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* 女と三悪人(1962)正月用オールスター作品。劇中劇「[[弁天小僧]]」。
* 女と三悪人(1962)正月用オールスター作品。劇中劇「[[弁天小僧]]」。
* 婦系図(1962)恋と義理の板挟みで苦悩する明治のインテリ青年を爽やかに演じる。
* 婦系図(1962)恋と義理の板挟みで苦悩する明治のインテリ青年を爽やかに演じる。
* [[破戒]](1962)[[島崎藤村]]原作の文芸映画。苦悩する青年を熱演。
* [[破戒 (小説)|破戒]](1962)[[島崎藤村]]原作の文芸映画。苦悩する青年を熱演。
* 斬る(1962)代表作のひとつ。原作[[柴田錬三郎]]
* 斬る(1962)代表作のひとつ。原作[[柴田錬三郎]]
* 剣に賭ける(1962)[[千葉周作]]を描く時代劇。
* 剣に賭ける(1962)[[千葉周作]]を描く時代劇。
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* 若親分シリーズ 「[[海軍士官]]」姿が精悍で気高く描かれている。
* 若親分シリーズ 「[[海軍士官]]」姿が精悍で気高く描かれている。
* 剣鬼(1965) 原作[[柴田錬三郎]]
* 剣鬼(1965) 原作[[柴田錬三郎]]
* [[華岡青洲]]の妻(1967)原作[[有吉佐和子]]
* [[華岡青洲の妻]](1967)原作[[有吉佐和子]]
* 「[[陸軍中野学校]]」シリーズ 五部作 (1966-68)
* 「[[陸軍中野学校]]」シリーズ 五部作 (1966-68)
* ある殺し屋(1967)代表作のひとつ、ある種[[フランス映画]]を思わせる。
* ある殺し屋(1967)代表作のひとつ、ある種[[フランス映画]]を思わせる。

2008年10月28日 (火) 09:05時点における版

市川 雷蔵(いちかわ らいぞう)は歌舞伎役者の名跡の一つ。


8代目市川 雷蔵(いちかわ らいぞう、1931年8月29日 - 1969年7月17日)は日本歌舞伎役者映画俳優。映画史上最高の時代劇スターと謳われた名優。東映の中村錦之助と共に、時代劇若手二大スターとして映画界に君臨した。

経歴

京都市堀川丸太町で商社員の父・商家出身の母との間に亀崎章雄(かめざきあきお)として生まれる。しかし諸事情があり実の両親と相次ぎ離別を余儀なくされ、生後6ヶ月で父の親類筋であった歌舞伎俳優市川九團次(本名・竹内嘉三)に引き取られて養子となり、竹内嘉男(たけうちよしお)と改名。なお、更に1951年市川壽海 (3代目)(本名・太田照三)と養子縁組、このとき戸籍名を太田吉哉(おおたよしや)に改名、他界までこの名が本名となる。

1944年、海軍兵学校への進学を目指して旧制天王寺中学(現大阪府立天王寺高等学校)に入学するが後に中退し、15歳で大阪歌舞伎座、東西合同大歌舞伎『中山七里』(娘 お花)で初舞台。芸名、市川莚蔵(いちかわえんぞう)。雷蔵は歌舞伎俳優家の出身でなく、また九團次も脇役俳優ゆえ歌舞伎役者としての活動に様々な不利・制約を受け続けたが、雷蔵の実力を見抜いた評論家武智鉄二や壽海、松竹取締役(当時)・白井信太郎の引き立てで一躍関西歌舞伎の若手のホープの一人として躍り出る。

1951年、19歳で、当時の関西歌舞伎の頭領であった壽海の養子となり、8代目市川雷蔵襲名。その年の6月に大阪歌舞伎座における『伊勢音頭恋寝刃・大太講』がその襲名披露の狂言であった。

当初、養父である市川九團次は市川新蔵[1]の名跡を継がせたいと考えていたが、市川猿之助(のちの市川猿翁)に、「どこの馬の骨とも知れぬ役者に新蔵の名跡はやれぬ」と反対され、やむなく市川雷蔵を襲名したという経緯がある。

こういった経験から、父の市川九團次は何とかして息子に名門の家柄を付けてやりたいと考えるようになり、後の壽海との養子縁組につながっていく。しかし、江戸歌舞伎よりも関西歌舞伎の方が実力本位であるとは言われても、やはり保守的な部分が多く事ある毎に血縁や名跡が重視されるのが梨園の世界であり、その中での活躍の期待はやはり難しく、最終的には22歳で歌舞伎の舞台から離れて『花の白虎隊』で銀幕デビュー。これ以降は映画の世界に身を置くこととなり、結果的に歌舞伎の世界へ戻る事は生涯なかった。

雷蔵が歌舞伎、そして松竹と距離をおいたのは松竹創設者・大谷竹次郎との間に確執があったからとか、雷蔵が永年の養父・九團次を思慕するあまり、新たな養父・壽海に馴染めなかったからとも伝えられる。その上、この時期というのは、関西歌舞伎自体が興行不振や内紛によって凋落傾向どころか崩壊の様相さえ呈しつつあった頃で、公演数も激減しており、壽海が手をとって雷蔵に役を教え歌舞伎役者として育てる機会にも恵まれなかった。

また、当時松竹は若手のスターであった2代目中村扇雀(現:4代目坂田藤十郎)と4代目坂東鶴之助(現:5代目中村富十郎)の二人を「扇・鶴」として売り出し、不振の趣を見せ始めた関西歌舞伎の建て直しの起爆剤にしようと考えていたため、必然的に主役クラスの役はその二人に振られ、雷蔵へ付く役はいつまでたっても脇役扱いから脱却できなかった。裏を返せば、松竹は伝統に縛られるあまりに、歌舞伎俳優家の血ではない雷蔵の才能を見落としていた、あるいは軽視していたという事もいえ、現在では雷蔵の軽視と映画界への流出を、戦後の関西歌舞伎の凋落の一因として指摘する者もいる[2]

他方、市川雷蔵の名は歌舞伎の世界にとっては軽い名跡とは言え、松竹の手を離れた後の映画界でその存在が大きく成り過ぎた事により、歌舞伎を牛耳る松竹にとっては甚だ扱にくいものになっているのか、その後の歌舞伎の世界では現在まで名を襲う者が無い、いわゆる「永久欠番」的な存在になっている。

一方、雷蔵の映画への転身については、雷蔵の役者としての才能を買い、また喪失させまいとした映画界(特に時代劇製作サイド)がアクションを起こしたからだといってよい。『朱雀門』で東南アジア映画祭ゴールデン・ハーベスト賞受賞。大映映画の屋台骨を支える大スターとして活躍。気品や風格(『眠狂四郎』シリーズや『大菩薩峠』では左記に加え、喩え難い 虚無的な妖気すら)を表現しえた不世出の時代劇スターであるとして、その評価は没後久しい現在もなお高い。 「目の美しい、清らかな顔に淋しさの漂ふ、さういふ貴公子を演じたら、容姿に於て、君の右に出る者はあるまい」(三島由紀夫)。

また、撮影スタッフとの意見交換も積極的に行い、それまでの時代劇にありがちな、過度の寄り画面などの要求などはむしろ嫌い、リアリティを重視して地味でいいからと引きの画面などを自ら提案。アングルや照明など、様々なアイディアで撮影技術のノウハウ蓄積に大きく貢献した。

私生活では1962年日本女子大学の学生で大映社長永田雅一と養子縁組していた女性(一般人)と結婚、一男二女を授かった。映画俳優として脂がのりきり、また永年の念願だった歌舞伎復帰も検討された矢先の1969年肝臓癌のため37歳の若さで夭折。前年より下血など健康を著しく害しており入院・手術等を繰り返していた。雷蔵の遺児は当時6歳(長女)・5歳(長男)、末子の二女にいたってはまだ1歳だった。「病み衰えた顔を見せたくない」が、末期の言葉として伝わっている。

生来、身体があまり丈夫ではなかった。中村玉緒がインタビューで語ったところでは、映画撮影の合間にも付き人が何か薬を用意している光景をよく見たという。撮影に耐えうる体力づくりを行うべく、二十代半ばから晩年まで、交流のあった同志社大学の相撲部に通い、相撲の稽古によって足腰を鍛え、殺陣に生かしていた。

また、私生活はほとんど表に出さず、私生活での雷蔵の姿を見てその人が雷蔵であると気付ける者は、ファンはもとより映画業界やマスコミの人間にもほとんどいなかった[3]。親交の深かった者の多くがインタビューなどで語るところでは、メーキャップが天才的に上手で、洋装でメガネを掛けた銀行員然たる普段の雷蔵と、カメラの前の雷蔵とはまるで別人であり、舌鋒鋭い毒舌家で、多くの女優が泣かされたりしたことはあるものの、基本的に心優しい雷蔵が、どうしてあれ程に冷たい演技をできるのか不思議な程であったという。ここにも不世出と言われた雷蔵の才能の一端を見る事ができる。

大映は1971年に倒産したが、これについても雷蔵の死が致命傷になったといわれている。作家の池波正太郎は、「大映は、死ぬ間際に無理矢理一本撮らせたそうな[4]」と自らの随筆に記しており、結果的に倒産を早めるきっかけを作ったのは他ならぬ大映自身であり、また大映の姿勢が雷蔵の生命を縮めたという見方を示している。また演技力・品格・風格を兼備しながら同じく37歳で癌死したという共通点から、雷蔵は和製ジェラール・フィリップと喩えられることもある。

当時の映画の共演者やスタッフには現在でも雷蔵を慕い、若くして失われたその才能を惜しむ者が多い。だが、没して約40年を経た現在にあっては、雷蔵を直接に知る人物は映画・映像の世界でも少なくなっている。現在、雷蔵の公私に渡る人柄を直接知りまた語る事のできる著名人としては、互いが芸の世界に入る以前から親交があった中村玉緒が知られ、様々なインタビューで雷蔵の事を語っており、現在でも兄の様に慕っている事で有名である。

死後も時代を超え人々を魅了しつづけ、京都では毎年夏に映画イベント「市川雷蔵映画祭」が開催されている。

主な出演作品

約15年間に158本の映画に出演。

  • 眠狂四郎シリーズ
  • 花の白虎隊(1954)映画デビュー作。雷蔵22歳。悲劇の少年剣士役。
  • 新・平家物語(1955)溝口健二監督作品。俳優としての力量を本格的に認められた出世作。
  • 柳生連也斎・秘伝月影抄(1956)初の剣豪役。
  • 源氏物語・浮舟(1957)匂宮役。
  • 弁天小僧(1958)歌舞伎の題材に取り組んだ時代劇。
  • 若き日の信長(1959)野生かつ知略にたけた颯爽たる武将役。
  • お嬢吉三(1959)弁天に次ぐ歌舞伎もの。
  • かげろう絵図(1959)衣笠貞之助監督作品。原作は、松本清張の同名小説。
  • 千羽鶴秘帳(1959)雷蔵デザインの「千羽鶴のスタイル」
  • ジャン有馬の襲撃(1959)キリシタン大名役。
  • 初春狸御殿(1959)カラー・シネマスコープ作品。
  • 朱雀門(1957)初めての宮さま役。動乱期の愛の苦悩を生きる。
  • 炎上(1958)初の本格的現代劇。三島由紀夫の傑作「金閣寺」を映画化。これまでのイメージを一新し、俳優としての力と可能性を認められた。
  • 忠臣蔵(1958)若手筆頭スターの役どころ、浅野内匠頭を凛として演じる。
  • 薄桜記(1959)悲しい運命の愛を華麗に劇的に描いた時代劇。
  • 蛇姫様(1959)原作川口松太郎
  • ぼんち(1960)二度目の主演現代劇。原作山崎豊子
  • 幽霊小判(1960)友情出演。
  • 歌行灯(1960)原作泉鏡花
  • 切られ与三郎(1960)歌舞伎の世界から三作目。
  • 安珍と清姫(1960)道成寺伝説から。雷蔵の坊主頭が印象的。 
  • 忠直卿行状記(1960)悲運の名君役。原作菊池寛
  • 大菩薩峠シリーズ 三部作が作られた。
  • 花くらべ狸道中(1961)ミュージカル映画
  • 好色一代男(1961)雷蔵念願の西鶴もの時代劇。
  • おけさ唄えば(1961)瓢軽な味を見せる明朗股旅もの。
  • 鯉名の銀平(1961)片思いに苦しんだ挙句失恋する役。
  • 新源氏物語(1961)光源氏役。
  • かげろう侍(1961)グランド・ホテル形式の捕り物時代劇。
  • 濡れ髪牡丹(1961) ジャパニーズコメディの金字塔。
  • 女と三悪人(1962)正月用オールスター作品。劇中劇「弁天小僧」。
  • 婦系図(1962)恋と義理の板挟みで苦悩する明治のインテリ青年を爽やかに演じる。
  • 破戒(1962)島崎藤村原作の文芸映画。苦悩する青年を熱演。
  • 斬る(1962)代表作のひとつ。原作柴田錬三郎
  • 剣に賭ける(1962)千葉周作を描く時代劇。
  • 殺陣師段平(1962)新国劇の沢田正二郎役。
  • 忍びの者シリーズ 原作村山知義
  • 陽気な殿様(1962)明朗快活お馴染み若様もの。
  • 新撰組始末記(1963)新撰組隊士、山崎烝役。
  • 第三の影武者(1963)勇猛な城主とその影武者の二役を演じる。
  • 手討(1963)愛する女を自分の手で殺さねばならなくなるというドラマ。
  • 剣(1964)原作三島由紀夫。久しぶりの現代劇。大学剣道部が舞台
  • 昨日消えた男(1964)明朗時代劇
  • 無宿者(1964) 股旅時代劇
  • 若親分シリーズ 「海軍士官」姿が精悍で気高く描かれている。
  • 剣鬼(1965) 原作柴田錬三郎
  • 華岡青洲の妻(1967)原作有吉佐和子
  • 陸軍中野学校」シリーズ 五部作 (1966-68)
  • ある殺し屋(1967)代表作のひとつ、ある種フランス映画を思わせる。
  • ある殺し屋の鍵(1967) 多忙につき、2作で終わった。
  • ひとり狼(1968)代表作といえる股旅時代劇。
  • 博徒一代・血祭り不動(1969)最後の作品。

受賞歴

   2月『炎上』『弁天小僧』でブルーリボン主演男優賞、NHK映画最優秀主演男優賞受賞
   9月『炎上』の演技により、イタリアの映画誌『シネマ・ヌオボ』で最優秀男優賞受賞
  • 1964年11月『剣』で京都市民映画祭主演男優賞受賞
  • 1967年2月『華岡青洲の妻』でNHK映画最優秀男優賞受賞
     『華岡青洲の妻』でキネマ旬報主演男優賞受賞
  • 1968年11月『華岡青洲の妻』で京都市民映画祭主演男優賞受賞
  • 1969年11月京都市民映画祭マキノ省三賞受賞

参考文献

  • 『雷蔵、雷蔵を語る』 市川雷蔵著 飛鳥新社 のち朝日文庫 2003年 
  • 『完本市川雷蔵』 山根貞男編 アサヒグラフ別冊 ワイズ出版 1999年  
  • 『市川雷蔵』  石川よし子編  三一書房 1995年 
  • 『わたしの雷蔵』 石川よし子編 国書刊行会 2008年
  • 『市川雷蔵とその時代』 室岡まさる/インタビュー・構成  徳間書店
  • 『孤愁 市川雷蔵写真集』 マガジンハウス 品切れ
  • 『雷蔵好み』 村松友視著 ホーム社  のち集英社文庫 2006年 
  • NHK 知るを楽しむ 私のこだわり人物伝』2005年6・7月号(7月放送分・語りと著・村松友視※「視」の字は正しくは「示」の右に「見」)

脚注

  1. ^ 明治期に活躍した天才役者。9代目市川團十郎の養子となり、10代目の市川團十郎を継ぐだろうと言われていたが夭折。
  2. ^ 1950年代当時の歌舞伎と映画は、劇場型興行という意味においては競合する関係であった。
  3. ^ ずっと後年、平成になってからのエピソードではあるが、テレビ番組『ウッチャンナンチャンの炎のチャレンジャーこれができたら100万円!!』で行われた『有名人の顔全部答えられたら100万円』の第3回目において、最後まで残った挑戦者が最終の第100問目で答えられずに不成功に終わったが、その第100問目というのが、洋装で穏やかな微笑を見せる雷蔵の写真であった。
  4. ^ この無理矢理撮らせた「一本」とは、映画『博徒一代 血祭り不動』の事である。

関連項目