「忠実屋」の版間の差分
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2013年2月5日 (火) 14:36時点における版
種類 | 株式会社(1994年3月1日付で消滅) |
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市場情報 |
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略称 | 忠実屋、フランツ |
本社所在地 |
〒160-0021 東京都新宿区歌舞伎町2-1-11 林原第2ビル |
本店所在地 |
東京都八王子市八幡町4-11 (八幡町店) 東京都八王子市初沢町1227-4 (高尾店、登記上の本社・本店) |
設立 |
1954年8月4日 (1933年10月創業) |
業種 | 小売業 |
事業内容 | スーパーマーケットの経営 |
代表者 |
越智琢一(代表取締役会長) 谷島茂之(代表取締役社長) 高木國夫(代表取締役副社長) |
資本金 | 125億9400万円 |
売上高 | 321,912百万円(1993年度) |
関係する人物 |
高木国勝(第1次創業者) 高木夏子(第1次創業者の妻) 高木吉友(第2次創業者) 高木シン子(第2次創業者の妻、株保有者) |
特記事項:このデータは最終となる1994年分のデータを表記している。 |
株式会社 忠実屋(ちゅうじつや、Chujitsuya Co., Ltd.)は、かつて首都圏を中心にスーパーマーケット等を展開していた日本の企業。1994年3月1日、株式会社ダイエーに吸収合併された。
概要
創業 国勝とキリスト
父が織物買継商の検査官の下で五人兄弟の長男として埼玉県深谷市に生まれた高木国勝(以降:国勝)は尋常高等小学校を卒業後、織物について学ぶ為、桑都と言われていた東京都八王子市に足を運び織物の行商を行っていた。丁度その頃、キリスト教の教えに共感し入信。深谷にも戻っていたが父の死後は八王子の織物会社に入社した。更には遠藤夏子(以降:夏子)と出会い1934年12月22日に結婚した。夏子は警察官の父の下、九人兄弟の長子として山形県東置賜郡大塚村に生まれた。国勝と同様にキリスト教の教えに共感。東京から夏期伝導の為、山形に訪れた牧師に教えを乞い東京にやって来たのであった。
結婚後、国勝は勤めていた会社を辞め、商人として歩むこととなる。同じくキリスト教に入信していた漬物屋「いろは屋」の主人から暖簾を借りて八王子市周辺で行商を始めたのが忠実屋の原点であった。いろは屋は当時、関東1位・2位を争う漬物屋として知られていた。当時の日本経済は満州事変や国際連盟脱退などの影響もあり劣悪で売上低迷に喘ぐが、苦肉の打開策として自家製の煮豆を販売したところ売上も上がり評判となった。ところが、本家のいろは屋側から漬物のイメージダウンに繋がる恐れがあるので煮豆の販売を止めるよう抗議を受けた。国勝は夏子と相談を重ね、いろは屋の暖簾を返上し40年に渡り使用される事となる「忠実屋」の名称が誕生した。この屋号は後述の通りキリスト教の正典の一節から取られている。
国勝の死 吉友へバトンタッチ
1943年10月に国勝が肺結核で「これまでご苦労だった」と夏子に遺言を残して死去、1年後の終戦を以って忠実屋を再開させた。焼野原と化した八王子市八幡町の映画館跡地に10坪の商店を建設した。
一方、後に養子として迎えられる事となる伊藤吉友(以降:高木吉友または吉友)は生粋の八王子出身で戦時中は明治大学在学中であったが1944年12月25日に赤紙が届き、静岡のはやぶさ36連隊に入隊。満州等に出兵したが1945年8月15日の終戦を以って日本に帰国しており、友人とともに八王子でコンニャク屋を始めた。これが地元で瞬く間に評判となり夏子の耳にも入ってくるようになった。夏子はコンニャク屋で吉友と接することが多くなり養子として欲しいと思うようになった。こうして1947年に吉友は高木家に養子として迎え入れられ、更に養女として後に吉友と結婚する事となる、夏子の末子の妹であったシン子を受け入れた。
なお、一部雑誌や報道等で吉友が創業者として紹介されることがあるが厳密には国勝が商店としての忠実屋の創業者で、吉友は会社としての忠実屋の創業者である。
以降、有限会社を設立し、スーパーマーケットチェーン路線に進み首都圏全域で店舗展開。スーパー事業以外にも不動産・旅行代理店・家電量販店等の事業にも乗り出した。更には外国への進出も行い、忠実屋はすさまじい勢いで成長していく。
ダイエー傘下に 4社合併で消滅へ
バブル崩壊後、売り上げが下落傾向にあった忠実屋だったが、1989年に秀和が同社の株を大量に買い占める事件が発生(忠実屋・いなげや事件)。後が無くなった忠実屋は、創業者の吉友の「自主独立を貫く」という強い意志を尊重するべく他会社との連携は一切していなかった。1991年6月に吉友が心不全で死去すると事態は一変した。吉友の子息であり長男の高木國夫(当時副社長)が父の吉友の意思とは逆の現実的な路線(他会社との連携)を取ることを認め、同年12月に大手スーパーのダイエーと資本・業務で提携することに合意した。ダイエーの中内功(当時)は「忠実屋から提携の申し入れがあり、すぐに決定した」とのことだった。
しかし過半数の忠実屋株を秀和が所有していた為、ダイエーは時期を見て同グループのマルエツと共に同社株を公開買い付け(TOB)を行い見事成功。1992年3月1日に正式にダイエーの系列会社となった。筆頭株主はダイエーでは無く、1772万7000株を取得したマルエツだった。これにより一連の事件は事実上の終焉を迎えた。
ダイエーの系列会社になったとはいえ、創業者の吉友が語っていた「自主独立を貫く」という方針で忠実屋は様々な対策を取るも、1993年2月期の利益は大幅減益という惨憺たる結果になり、株主・社員に迷惑は掛けられないと谷島は、1993年6月にダイエーの中内に合併話を持ちかける。当時、ダイエーは長期に渡り合併を模索していた九州のユニードダイエーと、沖縄で単独勢力で継続してきたダイナハとの3社合併を1994年に実行することを計画していた。ダイエーは、忠実屋も加えた4社での合併を決定。1994年3月1日にも施行することを決定した。
合併の準備としてダイエーで使用されているOMCカードを忠実屋でも使用可能にしたり、情報・店舗等の組織コードをダイエー基準に統一、物流センターの統一と配送地域の見直し、そして忠実屋の商号からダイエーの商号に変更する作業を行った。また、高木一族が所有する忠実屋株をダイエー側が取得し、ダイエーグループのサカエ(現:グルメシティ近畿)に売却する等、合併準備が着々と進んでいった。
合併まで約1ヶ月と迫った1994年2月3日に、忠実屋が長らく家電製品の取引を松下電器と行っていた為、合併により存続することとなるダイエーが松下電器の子会社であった松下ライフエレクトロニクス(現:パナソニック コンシューマーマーケティング)と取引契約に調印した。ダイエーと松下電器との間では、ダイエーが松下製品のテレビを破壊的な価格で販売する事に松下電器創業者である松下幸之助が強く反発し、ダイエーもそれに反発する形で松下電器の製品を不買する運動を続けた過去があった。この調印で約29年に渡る対立に終わりを告げ両社和解。今後、ダイエーグループでも段階的ではあるが松下製品を店頭に並べることとなり、忠実屋は1戦争の仲立ちをしたこととなった。
1994年3月1日にダイエー・ユニードダイエー・ダイナハと合併。約59年の歴史に幕を下ろした。1993年12月の店舗数は73店舗であった。
その後、ダイエーが経営不振に喘ぎ多くの店舗が閉鎖になる中で、忠実屋の1号店である八幡町店はダイエーからグルメシティに業態転換し2011年現在も現存している。合併後に、忠実屋の系列会社はダイエーの系列会社に統廃合され完全独立した。
コーポレートアイデンティティ (CI)
- 初代シンボルマーク(1933年 - 1973年)
社名の由来は上述の通り、キリスト教の正典である新約聖書の一節から来ている。
「 |
あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。 見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。 あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう。 死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう。 (ヨハネの黙示録2章10節より) |
」 |
マークは、いろは屋時代から一貫して○に高が入ったものを使用していた。これは創業者の高木の高から取ったものである。
- 二代目シンボルマーク(1973年 - 1994年)
忠実屋の店舗が増えて行くに連れて客から旧シンボルマークが「百貨店の高島屋と関係があるのか」という疑問の声が増えたのがマーク更新の決定打だったとされる[1]。 背景を朱一色で表しマーガレット(花言葉は忠実)の花をモチーフとしたものとなっている。
主な自社プライベートブランド
- 忠実選品
- 生活スタジオ
- マーガレット
- フランツ
店舗ブランド
- 忠実屋 - SM(スーパーマーケット)・GMS(総合スーパー)業態。
- 忠実屋名店街
- ザ・プレイス
- 忠実屋フランツ - 忠実屋店舗よりハイグレードなGMS業態。
- DISPA(ディスパ)- ディスカウント業態。吸収合併後、大半の店舗はDマートやトポスへと継承された。
沿革
- 1933年(昭和8年)10月 - 先代の高木国勝が、漬物店「いろは屋」から暖簾を借りる形で八王子市で創業。
- 1937年(昭和12年)5月 - 漬物店「いろは屋」に暖簾を返上。忠実屋の商号を使用開始。
- 1943年(昭和18年)11月12日 - 高木国勝が肺結核で逝去。高木夏子が経営を継承し、商売を継続。
- 1946年(昭和21年)10月 - 八王子市八幡町に商店を開設。戦争により中断していた商売を再開。
- 1948年(昭和23年)
- 8月 - 高木夏子が経営から退き、養子となった高木吉友(旧姓:伊藤)に経営を任せる。有限会社忠実屋に改組。吉友が社長職に就任。
- 不明 - 築地市場から仕入れを開始。
- 1950年(昭和25年) - 鮮魚の取り扱いを開始。
- 1952年(昭和27年) - 青果の取り扱いを開始。
- 1954年(昭和29年)
- 1956年(昭和31年)7月 - 天ぷら、鮮魚、中央(加工食品)、菓子、乾物の5部門を設立。
- 1957年(昭和32年)
- 1959年(昭和34年)
- 1960年(昭和35年)
- 1961年(昭和36年)
- 1962年(昭和37年)
- 1964年(昭和39年)
- 1965年(昭和40年)
- 1966年(昭和41年)
- 1967年(昭和42年)
- 6月24日 - (旧)相模原店を開店。神奈川県へ進出。
- 8月2日 - 日本チェーンストア協会に入会。
- 1968年(昭和43年)
- 1969年(昭和44年)
- 10月11日 - 共同仕入れ会社のナルサを設立。
- 1970年(昭和45年)
- 8月 - 経営管理の為、コンピューター導入。
- 1971年(昭和46年)
- 1972年(昭和47年)
- 1973年(昭和48年)
- 1974年(昭和49年)
- 1975年(昭和50年)
- 1976年(昭和51年)
- 1977年(昭和52年)
- 1978年(昭和53年)
- 1979年(昭和54年)
- 1980年(昭和55年)
- 1981年(昭和56年)
- 1982年(昭和57年)10月 - 全日本スパー本部に準会員として加入。
- 1983年(昭和58年)
- 1984年(昭和59年)
- 1985年(昭和60年)
- 1986年(昭和61年)
- 1989年(平成元年)7月 - 秀和による忠実屋・いなげや事件が発生。
- 1990年(平成2年)2月 - 業界で初めて、店内への盲導犬を受け入れる。
- 1991年(平成3年)
- 1992年(平成4年)
- 1993年(平成5年)
- 1994年(平成6年)
- 2月3日 - 当社が松下電器産業(現:パナソニック)の製品を取り扱っていた関係でダイエーが松下ライフエレクトロニクス株式会社(現:パナソニック コンシューマーマーケティング株式会社)と取扱契約に調印。ダイエー・松下戦争の終焉。
- 2月22日 - 東京証券取引所第1部の上場を廃止。
- 3月1日 - 株式会社ダイエーに株式会社ユニードダイエー、株式会社ダイナハと共に吸収合併される。忠実屋消滅。
合併後の旧忠実屋店舗
1994年、ダイエーとの合併に伴い、店名も「ダイエー」等に変更され、名実ともに忠実屋は消滅した。 仕入れルート等も一新されており、ナショナルチェーンとしてのスケールメリットが追求されたが、その後には閉鎖した店舗もある。
かつて存在した忠実屋店舗
合併以前に閉鎖された店舗。×は建物が解体された店舗。
- I・Cマコー店 → 八日町店(1974年6月26日 - 1991年8月11日)
- 旧イノウエ百貨店。後に忠実屋と組みICマコー店を経て八日町店となるも閉店。跡地は、シダックス八王子八日町クラブとなるも2011年に閉鎖された。
- FAM店×(? - 1994年)
- 旧・大丸八王子店(横山町)跡にできた忠実屋子会社(サイドウォーク→ファム)運営のファッションビル。FAMは「FAMILY AFFECTION MARKET」の略。
- 吸収合併に伴い、閉鎖。現在は合併したダイエー側が建物を売却し解体され、高層マンションとなっている。
- 並木町店(1967年8月24日 - 1991年8月25日)
- 長房店(1974年5月11日 - ?)
- 府中店(1969年6月21日 - ?)
- つつじヶ丘店(1969年3月20日 - ?)
- 跡地はライフつつじヶ丘店。
- 中河原店(1974年11月27日 - ?)
- 谷保店(?-?)
- 跡地はグルメシティ谷保店。
- 西中野店(1967年7月20日 - ?)
- 高幡店(1972年5月20日 - 1993年)
- 南烏山店(1976年11月20日 - ?)
- 町田店(1971年9月24日 - ?)
- 森野店(1976年1月30日 - ?)
- 西浦和店(?-?)
- 坂戸店(?-?)現:丸広百貨店坂戸店
- 鶴ヶ島店(?-?)現:POPOLA鶴ヶ島
- 川口店(?-1994年)現:ミエルかわぐち
- 蕨店(?-?)
- 狭山店(?-?)
- 跡地は、キャッツイアイ狭山店となっている。
- 戸田店(?-?)現:ベルクス戸田店
- 草加店(?-?)現:ベルクス草加松原店
- 北本店(?-?)現:ダイエー北本店
- 三芳店(?-?)現:ダイエー三芳店
- 飯能店(?-?)
- 小田急相模原店(1968年6月20日 - ?)
- さがみ野店(1975年4月20日 - ?)
- 相武台店(1975年9月21日 - ?)
- 大和店(1970年6月4日 - ?)
- 寒川店
- 平塚紅谷町店
- マレーシア店(1986年11月19日 - ?)
グループ企業
一部を列挙。社名は当時のもの。
スーパー・専門店運営
- 株式会社ナイス(1964年 - 1991年9月、シズオカヤに店舗経営譲渡) 新宿区
- 神奈川・鎌倉が発祥で、野村不動産の子会社として首都圏を中心に展開していた小型の食品スーパーマーケット。野村不動産が開発したマンションや住宅に出店をするも無理な出店が響き経営赤字となり、1983年に経営再建に協力してきた忠実屋が同社の株式を全て取得し傘下とした。
- 通常のスーパーよりも店舗面積が狭く大手スーパーに対抗できない為、店舗の運営が難しく、1991年9月1日に、赤字会社として整理されることとなりシズオカヤと統合し、当年度内に清算された。
- 荻原商事株式会社 → 株式会社シズオカヤ(1984年 - 2000年3月、セイフーと合併) 新宿区
- 詳しくは「グルメシティ関東」を参照。
- 新宿駅前の販売店が発祥で主に首都圏を中心に展開していたスーパーマーケット。拡大策が裏目に出て経営赤字となり忠実屋傘下に入った。忠実屋がダイエーと合併してからは単独勢力となるも2000年にセイフーと合併し消滅した。
- 株式会社サンエム(? - 1991年、経営不振により清算)
- ディスカウントストア「サンエム」を運営していた会社。経営不振により1991年に清算され、運営していた全2店は忠実屋が吸収した。
- 株式会社 忠実屋静岡(? - 1980年9月)
- 忠実屋の御殿場店と清水店を展開していた会社。
- 合弁会社チュウジツ・スーパーストア(1986年 - ?)
- 忠実屋がマレーシアに進出する際にマレーシアの大手企業、パーリス・プランテーションズ社と設立した店舗運営会社。
- 株式会社サイドウォーク(? - 1991年、経営不振により清算)
- 八王子の百貨店「ファム」と東京・大崎の高級スーパー「ザ・プレイス」を運営していた会社。1991年度の整理会社の対象となり、百貨店のファムは閉店し、専門店ビル「ファム」として同名の会社が設立され運営にあたっていた。ザ・プレイスについては同年5月に忠実屋が吸収し忠実屋に業態転換された。
- 株式会社ファム(1991年 - ?)
- 専門店ビル「ファム」を運営・管理をしていた会社。
- マーガレット商事株式会社 → 株式会社 忠実屋(? - 1976年3月)
- 株式会社ハングリータイガージャパン(1961年 - 2000年、経営不振により清算)
- 株式会社日本シーフード(? - 1991年2月末、経営不振により清算)
- 海鮮料理の「タイガーシーフードレストラン」の4店を運営していた店舗。営業不振により1991年1月末で店舗自体の営業を全て終了。同年2月末で会社も清算された。
- 株式会社忠実屋食品製造工業 → 忠実屋食品株式会社(? - 1975年、忠実屋と合併)
- 食料品を取り扱っていた会社。
- 株式会社忠実屋フードサービス(? - 1991年、経営不振により清算)
- 飲食店を経営していた会社。経営不振に清算された。運営していた大型飲食店はテナント経営となり、その運営ははん忠商事に譲渡した。
- 株式会社はん忠商事 → 株式会社ロイヤルクック(? - ?)
- 株式会社サンロベール(? - 1994年、ボンテと合併)
- 店内でパン屋を運営していた会社。忠実屋がダイエーと合併したことによりダイエーグループで同業のボンテと合併し消滅した。
- 首都圏地域スパー本部(1983年5月 - 1989年7月、カスミ系の関東地域スパー本部に営業権を譲渡)
- コンビニエンスストア部としてスパーを運営していた会社。その後、地価高騰の煽りでチェーン組の拡大が難しいと見て、1989年7月1日付けで忠実屋と同じ中堅スーパーでカスミ系の関東地域スパー本部に営業権を譲渡した。
- 株式会社ゴールデンフロア → 忠実屋衣料株式会社(? - 1975年、忠実屋と合併)
- 衣料品を取り扱っていた会社。
- 株式会社マイフロア → 忠実屋家庭用品株式会社(? - 1975年、忠実屋と合併)
- 家庭用品を取り扱っていた会社。
- 株式会社アンサンテ(? - 1991年、経営不振により清算)
- 婦人服を取り扱う専門店。赤字を長らく生み出していた為、1991年に同じく婦人服を取り扱うクランベリーハウスと共に清算された。両社が運営していた店舗はマーガレットシューズに営業譲渡され継承された。
- 株式会社クランベリーハウス(? - 1991年、経営不振により清算)
- 婦人服を取り扱う専門店。赤字を長らく生み出していた為、1991年に同じく婦人服を取り扱うアンサンテと共に清算された。両社が運営していた店舗はマーガレットシューズに営業譲渡され継承された。
- 株式会社マーガレットシューズ → 株式会社アクセル(? - 1994年、ロベリアと合併)
- 株式会社バビロ(? - 1994年、アシーネと合併)
- CD・書籍を取り扱っていた会社。忠実屋がダイエーと合併したことによりダイエーグループで同業のアシーネと合併し消滅した。
- 株式会社 忠実屋電器(? - ?)
食品加工
- 株式会社 日本加工食品(? - ?) 西多摩郡
- 株式会社ケーシー水産(? - ?) 台東区
- 株式会社コープ・ミート(? - ?) 西多摩郡
印刷・企画・ディベロッパー
- 株式会社 日本企画印刷(? - 1994年9月、セントラルオペレーションサービスと合併)
- 印刷会社。忠実屋がダイエーと合併するのに伴い、1994年9月にダイエーの子会社セントラルオペレーションサービスと合併し、ジャパンプリントシステムズとなった。
- 株式会社 日本店舗開発(? - ?) 新宿区
不動産
- 株式会社ロイヤルホーム(? - ?)
- 株式会社ダイヤ建設
レジャー
- 株式会社マーガレットコミュニティーセンター(? - ?) 上尾市
- 株式会社 御幸興業