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[[621年]]([[武徳]]4年)、[[唐]]が[[劉武周]]を平定すると、楼煩郡[[嵐県|嵐城県]]に'''東会州'''が置かれた。[[623年]](武徳6年)、東会州は嵐州と改められた。[[742年]]([[天宝 (唐)|天宝]]元年)、嵐州は楼煩郡と改称された。[[758年]]([[乾元 (唐)|乾元]]元年)、楼煩郡は嵐州と改称された。嵐州は[[河東道]]に属し、[[宜芳県|宜芳]]・[[静楽県|静楽]]・[[合河県|合河]]・[[カ嵐県|嵐谷]]の4県を管轄した<ref>『[[旧唐書]]』地理志二および『[[新唐書]]』地理志三</ref>。 |
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[[宋 (王朝)|宋]]のとき、嵐州は[[河東路]]に属し、宜芳・合河・楼煩の3県を管轄した<ref>『[[宋史]]』地理志二</ref>。 |
[[宋 (王朝)|宋]]のとき、嵐州は[[河東路]]に属し、宜芳・合河・[[婁煩県|楼煩]]の3県を管轄した<ref>『[[宋史]]』地理志二</ref>。 |
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[[金 (王朝)|金]]のとき、嵐州は[[河東北路]]に属し、宜芳・合河・楼煩の3県と飛鳶・合河津・乳浪・塩院渡の4鎮を管轄した<ref>『[[金史]]』地理志下</ref>。 |
[[金 (王朝)|金]]のとき、嵐州は[[河東北路]]に属し、宜芳・合河・楼煩の3県と飛鳶・合河津・乳浪・塩院渡の4鎮を管轄した<ref>『[[金史]]』地理志下</ref>。 |
2018年3月27日 (火) 07:00時点における版
嵐州(らんしゅう)は、中国にかつて存在した州。南北朝時代から明代にかけて、現在の山西省嵐県一帯に設置された。
概要
528年(建義元年)、北魏により肆州を分割して設置された広州を前身とする。533年(永熙2年)、広州は嵐州と改められた。
621年(武徳4年)、唐が劉武周を平定すると、楼煩郡嵐城県に東会州が置かれた。623年(武徳6年)、東会州は嵐州と改められた。742年(天宝元年)、嵐州は楼煩郡と改称された。758年(乾元元年)、楼煩郡は嵐州と改称された。嵐州は河東道に属し、宜芳・静楽・合河・嵐谷の4県を管轄した[1]。
宋のとき、嵐州は河東路に属し、宜芳・合河・楼煩の3県を管轄した[2]。
金のとき、嵐州は河東北路に属し、宜芳・合河・楼煩の3県と飛鳶・合河津・乳浪・塩院渡の4鎮を管轄した[3]。
1265年(至元2年)、モンゴル帝国により嵐州は廃止され、管州に編入された。1268年(至元5年)、嵐州が再び立てられた。元の嵐州は冀寧路に属した[4]。
1369年(洪武2年)、明により嵐州は嵐県に降格し、岢嵐州に属した[5]。