話すと言われた<ref>『日本書紀』巻第21、用明天皇2年6月是月条。新編日本古典文学全集『日本書紀』2の510 -511頁。</ref>。 |
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7月に物部守屋が滅ぼされると、仏教の興隆が国の政策になった。[[588年]]([[崇峻天皇]]元年)に、善信尼らはこの年の百済国使[[首信]]に付いて百済に行き、その地で学問を行った<ref>『日本書紀』巻第21、崇峻天皇元年是歳条。新編日本古典文学全集『日本書紀』2の518 -520頁。</ref>。翌[[589年]](崇峻天皇2年)3月に帰国し、[[桜井寺]]に住んだ<ref>『日本書紀』巻第21、崇峻天皇元年春3月条。新編日本古典文学全集『日本書紀』2の520 -521頁。</ref>。 |
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== 脚注 == |
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<references /> |
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== 参考文献 == |
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*小島憲之・直木孝次郞・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『[[日本書紀]]』2(新編古典文学全集3)、[[小学館]]、1996年。 |
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善信尼(ぜんしんに、敏達天皇3年(574年) - ?)は、6世紀後半の仏教の尼であり、記録上日本で最初の留学生(百済へ留学)[1]。父は司馬達等。仏師・鞍作止利の叔母にあたる。名は嶋(しま)。恵善尼や禅蔵尼とともに日本最初の僧尼の一人となった。
日本最初の僧尼
[編集]584年(敏達天皇13年)、高句麗の僧だったがそのとき還俗していた恵便を師として出家し、善信尼を名乗った[1]。11歳のときである。禅蔵尼、恵善尼も尼となった。男女あわせ日本人で初めての出家者である。仏教は前代に禁圧されており、善信尼の出家は、仏教を興そうとする蘇我馬子の様々な手立ての一環であった。善信尼らは、馬子の庇護のもと、池辺氷田と司馬達等のもとで衣食を供された[1]。
この年、蘇我馬子が居宅の東に仏殿を作り、弥勒菩薩の石像を安置したとき、3人の尼はその大会(大きな法会)に呼ばれた[1]。僧尼をもてなすことは仏教の実践では大切なことで、馬子・氷田・達等らは3人の尼を篤く尊崇した。蘇我馬子は、翌585年(敏達天皇14年)2月24日には仏塔を建てて大会を催した[2]。
仏教弾圧
[編集]ところが仏教を拝んだせいで疫病が流行したと考えた物部守屋と中臣勝海が、3月1日に天皇から仏法を断てという詔を得た[3]。佐伯御室が馬子のもとに遣わされた。役人は、引き渡された善信尼の三衣(袈裟)を奪い、禁固して、海石榴市(つばいち、奈良県桜井市)の亭(駅舎)で鞭打った[3]。
蘇我馬子は自分の病の治療には三宝(仏法僧)の力が必要だと天皇に願い出た[4]。天皇は、馬子が独りで仏法を行うことを許し、善信尼らの禁固を解いた。馬子は歓喜して尼を拝み、精舎を新たに建てて住まわせた[4]。
百済留学と帰国
[編集]敏達天皇はまもなく亡くなり、続いて即位した用明天皇は仏教に心を寄せていた。587年(用明天皇2年)6月21日に、善信尼は「出家の道は戒をもって本とします。百済に向かい、戒法を学び受けたいと願います」と馬子に語った[5]。馬子が百済からの使節に依頼したところ、帰国後に国王に話すと言われた[6]。
7月に物部守屋が滅ぼされると、仏教の興隆が国の政策になった。588年(崇峻天皇元年)に、善信尼らはこの年の百済国使首信に付いて百済に行き、その地で学問を行った[7]。翌589年(崇峻天皇2年)3月に帰国し、桜井寺に住んだ[8]。
脚注
[編集]- ^ a b c 『日本書紀』巻第20、敏達天皇13年是歳条。新編日本古典文学全集『日本書紀』2の488 -489頁。
- ^ 『日本書紀』巻第20、敏達天皇14年2月戊子条。新編日本古典文学全集『日本書紀』2の490 -491頁。
- ^ a b 『日本書紀』巻第20、敏達天皇14年3月丁巳条。新編日本古典文学全集『日本書紀』2の490 -493頁。
- ^ a b 『日本書紀』巻第20、敏達天皇14年6月条。新編日本古典文学全集『日本書紀』2の492 -494頁。
- ^ 『日本書紀』巻第21、用明天皇2年6月甲子条。新編日本古典文学全集『日本書紀』2の510 -511頁。
- ^ 『日本書紀』巻第21、用明天皇2年6月是月条。新編日本古典文学全集『日本書紀』2の510 -511頁。
- ^ 『日本書紀』巻第21、崇峻天皇元年是歳条。新編日本古典文学全集『日本書紀』2の518 -520頁。
- ^ 『日本書紀』巻第21、崇峻天皇元年春3月条。新編日本古典文学全集『日本書紀』2の520 -521頁。