コンテンツにスキップ

「市橋信直」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
{{出典の明記}}{{特筆性}}
 
1行目: 1行目:
{{複数の問題
| 出典の明記 = 2024-03
| 特筆性 = 2024-03
}}

'''市橋 信直'''(いちはし のぶなお、[[明暦]]2年[[10月20日 (旧暦)|10月20日]]([[1656年]][[12月5日]]) - [[享保]]5年[[2月26日 (旧暦)|2月26日]]([[1720年]][[4月3日]]))は、[[近江国|近江]][[仁正寺藩]]の第3代藩主。仁正寺藩市橋家4代。
'''市橋 信直'''(いちはし のぶなお、[[明暦]]2年[[10月20日 (旧暦)|10月20日]]([[1656年]][[12月5日]]) - [[享保]]5年[[2月26日 (旧暦)|2月26日]]([[1720年]][[4月3日]]))は、[[近江国|近江]][[仁正寺藩]]の第3代藩主。仁正寺藩市橋家4代。



2024年3月11日 (月) 03:06時点における最新版

市橋 信直(いちはし のぶなお、明暦2年10月20日1656年12月5日) - 享保5年2月26日1720年4月3日))は、近江仁正寺藩の第3代藩主。仁正寺藩市橋家4代。

1000石を領した旗本市橋政直(第2代藩主・市橋政信の弟)の長男。母は山田重恒の娘。正室は井戸良弘の娘。官位は従五位下。下総守

生涯

[編集]

通称は三左衛門、伝左衛門、外記。寛文4年(1664年)8月13日、将軍徳川家綱にお目見えする。寛文10年7月8日、実父政直の死去により、旗本市橋家の家督を継ぎ、小普請に所属する。旗本市橋家は近江国蒲生郡なとで1000石を領有していた。天和元年(1681年)2月26日、御書院番に就任する。元禄元年2月26日、桐間番に転任する。同年9月5日、再び書院番に就任する。

元禄11年(1698年)12月28日、本家である先代藩主の政信の養子となる。養父政信は長男政房に先立たれ、四男政勝を嫡子としていたが、病弱だったために一門の利政を養嗣子としていた。しかし利政も病弱を理由に廃嫡の止むなきに至り、新たに信直を養嗣子とした。なお、旗本市橋家は絶家となる。元禄12年1月28日、将軍徳川綱吉にお目見えする。宝永元年(1704年)2月27日、養父政信の死去により信直が跡を継いだ。宝永6年3月7日、従五位下下総守に叙任する。

享保5年(1720年)2月26日(または3月26日)、仁正寺にて死去し、跡を養嗣子の直方が継いだ。法号は永昌院俊山玄英大居士。墓所は滋賀県蒲生郡日野町の清源寺。

系譜

[編集]

父母

正室

養子