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| 画像コメント = 森脇文庫『週刊スリラー』5月1日創刊号(1959)より
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'''中平 康'''(なかひら こう、[[1926年]][[1月3日]] - [[1978年]][[9月11日]]<ref>{{cite book|first=Alexander|last=Jacoby|chapter=NAKAHIRA Kō|title=A Critical Handbook of Japanese Film Directors: From the Silent Era to the Present Day|publisher=Stone Bridge Press|year=2008|language=英語}}</ref>)は、[[日本]]の[[映画監督]]。香港名は'''楊樹希'''(ヤン・スーシー)<ref>{{cite web|url=http://www.kochi-bunkazaidan.or.jp/~museum/previous/nakahira/nakahira.htm|title=高知県立美術館冬の定期上映会 - 「中平 康 映画祭」 - 映画をデザインした先駆的監督|work=[[高知県立美術館]]|publisher=高知県文化財団|accessdate=2014-07-31}}</ref>。父は[[洋画家]]の[[高橋虎之助]]。娘は作家の[[中平まみ]]。
'''中平 康'''(なかひら こう、[[1926年]][[1月3日]] - [[1978年]][[9月11日]]<ref>{{cite book|first=Alexander|last=Jacoby|chapter=NAKAHIRA Kō|title=A Critical Handbook of Japanese Film Directors: From the Silent Era to the Present Day|publisher=Stone Bridge Press|year=2008|language=英語}}</ref>)は、[[日本]]の[[映画監督]]。香港名は'''楊樹希'''(ヤン・スーシー)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kochi-bunkazaidan.or.jp/~museum/previous/nakahira/nakahira.htm|title=高知県立美術館冬の定期上映会 - 「中平 康 映画祭」 - 映画をデザインした先駆的監督|work=[[高知県立美術館]]|publisher=高知県文化財団|accessdate=2014-07-31}}</ref>。父は[[洋画家]]の[[高橋虎之助]]。娘は作家の[[中平まみ]]。


[[増村保造]]、[[岡本喜八]]、[[市川崑]]、[[鈴木清順]]らと共にモダン派と称された。映画テクニックを駆使しすぎるため、評論家から批判されることも多かった。代表作に『変奏曲』『混血児リカ』『月曜日のユカ』『[[狂った果実 (小説)|狂った果実]]』などがある。荻昌弘は『変奏曲』をベストテン上位にランクした。『狂った果実』は1960年代後半には、時代遅れの映画と見られるようになっていた
[[増村保造]]、[[岡本喜八]]、[[市川崑]]、[[鈴木清順]]らと共にモダン派と称された。代表作に『変奏曲』『混血児リカ』『月曜日のユカ』『[[狂った果実 (小説)|狂った果実]]』などがある。


==来歴・人物==
==来歴・人物==
=== 出生〜助監督時代 ===
=== 出生〜助監督時代 ===
大正15年([[1926年]])[[1月3日]]、[[東京]][[滝野川]]に生まれる。父は[[洋画家]]の[[高橋虎之助]]。一人娘だった母・俊[[バイオリニスト]]の中平姓を継ぐ。音楽学校を出た祖母も[[ヴァイオリン]]を教えていたなどして芸術家になることを奨励されるような家庭で育つ。
[[1926年]]([[大正]]15年)[[1月3日]]、[[東京]][[滝野川]]に生まれる。父は[[洋画家]]の[[高橋虎之助]]。一人娘だった母・俊[[バイオリニスト]]の中平姓を継ぐ。音楽学校を出た祖母も[[ヴァイオリン]]を教えていたなどして芸術家になることを奨励されるような家庭で育つ。中学時代より映画に熱中し、好きだった[[ルネ・クレール]]監督作品など同じ作品を10回くらいずつ繰り返し観るなどして研究を重ねる。[[高知高等学校 (旧制)|旧制高知高等学校]]の理科甲類を出て浪人中に、雑誌「[[人間喜劇]]」の[[諷刺]]シナリオの公募に出品して佳作5本の中に入選、題名は「ミスター・ゴエモン」。[[1948年]](昭和23年)、[[東京大学]]文学部美術科入学。所属した映画研究会には[[荻昌弘]]、[[渡辺祐介]]、[[若林栄二郎]]がいた


[[1948年]]([[昭和]]23年)、東京大学を中退し、[[川島雄三]]に憧れ[[松竹大船撮影所]]の戦後第1回助監督募集に応募、1,500人中8人([[鈴木清順]]、[[松山善三]]、[[斉藤武市]]、[[井上和男]]、[[生駒千里]]、[[今井雄五郎]]、[[有本正]])の内に撰ばれ、[[松竹]]入社。川島をはじめ、[[佐々木康]]、[[木下惠介]]、[[大庭秀雄]]、[[原研吉]]、[[渋谷実]]、[[黒澤明]]などの助監督を務める。[[ベレー帽]]は彼の生涯のトレードマークとなった。
中学時代より映画に熱中し、好きだった[[ルネ・クレール]]監督作品など同じ作品を10回くらいずつ繰り返し観るなどして研究を重ねる。旧制高知高等学校の理科甲類を出て浪人中に、雑誌「[[人間喜劇]]」の[[諷刺]]シナリオの公募に出品して佳作5本の中に入選(題名は「ミスター・ゴエモン」)。昭和23年([[1948年]])、[[東京大学]]文学部美術科入学。所属した映画研究会には[[荻昌弘]]、[[渡辺祐介]]、[[若林栄二郎]]がいた。


助監督時代は、自ら志願して就いた黒澤明と川島雄三に可愛がられた。多くの助監督が後輩を指導する際、[[脚本]]を勉強することを第一とするのが通常であったのに対し、中平は[[編集]]の技術も身に付けることを強く主張するなど、助監督時代から既に後の映画テクニックへの執着を見せる。彼はチーフ助監督として川島雄三監督の『[[真実一路 (小説)|真実一路]]』の予告編を演出した。早く監督昇進を希望していた中平は、[[西河克己]]からの誘いもあり、[[1954年]](昭和29年)、映画製作を再開した[[日活]]に移籍。日活では[[新藤兼人]]、[[田坂具隆]]、西河克己、[[滝沢英輔]]、[[山村聡]]らの助監督を務めた。
昭和23年([[1948年]])、東京大学を中退し、[[川島雄三]]監督に憧れ[[松竹大船撮影所]]の戦後第1回助監督募集に応募、1500人中8人([[鈴木清順]]、[[松山善三]]、[[斉藤武市]]、[[井上和男]]、[[生駒千里]]、[[今井雄五郎]]、[[有本正]])の内に撰ばれ、[[松竹]]入社。憧れであった川島をはじめ、[[佐々木康]]、[[木下惠介]]、[[大庭秀雄]]、[[原研吉]]、[[渋谷実]]、[[黒澤明]]等の助監督を務める。[[ベレー帽]]は彼の生涯のトレードマークとなった。

助監督時代は、自ら志願して就いた黒澤明と川島雄三に可愛がられた。多くの助監督が後輩を指導する際、[[脚本]]を勉強することを第一とするのが通常であったのに対し、その他に中平は[[編集]]の技術も身に付けることを強く主張するなど、助監督時代から既に後の映画テクニックへの執着を見せる。彼はチーフ助監督として川島雄三監督の『[[真実一路 (小説)|真実一路]]』の予告編を演出した。早く監督昇進を希望していた中平は、[[西河克己]]からの誘いもあり、昭和29年([[1954年]])、映画製作を再開した[[日活]]に移籍。日活では[[新藤兼人]]、[[田坂具隆]]、西河克己、[[滝沢英輔]]、[[山村聡]]らの助監督を務めた。


=== 日活前期〜娯楽映画、商業主義映画 ===
=== 日活前期〜娯楽映画、商業主義映画 ===
昭和31年([[1956年]])、[[プロデューサー]]の[[水の江滝子]]に才能を見出され、助監督身分のまま、殺人事件の舞台となる銀座裏通りを丸ごと[[オープンセット]]で作り、随所に[[パンフォーカス]]を駆使した『[[狙われた男]]』を監督(公開は『狂った果実』の後)、新人監督らしからぬ[[中編]][[スリラー]]となる。「うるさ型」の監督として知られ、同年の『[[太陽の季節]]』([[古川卓己]]監督)のヒットを受け、わずか17日間で撮影された1956年の二作目『[[狂った果実 (小説)|狂った果実]]』がヒット作となった。これにより、新人だった[[石原裕次郎]]がスターになっていった。
[[1956年]](昭和31年)、[[プロデューサー]]の[[水の江滝子]]に才能を見出され、助監督身分のまま、殺人事件の舞台となる銀座裏通りを丸ごと[[オープンセット]]で作り、随所に[[パンフォーカス]]を駆使した『[[狙われた男]]』を監督(公開は『狂った果実』の後)、新人監督らしからぬ[[中編]][[スリラー]]となる。「うるさ型」の監督として知られ、同年の『[[太陽の季節]]』([[古川卓己]]監督)のヒットを受け、わずか17日間で撮影された2作目『[[狂った果実 (小説)|狂った果実]]』がヒット作となった。これにより、新人だった[[石原裕次郎]]がスターになっていった。


[[ルネ・クレール]]、[[ビリー・ワイルダー]]に心酔。才能のポテンシャルとしては同世代のモダン派として並び称された[[岡本喜八]]、[[増村保造]]らと同レベルと見られた。『[[牛乳屋フランキー]]』、『[[街燈]]』、『[[誘惑 (1957年の映画)|誘惑]]』、『[[才女気質]]』等のスピーディーで軽妙洒脱な作品に力量を発揮した他、『[[殺したのは誰だ]]』、『[[紅の翼]]』、『[[その壁を砕け]]』、『密会』等の[[サスペンス]]や[[ミステリー]]と、あらゆるジャンルを描いた。昭和34年([[1959年]])には[[エジプト]]との合作『[[アラブの嵐]]』を監督。当初は通訳をつけていたが、中平の意向で途中から通訳なしで撮影をしていた。中平曰く「喜怒哀楽が同じだから、言葉は通じなくても意が通じた」とのこと。昭和35年([[1960年]])の『[[学生野郎と娘たち]]』では、主人公を一人に限定せず多くの登場人物を等価に描くという中平流群像劇の方法論を映像化した。しかし「反・荘重深刻派」、「日本軽佻浮薄派」を自任し、テーマ性や社会性がある題材よりも娯楽映画を好み、映像テクニックを重視する彼の作風は、映画評論家には理解されなかった。
[[ルネ・クレール]]、[[ビリー・ワイルダー]]に心酔。才能のポテンシャルとしては同世代のモダン派として並び称された[[岡本喜八]]、[[増村保造]]らと同レベルと見られた。『[[牛乳屋フランキー]]』、『[[街燈]]』、『[[誘惑 (1957年の映画)|誘惑]]』、『[[才女気質]]』等のスピーディーで軽妙洒脱な作品に力量を発揮した他、『[[殺したのは誰だ]]』、『[[紅の翼]]』、『[[その壁を砕け]]』、『密会』等の[[サスペンス]]や[[ミステリー]]と、あらゆるジャンルを描いた。[[1959年]](昭和34年)には[[エジプト]]との合作『[[アラブの嵐]]』を監督。当初は通訳をつけていたが、中平の意向で途中から通訳なしで撮影をしていた。中平曰く「喜怒哀楽が同じだから、言葉は通じなくても意が通じた」とのこと。[[1960年]](昭和35年)の『[[学生野郎と娘たち]]』では、主人公を一人に限定せず多くの登場人物を等価に描くという中平流群像劇の方法論を映像化した。しかし「反・荘重深刻派」、「日本軽佻浮薄派」を自任し、テーマ性や社会性がある題材よりも娯楽映画を好み、映像テクニックを重視する彼の作風は、映画評論家には理解されなかった。


[[エッセイ]]や[[映画評論]]もおこなった。娯楽映画やスター・システムに乗っかった中平は、[[映画賞]]で「テーマ性や社会性のある作品ばかりがベストテン入り」する状況を厳しく批判した。このあたりが中平の限界であると言え、60年代以降評価が下がる原因となる。映画を原作や素材によって評価するのではなく、その素材をどのように映像化したかをこそ評価すべきだと繰り返し訴えたが、聞く耳を持つ者はあまりいなかった。その結果、映画評論家を敵に廻すことも多かった。
[[エッセイ]]や[[映画評論]]もおこなった。娯楽映画やスター・システムに乗っかった中平は、[[映画賞]]で「テーマ性や社会性のある作品ばかりがベストテン入り」する状況を厳しく批判した。映画を原作や素材によって評価するのではなく、その素材をどのように映像化したかをこそ評価すべきだと繰り返し訴えたが、聞く耳を持つ者はあまりいなかった。その結果、映画評論家を敵に廻すことも多かった。この時期に日活の[[スター・システム (俳優)|スター・システム]]が確立されたのに伴い、[[プログラムピクチャー]]を量産。スター中心の映画製作であっても、あくまでも「まず映画ありき」の姿勢で臨み、[[吉永小百合]]は後に「一番恐い監督でした」と語るなど、その演出姿勢は変わらず厳しいものであったとされる


『[[学生野郎と娘たち]]』の次に撮った『[[地図のない町]]』は[[橋本忍]]に納得の行くまで脚本の書き直しを依頼し[[石原裕次郎]]主演作として自ら企画したが、裕次郎のスターイメージを損なうとして会社側に却下されて、結局、[[葉山良二]]主演で映画化された。同年、石原の『[[あした晴れるか]]』から[[1961年]](昭和36年)には中平最大のヒット作となった石原の『[[あいつと私]]』をはさんで1963年(昭和38年)、吉永小百合の[[純愛]]路線の『[[現代っ子 (映画)|現代っ子]]』まで、娯楽映画、商業主義映画が続いた。
この時期に日活の[[スター・システム (俳優)|スター・システム]]が確立されたのに伴い、[[プログラムピクチャー]]を量産。スター中心の映画製作であっても、あくまでも「まず映画ありき」の姿勢で臨み、[[吉永小百合]]は後に「一番恐い監督でした」と語るなど、その演出姿勢は変わらず厳しいものであったとされる。

『[[学生野郎と娘たち]]』の次に撮った『[[地図のない町]]』は[[橋本忍]]に納得の行くまで脚本の書き直しを依頼し[[石原裕次郎]]主演作として自ら企画したが、裕次郎のスターイメージを損なうとして会社側に却下されて、結局、[[葉山良二]]主演で映画化された。同年、石原裕次郎の『[[あした晴れるか]]』から昭和36年([[1961年]])には中平最大のヒット作となった石原裕次郎の『[[あいつと私]]』をはさんで1963年、吉永小百合の[[純愛]]路線の『[[現代っ子 (映画)|現代っ子]]』まで、スターシステムに乗っかった娯楽映画、商業主義映画の凡作、駄作が続いた。


=== 日活後期:『月曜日のユカ』で新境地 ===
=== 日活後期:『月曜日のユカ』で新境地 ===
昭和39年([[1964年]])には[[加賀まりこ]]の『[[月曜日のユカ]]』、[[戸川昌子]]原作『[[猟人日記 (戸川昌子)|猟人日記]]』、[[吉行淳之介]]原作『[[砂の上の植物群]]』、『[[おんなの渦と渕と流れ]]』と立て続けに撮った映画は、テクニック面に才気を見せるが、彼の作品は映画賞にはまるで縁がなかった。「[[ヒッチコック]]だって賞なんかもらってやしない」と周囲に洩らすこともあったという。岡本・増村、同じ日活の[[今村昌平]]や[[浦山桐郎]]が名声を高めていく中で取り残された焦りからか生活を荒れさせ、撮影現場で飲酒することすらあったと伝えられる。
[[1964年]](昭和39年)には『[[月曜日のユカ]]』、『[[猟人日記 (戸川昌子)|猟人日記]]』、『[[砂の上の植物群]]』、『[[おんなの渦と渕と流れ]]』と立て続けに撮った映画は、テクニック面に才気を見せるが、彼の作品は映画賞には縁がなかった。「[[ヒッチコック]]だって賞なんかもらってやしない」と周囲に洩らすこともあったという。岡本・増村、同じ日活の[[今村昌平]]や[[浦山桐郎]]が名声を高めていく中で取り残された焦りからか生活を荒れさせ、撮影現場で飲酒することすらあったと伝えられる。[[加賀まり子]]によると『月曜日のユカ』の撮影時の現場では既に中平は泥酔状態で実質監督したのは[[斎藤耕一]](脚本・スチルカメラ)であったという


昭和40年([[1965年]])、[[小林旭]]の[[:Template:黒い賭博師|黒い賭博師シリーズ]]では中平が初登板した第6作『[[黒い賭博師]]』で、従来の哀愁や情念の要素を抜き去った、モダンなタッチに路線変更。翌昭和40年([[1965年]])、シリーズ最終作となる『[[黒い賭博師 悪魔の左手]]』でも、度が過ぎるほどの荒唐無稽さと映像テクニックを見せつけた。この時期、日活のヒットメーカーとして、「森永キャラメル(健次郎)」「江崎グリコ(実生)」「中平おこし」と、菓子の名前で並び称されていた。
[[1965年]](昭和40年)、[[小林旭]]の[[:Template:黒い賭博師|黒い賭博師シリーズ]]では中平が初登板した第6作『[[黒い賭博師]]』で、従来の哀愁や情念の要素を抜き去った、モダンなタッチに路線変更。翌[[1966年]](昭和41年)、シリーズ最終作となる『[[黒い賭博師 悪魔の左手]]』でも、度が過ぎるほどの荒唐無稽さと映像テクニックを見せつけた。この時期、日活のヒットメーカーとして、「森永キャラメル(健次郎)」「江崎グリコ(実生)」「中平おこし」と、菓子の名前で並び称されていた。


昭和42年([[1967年]])以降、[[香港]]の[[ショウ・ブラザーズ]]に招かれ、自身の『[[野郎に国境はない]]』、『[[狂った果実]]』、『[[猟人日記 (戸川昌子)|猟人日記]]』をそれぞれリメイクした他、[[渡辺祐介]]脚本(ノンクレジット)の『[[飛天女郎]]』を監督。日本と香港を往来しつつ、日本でも映画を撮るが、[[日活]]が勢いを失っていく中、撮影時の飲酒を咎められるなどもあり、昭和43年([[1968年]])『[[ザ・スパイダースの大進撃]]』を最後に日活を解雇される。解雇及び香港での映画製作のきっかけは昭和38年頃に当時の日活堀社長と映画を巡って喧嘩を起こしたことだった。東宝の[[藤本真澄]]、東映の[[岡田茂 (東映)|岡田茂]]に掛け合って映画を撮らせて欲しいと頼んだが、[[五社協定]]を理由に断られ、日本では映画が撮らせてもらえないと判断したからであるという。堀社長からは「他の奴と違うことをするな」と戒められたが、それは自分の性分に合わないと中平は聞き入れなかった。
[[1967年]](昭和42年)以降、[[香港]]の[[ショウ・ブラザーズ]]に招かれ、自身の『[[野郎に国境はない]]』、『[[狂った果実 (小説)|狂った果実]]』、『[[猟人日記 (戸川昌子)|猟人日記]]』をそれぞれリメイクした他、[[渡辺祐介]]脚本(ノンクレジット)の『[[飛天女郎]]』を監督。日本と香港を往来しつつ、日本でも映画を撮るが、[[日活]]が勢いを失っていく中、撮影時の飲酒を咎められるなどもあり、[[1968年]](昭和43年)『[[ザ・スパイダースの大進撃]]』を最後に日活を解雇される。解雇及び香港での映画製作のきっかけは1963年(昭和38年頃に当時の日活堀社長と映画を巡って喧嘩を起こしたことだった。東宝の[[藤本真澄]]、東映の[[岡田茂 (東映)|岡田茂]]に掛け合って映画を撮らせて欲しいと頼んだが、[[五社協定]]を理由に断られ、日本では映画が撮らせてもらえないと判断したからであるという。堀社長からは「他の奴と違うことをするな」と戒められたが、それは自分の性分に合わないと中平は聞き入れなかった。


=== 独立プロ時代:『混血児リカ』『変奏曲』 ===
=== 独立プロ時代:『混血児リカ』『変奏曲』 ===
昭和46年([[1971年]])には、中平プロダクションを設立。中平作品の脚本を度々担当し、助監督時代から信頼していた[[新藤兼人]]に脚本を依頼して製作した『[[闇の中の魑魅魍魎]]』が第24回[[カンヌ国際映画祭]]コンペティション部門に選ばれたが、これに洩れた[[大島渚]]監督が選考経緯不明瞭としてカンヌ国際映画祭事務当局に強く抗議、騒動となった([[日本映画製作者連盟]]が正式出品作は1国につき1作品の規定にも関わらず、中平・大島両監督の作品を送り、カンヌ国際映画祭事務当局によって『闇の中の魑魅魍魎』が正式出品作として選ばれたという経緯があった)。これに対して後に中平も「フランスの主催する映画祭なのですから文句をつけるものでもなく、抗議は筋違い」と大島監督を批判しているが、結果的に『闇の中の魑魅魍魎』は受賞を逃す。
[[1971年]](昭和46年)には、中平プロダクションを設立。中平作品の脚本を度々担当し、助監督時代から信頼していた[[新藤兼人]]に脚本を依頼して製作した『[[闇の中の魑魅魍魎]]』が第24回[[カンヌ国際映画祭]]コンペティション部門に選ばれたが、これに洩れた[[大島渚]]監督が選考経緯不明瞭としてカンヌ国際映画祭事務当局に強く抗議、騒動となった([[日本映画製作者連盟]]が正式出品作は1国につき1作品の規定にも関わらず、中平・大島両監督の作品を送り、カンヌ国際映画祭事務当局によって『闇の中の魑魅魍魎』が正式出品作として選ばれたという経緯があった)。これに対して後に中平も「フランスの主催する映画祭なのですから文句をつけるものでもなく、抗議は筋違い」と大島監督を批判しているが、結果的に『闇の中の魑魅魍魎』は受賞を逃す。


年の昭和48年([[1972年]])には新藤兼人の率いる[[近代映画協会]]に招かれ『[[混血児リカ]]』、さらに翌年にも『[[混血児リカ ひとりゆくさすらい旅]]』という2本の[[スケバン]]アクションを撮り上げた。昭和49年([[1974年]])、[[大韓民国|韓国]]の[[申フィルム]]に招かれ、『[[青春不時着]]』にて自身の『[[紅の翼]]』を[[リメイク]](脚本・共同監督)。昭和51年([[1976年]])に[[日本アート・シアター・ギルド|ATG]]で撮ったオール[[フランス]]ロケの意欲作『[[変奏曲]]』は佳作となった。この時の[[クランクイン]]後まで続いた金銭トラブルや諸々の問題は中平をかなり疲弊させた。
翌[[1972年]](昭和48年)には新藤兼人の率いる[[近代映画協会]]に招かれ『[[混血児リカ]]』、さらに翌年にも『[[混血児リカ ひとりゆくさすらい旅]]』という2本の[[スケバン]]アクションを撮り上げた。[[1974年]](昭和49年)、[[大韓民国|韓国]]の[[申フィルム]]に招かれ、『[[青春不時着]]』にて自身の『[[紅の翼]]』を[[リメイク]](脚本・共同監督)。[[1976年]](昭和51年)に[[日本アート・シアター・ギルド|ATG]]で撮ったオール[[フランス]]ロケの意欲作『[[変奏曲]]』は佳作となった。この時の[[クランクイン]]後まで続いた金銭トラブルや諸々の問題は中平をかなり疲弊させた。


その後、酒と睡眠薬の乱用も災いしてか身体が衰弱。以後、映画界からは遠ざかり数本のテレビ用2時間[[サスペンス]]ドラマを演出する。その中には彼が好んだ[[ウィリアム・アイリッシュ]]原作の作品もあった。
その後、酒と睡眠薬の乱用も災いしてか身体が衰弱。以後、映画界からは遠ざかり数本のテレビ用2時間[[サスペンス]]ドラマを演出する。その中には彼が好んだ[[ウィリアム・アイリッシュ]]原作の作品もあった。


やがて[[胃癌]]の末期であることが分かり、胃癌であることは本人には直接には伝えられていなかったともいわれるが、末期状態でありながらも、点滴を射ち、担架に寝ながら演出した[[オードリー・ヘプバーン]]主演のサスペンス『[[暗くなるまで待って]]』を[[リメイク]]したテレビ用2時間ドラマ『[[土曜ワイド劇場]] 涙・暗くなるまで待って』が遺作となる。これら晩年のテレビの仕事は、彼を助監督から監督に昇進させ、最後まで彼の才能を買っていた[[水の江滝子]]によって与えられた仕事であった。
やがて末期の[[胃癌]]であることが分かり、胃癌であることは本人には直接には伝えられていなかったともいわれるが、末期状態でありながらも、点滴を射ち、担架に寝ながら演出した[[オードリー・ヘプバーン]]主演のサスペンス『[[暗くなるまで待って (映画)|暗くなるまで待って]]』を[[リメイク]]したテレビ用2時間ドラマ『[[土曜ワイド劇場]] 涙・暗くなるまで待って』が遺作となる。これら晩年のテレビの仕事は、彼を助監督から監督に昇進させ、最後まで彼の才能を買っていた[[水の江滝子]]によって与えられた仕事であった。


昭和53年([[1978年]])9月11日、胃癌のため52歳で死去。葬儀には[[黒澤明]]、[[渋谷実]]らの姿も見られ、「彼ほど映画が好きだったやつはいない」と語る映画関係者もいたと伝えられる。
[[1978年]](昭和53年)9月11日、胃癌のため52歳で死去。葬儀には[[黒澤明]]、[[渋谷実]]らの姿も見られ、「彼ほど映画が好きだったやつはいない」と語る映画関係者もいたと伝えられる。


晩年は、オードリー・ヘプバーンビリー・ワイルダーの『[[昼下りの情事]]』のような映画を[[ジュディ・オング]]主演で映画にしたいと口にしたり、[[モーム]]の『[[月と六ペンス]]』や、[[シュテファン・ツヴァイク]]による伝記小説『[[バルザック]]』等の映画化を希望していたという。評論家の[[田山力哉]]、娘の[[中平まみ]]による評伝がある。中平映画のテンポは速いが、中平自身は「私は速すぎない。他の監督の映画が遅いのだ」と言い、しかし「速い」、「遅い」と言っても、それはカット割りの細かさや編集によるものだけでなく、もっと映画全体の性質のことであると語っている(「[[キネマ旬報]]」昭和34年([[1959年]])3月上旬号)。
晩年は、オードリー・ヘプバーン&ビリー・ワイルダーの『[[昼下りの情事]]』のような映画を[[ジュディ・オング]]主演で映画にしたいと口にしたり、[[モーム]]の『[[月と六ペンス]]』や、[[シュテファン・ツヴァイク]]による伝記小説『[[バルザック]]』等の映画化を希望していたという。評論家の[[田山力哉]]、娘の[[中平まみ]]による評伝がある。中平映画のテンポは速いが、中平自身は「私は速すぎない。他の監督の映画が遅いのだ」と言い、しかし「速い」、「遅い」と言っても、それはカット割りの細かさや編集によるものだけでなく、もっと映画全体の性質のことであると語っている(「[[キネマ旬報]]」[[1959年]]3月上旬号)。


== 評価 ==
娘の[[中平まみ]]は91年に不倫関係にあった猪瀬直樹が飲酒運転の結果、交通事故を起こしたことを後に暴露し、小説も発表した。
=== 映像テクニック ===

== 評価と映像テクニック ==
[[File:Kō Nakahira02.jpg|thumb|left|220px|森脇文庫『週刊スリラー』5月1日創刊号(1959)より]]
[[File:Kō Nakahira02.jpg|thumb|left|220px|森脇文庫『週刊スリラー』5月1日創刊号(1959)より]]
中平は「テクニックの人」と呼ばれた。具体的には映像の早回しや、画面の縮小ほか多数のテクニックだが、『月曜日のユカ』ではテクニックが、映画の一部分を台無しにしている傾向もあった。映画評論家からは、彼のテクニックに偏重しすぎた面を、たびたび批判された。
中平は「テクニックの人」と呼ばれた。具体的には映像の早回しや、画面の縮小ほか多数のテクニックだが、『月曜日のユカ』ではテクニックが、映画の一部分を台無しにしている傾向もあった。映画評論家からは、彼のテクニックに偏重しすぎた面を、たびたび批判された。


中平の死後20年近く経った平成10年([[1998年]])には、中平を再評価する動きが見え始め、平成11年([[1999年]])には[[中平まみ]]著『ブラックシープ 映画監督「中平康」伝』([[ワイズ出版]])刊行記念「中平康レトロスペクティヴ」と題して映画8作品が渋谷[[ユーロスペース]]他、全国で上映された。平成15年([[2003年]])には第16回・[[東京国際映画祭]]協賛企画「映画を[[デザイン]]した先駆的監督・中平康レトロスペクティヴ」として『[[闇の中の魑魅魍魎]]』と『[[変奏曲]]』を除く国内の映画全作品に加えて、日本初公開となる『[[狂恋詩]]』、『[[猟人]]』の2本の「香港作品」まで上映させる大規模な回顧上映が渋谷ユーロスペース他、各地で開催された。ユーロスペースでは、『[[誘惑 (1957年の映画)|誘惑]]』が上映された。
後20年近く経った[[1998年]](平成10年)には、中平を再評価する動きが見え始め、[[1999年]](平成11年)には[[中平まみ]]著『ブラックシープ 映画監督「中平康」伝』([[ワイズ出版]])刊行記念「中平康レトロスペクティヴ」と題して映画8作品が渋谷[[ユーロスペース]]他、全国で上映された。[[2003年]](平成15年)には第16回・[[東京国際映画祭]]協賛企画「映画を[[デザイン]]した先駆的監督・中平康レトロスペクティヴ」として『[[闇の中の魑魅魍魎]]』と『[[変奏曲]]』を除く国内の映画全作品に加えて、日本初公開となる『[[狂恋詩]]』、『[[猟人]]』の2本の「香港作品」まで上映させる大規模な回顧上映が渋谷ユーロスペース他、各地で開催された。ユーロスペースでは、『[[誘惑 (1957年の映画)|誘惑]]』が上映された。


この回顧上映時には『[[猟人日記 (戸川昌子)|猟人日記]]』に準主演するなどして中平作品とも関わりのあった[[戸川昌子]]が主催する文化サロン「[[青い部屋]]」にてミルクマン斉藤と戸川昌子による中平康トークイベントも開催された。またユーロスペースでは『[[月曜日のユカ]]』上映に併せて[[加賀まりこ]]がトークショーのゲストとして来館した『月曜日のユカ』もまた代表作となっている。
この回顧上映時には『[[猟人日記 (戸川昌子)|猟人日記]]』に準主演するなどして中平作品とも関わりのあった[[戸川昌子]]が主催する文化サロン「[[青い部屋]]」にてミルクマン斉藤と戸川昌子による中平康トークイベントも開催された。またユーロスペースでは『[[月曜日のユカ]]』上映に併せて[[加賀まりこ]]がトークショーのゲストとして来館した『月曜日のユカ』もまた代表作となっている。


中平の自伝のようにも見える(ミルクマン斉藤による)といわれる後期作品『闇の中の魑魅魍魎』と、日本映画の枠からの脱却を計った『変奏曲』は過去にビデオ化されたことがある([[荻昌弘]]は『変奏曲』をその年の[[キネマ旬報ベストテン]]のベスト3にあげている)。
中平の自伝のようにも見える(ミルクマン斉藤による)といわれる後期作品『闇の中の魑魅魍魎』と、日本映画の枠からの脱却を計った『変奏曲』は過去にビデオ化されたことがある([[荻昌弘]]は『変奏曲』をその年の[[キネマ旬報ベストテン]]のベスト3にあげている)。


思想よりも洗練とテクニックを重んじる中平の作品は、21世紀の「保守化、商業主義した観客」にこそ受け入れられるのではないかという見方もある。その一方で、日活時代の後期は急速な衰えを見せて企画も会社お仕着せばかりになり、飛躍の機会を失ったと言われる。後年、日活時代の陳腐な作品も多く再上映され、映画ファンには不評だった。モダン派と並び称された増村、鈴木清順らが鬼才として評価される中、取り残されたような形で世を去った。田山力也の評伝ではこの時期「泥酔しながら仕事に臨むことが多く」スタッフや俳優の信頼を失墜したと書かれている。再起を賭けた『闇の中の魑魅魍魎』でも、肉体的衰えから演出を流すようになってしまっていることが後見役の新藤兼人を苛立たせたと同書にあり、主演・麿赤児の自伝でも現場に顔を出した新藤が何度も取り直しを命じる場面が書かれている。
思想よりも洗練とテクニックを重んじる中平の作品は、21世紀の「保守化、商業主義した観客」にこそ受け入れられるのではないかという見方もある。その一方で、日活時代の後期は急速な衰えを見せて企画も会社お仕着せばかりになり、飛躍の機会を失ったと言われる。後年、日活時代の陳腐な作品も多く再上映され、映画ファンには不評だった。モダン派と並び称された増村、鈴木清順らが鬼才として評価される中、取り残されたような形で世を去った。田山力也の評伝ではこの時期「泥酔しながら仕事に臨むことが多く」スタッフや俳優の信頼を失墜したと書かれている。再起を賭けた『闇の中の魑魅魍魎』でも、肉体的衰えから演出を流すようになってしまっていることが後見役の新藤兼人を苛立たせたと同書にあり、主演・麿赤児の自伝でも現場に顔を出した新藤が何度も取り直しを命じる場面が書かれている。


平成17年([[2005年]])には[[韓国]]の[[釜山国際映画祭]]にて[[成瀬巳喜男]]監督『[[浮雲 (映画)|浮雲]]』、[[今村昌平]]監督『[[神々の深き欲望]]』、[[鈴木清順]]監督『[[ツィゴイネルワイゼン]]』等と共に『[[狂った果実 (小説)|狂った果実]]』も紹介、上映された。また韓国でも「中平康レトロスペクティヴ」が開催され、[[芦川いづみ]]の可憐さが印象的な『[[あいつと私]]』等が上映された。2009年4月から5月、東京・[[ラピュタ阿佐ヶ谷]]にて、「孤高のニッポン・モダニスト 映画監督・中平康」と題して日活時代の作品から選ばれた34作品が上映された。
[[2005年]](平成17年)には[[韓国]]の[[釜山国際映画祭]]にて[[成瀬巳喜男]]監督『[[浮雲 (映画)|浮雲]]』、[[今村昌平]]監督『[[神々の深き欲望]]』、[[鈴木清順]]監督『[[ツィゴイネルワイゼン (映画)|ツィゴイネルワイゼン]]』等と共に『[[狂った果実 (小説)|狂った果実]]』も紹介、上映された。また韓国でも「中平康レトロスペクティヴ」が開催され、[[芦川いづみ]]の可憐さが印象的な『[[あいつと私]]』等が上映された。2009年4月から5月、東京・[[ラピュタ阿佐ヶ谷]]にて、「孤高のニッポン・モダニスト 映画監督・中平康」と題して日活時代の作品から選ばれた34作品が上映された。


=== キャスティング ===
==代表作==
中平は「脇の味」を出すことを得意とし、その独特な[[キャスティング]]のセンスで「意外なところに意外な人物を出す」といわれた。『[[誘惑 (1957年の映画)|誘惑]]』には[[岡本太郎]]と[[東郷青児]]が本人役で特別出演。『[[紅の翼]]』では原作者の[[菊村到]]が新聞社の編集長役で出演。『[[泥だらけの純情]]』では実際に中平が通っていた銀座のバーで馴染みだったホステスを、[[浜田光夫]]に脇毛を抜かせようとするホステス役として起用した。『[[光る海]]』では[[山本嘉次郎]]が大学の卒業式で卒業証書を渡す校長として[[カメオ出演]]。『[[黒い賭博師]]』では漫画家の[[加藤芳郎]]が汽車の中の[[ギャンブラー]]役で出演。
* 『変奏曲』<ref>http://movie.walkerplus.com/mv18288/</ref>
麻生れい子が[[ヌード]]になっている。60年代からこのような大胆な演出をしていれば、中平の評価も高まり、監督人生も違ったものになったはずである。年上の中年男性と女性の、大人の恋愛ものである。荻昌弘に高く評価された。中平の映画は、女性が主演の作品の方が魅力的とも言える。制作に矢崎泰久、撮影に浅井慎平、原作は五木寛之という、意欲的な布陣である。
* 『混血児リカ』
青木リカ主演。放送禁止用語が多く、ソフト化されていない。青木リカもヌードになっている。母親がレイプされた結果生まれたハーフの女性が、男どもと闘っていく物語。新藤兼人の脚本が秀逸である。中平は若き日に嫌っていた社会派や芸術を、受け入れる心境になったように見える。
* 『月曜日のユカ』
加賀まりこ主演。中尾彬共演。加賀は当時、新進女優だった。小悪魔的なユカのせいで、若い男は自殺的な事故死をして、中年男は殺されてしまう。
* 『結婚相談』
芦川いづみ主演。芦川いづみの官能的な演技が魅力的である。

<!--長すぎる記事は短縮してください
* 『[[殺したのは誰だ]]』
強い調子の画面を狙い、全編[[パンフォーカス]]に挑んだ社会派サスペンス。撮影は[[姫田真佐久]]。ラスト近くで汽車の中で車窓の風景を眺めている[[渡辺美佐子]]の顔のアップでは、[[スクリーン・プロセス]]を使い車窓の風景を渡辺の瞳の中に反射させて映り込ませた。[[小林旭]]の[[ビリヤード]]・シーンでは[[ドリー]]をふんだんに使い4日間も掛けて撮影し、クライマックスの自動車衝突シーンの撮影では13日間の徹夜となり100[[カット]]も使ったという。東京のど真ん中の交差点の中央でカメラが360度[[パン]]し交差点の全ての方向から芝居のタイミングに合わせて必要な[[劇用車]]が来るなど、映画テクニックへの執着としては、ある意味、最高潮に達した作品であると思われ、二度と出来ない壮絶な撮影現場だったと伝えられる。尚、小林旭は本作について「これで映画の芝居を覚えた」と語っているという。

* 『[[誘惑 (1957年の映画)|誘惑]]』
「映画を[[デザイン]]した先駆的監督・中平康レトロスペクティヴ」で上映時に拍手も上がった中平の軽妙洒脱路線の名作。一流好みで銀座が好きだった中平は、美術の[[松山崇]]と組んで、銀座通りの向かい合ったビルの家並みを本建築で作った。そして銀座のバーのマダムやホステスは、実際に中平の行きつけの店にいた本物をセットに連れて来て出演させた。二階建てのビルは上下ガラス張りで人物の動きが見えるようにするなどして凝り、こちら側のビルと向かい側のビルとで展開するドラマをクレーンを使用した撮影と絶妙なカッティングで繋いでみせた。[[安井昌二]]と踊っている[[轟夕起子]]が彼の肩に[[シラミ]]を発見するシーンでは、当時で一番長かった100[[ミリ]]の望遠[[レンズ]]で、シラミを相手に一時間かけて撮ったと伝えられる。

* 『[[紅の翼]]』
巻頭の一人称カメラ、幾何学模様のような螺旋階段、そして風船が空に舞い上がり主人公の飛行機へと繋がるオープニングから冴え渡る、傑作とする声も多い航空[[サスペンス]]。前半、[[セスナ機]]が滑走路に出て離陸する迄の数分間を執拗なまでにリアルタイムで追い続け、離陸の瞬間を盛り上げた。このシーンでは、あまり細かく[[カット]]を割ったので[[編集]]者の[[辻井正則]]が音を上げたというエピソードも。

夜明けとともに[[石原裕次郎]]らが犯人のピストルに監視されつつ不時着したセスナ機に乗り込もうとするシーンでは、徐々に夜が明けてくる状態をリアルに表現するため、まず飛行場の空き地に横70メートル、高さ15メートルの巨大な半円状の[[ホリゾント]]を建設、夜明け直前の空を描かせた。何カットか撮った後、ホリゾントの色を少し明るく塗り変えてから再び撮影をする、という作業を繰り返し、それを二日間も続けて夜明け直前から夜明け迄のシーンを完成させた。中平の行ったような手間暇のかかる常軌を逸した撮影方法は行わないのが常識であるが、中平は会社側の「[[ハリウッド]]でやれ」という反対を押し切って実行した。

* 『[[その壁を砕け]]』
冤罪を題材にした傑作ミステリー。中平が本編部分を撮影している間、当時チーフ助監督だった[[西村昭五郎]]に第二班を編成させ(第二班の撮影は[[間宮義雄]])、凝りに凝った[[タイトルバック]]を撮影させた。

東京〜新潟間を疾走する[[小高雄二]]の運転するワゴン車に[[クレジットタイトル]]が被るものだが、運転する小高の主観[[ショット (映像)|ショット]]から、そのまま右に180度パンして運転する小高を捉えるショット。木々の間から覗く太陽を追う太陽移動ショットから、そのままパンダウンして運転席からの小高の主観ショットへ。ワゴン車内のカーラジオ付近のアップから後部座席へドリーアウトして小高の背後から車の進行方向を映すショット。運転席の小高を真横で並行して走る車から捉えてナメるように対向移動していくショット。走るワゴン車のボディ後方右に張り出しで取り付けられた固定されたカメラからのショットかと思いきや、意表を突いて横・左方向にスライドしてカメラが車内に入るような形となり、そこに「監督 中平康」の[[クレジットタイトル|クレジット]]が出るショットなど、見事な導入部を作り上げた。特に[[ミステリー]]やサスペンスでは、これから起こる出来事を暗示させるような、こうした描写は重要であり、そのためには手間を惜しまなかった。尚、この[[タイトルバック]]は、[[新藤兼人]]によるオリジナルの[[脚本]]上では「ワゴン車、風を切って走る。タイトル―音楽」、「町へ突入するワゴン車」、「通り抜けるワゴン車」等と書かれているのみである。また本作では[[効果音]]や音響面でのこだわりも見せた。

* 『[[泥だらけの純情]]』
身分違いという設定の[[吉永小百合]]と[[浜田光夫]]が結ばれない恋をする[[純愛]]物の凡作だが、作品によって常に演出や映像のトーンを変える中平は、本作ではフィルムの増感処理の方法を変えてソフトな画面を作っており、色彩も薄く滲んだ独特のトーンになっている(ただし劇場の映写されたスクリーンで観なければ識別できない微妙な効果のため、テレビやビデオ鑑賞では判りにくい)。]]。-->

===キャスティング===
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中平康は、主演格のスターよりも、[[西村晃]]、[[滝沢修]]、[[仲谷昇]]、[[小池朝雄]]といった俳優を重視し「脇の味」を出すことを得意とし、その独特な[[キャスティング]]のセンスで「意外なところに意外な人物を出す」といわれた。-->
『[[誘惑 (1957年の映画)|誘惑]]』には[[岡本太郎]]と[[東郷青児]]が本人役で特別出演。『[[紅の翼]]』では原作者の[[菊村到]]が新聞社の編集長役で出演。

<!--長すぎる記事は短縮してください
『[[泥だらけの純情]]』では実際に中平が通っていた銀座のバーで馴染みだったホステスを、[[浜田光夫]]に脇毛を抜かせようとするホステス役として起用した他、新聞勧誘員の役で登場する[[野呂圭介]]も中平ならではの絶妙な味であった。
[[光る海]]』では[[山本嘉次郎]]が大学の卒業式で卒業証書を渡す校長として[[カメオ出演]]。-->

『[[黒い賭博師]]』では漫画家の[[加藤芳郎]]が汽車の中の[[ギャンブラー]]役で出演。『[[野郎に国境はない]]』では[[冨士眞奈美]]が旅客機の乗客として[[小林旭]]の隣に乗り合わせる美女としてワンシーン出演。『[[黒い賭博師 悪魔の左手]]』では[[戸川昌子]]がパンドラ王国の第一王妃役で[[カメオ出演]]、[[原泉]]は凄腕のギャンブラー役、[[ジュディ・オング]]は凄腕の「少年」ギャンブラー役で出演。『[[変奏曲]]』では[[二谷英明]]が[[スチル写真]](止め画)とセリフのみで出演した。

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==エピソード==
* [[松竹大船撮影所]]の戦後第1回助監督募集の試験の時、中平は筆記試験では極めて優秀な成績であったが、論文だけは最低点だった。それは「こうした試験に論文を書かせるなんてけしからん」とだけ書いたからであった。試験官の[[吉村公三郎]]と[[川島雄三]]は、かえって面白がって中平を合格させた([[石坂昌三]]著「巨匠たちの伝説 映画記者現場日記」三一書房)。

* 本当はデビュー作は、[[山本周五郎]]原作の「[[かあちゃん]]」になる筈だった。中平自身が映画化を希望したものだが、会社側は[[田中絹代]]が主演するなら撮らせる、という条件を出していたが実現しなかった。「かあちゃん」は後に、同じモダン派・[[市川崑]]が平成13年([[2001年]])に[[岸惠子]]主演で映画化した(「[[キネマ旬報]]」昭和37年([[1962年]])春の特大号)。

*妥協を許さぬ「うるさ型」の監督として知られ、『[[殺したのは誰だ]]』の時は同じうるさ型の作曲家・[[伊福部昭]]と組むことになり、両者の衝突は避けられぬと撮影所内には作品の完成を危ぶむ声まであったと伝えられ((株)バップ『伊福部昭 未発表映画音楽全集 日活編』VPCD-81189)、また「演技が気に入らない」として[[クランクイン]]後の俳優交代劇があったことも知られている([[中平まみ]]著『ブラックシープ 映画監督「中平康」伝』[[ワイズ出版]])。

* 『学生野郎と娘たち』のラストシーンで[[中原早苗]]が「うるせえぞ! ロッキード!」と叫ぶセリフ(このセリフは台本には無い)と、清純派の[[芦川いづみ]]を[[コールガール]]の役にしたこと等で会社側と喧嘩になり、一時は他社に行くことも考えたが[[五社協定]]で無理だったと書き残している(「[[キネマ旬報]]」昭和37年([[1962年]])春の特大号)。

* 『[[若くて悪くて凄いこいつら]]』の[[殺し屋]]役で、ガソリンを浴びて火だるまになる決死のスタントを自ら行う等、その体を張った演技と特異な風貌で中平にも度々起用されていた名[[バイプレーヤー]]・[[榎木兵衛]]の話によると、助監督時代から[[スタイリスト]]として[[ダンディ]]な中平であったが、面長な顔だったため、『[[野郎に国境はない]]』の時に[[鈴木ヤスシ]]と[[榎木兵衛]]から「馬ヅラ」と言われて本気で怒ったそうである。

* 本来『[[黒い賭博師 悪魔の左手]]』のラストシーンは、中平のプランでは劇場に揃った主演の[[小林旭]]ら出演者一同が、観客に向かって「今年も日活映画をよろしく!」と挨拶をするという掟破りのもので、撮影もされていたが、会社側に激怒されてカットされたと伝えられる。中平は不満だったらしく、その後『[[青春ア・ゴーゴー]]』を撮り、こちらでも同じことをやり、この作品の監督を3日で降ろされた(昭和53年([[1978年]])「[[映画芸術]]」12月号)。

* [[シャンソン]]好きの中平は、『[[街燈]]』の主題歌を自ら作詞して[[旗照夫]]に歌わせた(作曲は[[佐藤勝]])。『[[猟人日記]]』の[[銀巴里]]のシーンでは[[美輪明宏]]が歌うシーンがある。また『[[若くて悪くてすごいこいつら]]』における[[谷川俊太郎]]作詞の主題歌(歌:[[高橋英樹 (俳優)|高橋英樹]])は、その破れかぶれで抱腹絶倒の詞によって今や伝説的。また中平は『[[黒い賭博師 悪魔の左手]]』でも主題歌を作詞しており、その詩は「ジョルダニア」という意味不明の言葉を連呼するもので、[[小林旭]]の哀愁を帯びた歌声によって知られる。

* 葬儀に駆けつけた『[[土曜ワイド劇場]] 涙・暗くなるまで待って』で主演した[[秋吉久美子]]は、監督が癌で死期が近いとは気がつかなかった、そんな弱々しい演出ではなかった、と言っていたという。中平は作品完成から一週間後に息を引き取った(昭和53年([[1978年]])「[[映画芸術]]」12月号)。

* 愛称は「ズーさん」。[[ズーズー弁]]を喋ることで「ズー」という愛称を持っていた[[佐々木康]]監督と同じ「康」という名前であった為([[中平まみ]]著『ブラックシープ 映画監督「中平康」伝』([[ワイズ出版]]))。

* 中平康の香港名は「楊樹希」と書いて「ヤン・スーシー」と読む。ショウ・ブラザーズ作品は、後に香港にて『[[飛天女郎]]』を除く3作品『[[特警009]]』、『[[狂戀詩]]』、『[[獵人]]』が[[DVD]]化された。

* 目立ちたがり屋で、ヘソ曲がりの中平は、住んでいる家も常識破りの家で、普通、家は門を入ると玄関があるが、中平の家は門を入ると裏口があり、裏に回ると玄関がある、という不思議な一風変わった家であったと伝えられる([[石坂昌三]]著『巨匠たちの伝説 映画記者現場日記』三一書房)。

* 中平によるエッセイ『エロ・グロ・ナンセンス 故人に見せたかった映画』によると、実は相当な[[サイエンス・フィクション|SF]]ファンであると語り、[[早川書房]]から出た[[ミステリ]]やSFシリーズは殆ど読んでいたという。しかし、いわゆる本格派は嫌いで「[[異色作家短編集]]」のようなものを好み、[[SF映画]]では『[[バーバレラ]]』を手放しで絶賛、「故[[川島雄三]]先生に観てもらいたかった」と書いている(「[[映画芸術]]」昭和43年([[1968年]])11月号)。

* 昭和53年([[1978年]])「[[映画芸術]]」12月号によると、[[鈴木清順]]は中平作品の試写の時には、よく観に来ていたという証言もある。また[[鈴木清順]]は平成11年([[1999年]])、「中平康レトロスペクティヴ」開催時のパンフレット兼一般書籍に「墜落者」と題した追悼文を寄稿している。-->


==交友関係者==
==交友関係者==
*[[川島雄三]]
*[[川島雄三]]
中平は映画界に入る前から川島作品には注目しており、その後も親交が続いた。中平はマジメなことが嫌いで「日本軽佻浮薄派」と自任していたが、これは川島の影響も少なからずともあるようである。
**中平は映画界に入る前から川島作品には注目しており、その後も親交が続いた。中平はマジメなことが嫌いで「日本軽佻浮薄派」と自任していたが、これは川島の影響も少なからずともあるようである。

*[[黒澤明]]
*[[黒澤明]]
中平は黒澤明にも心酔していた。黒澤が松竹で撮った『醜聞』、『白痴』の時には、自ら志願して助監督に就き、その縦横無尽な働きぶりに黒澤に気に入られ、その後も親交が続いた。その親交については後に中平が[[エッセイ]]に書き残している。黒澤からは、中平が監督に昇進したら脚本を一本書いて提供するとまで言われていたという。黒澤は中平の葬儀にも出席した([[中平まみ]]著『ブラックシープ 映画監督「中平康」伝』 [[ワイズ出版]])。
**中平は黒澤明にも心酔していた。黒澤が松竹で撮った『醜聞』、『白痴』の時には、自ら志願して助監督に就き、その縦横無尽な働きぶりに黒澤に気に入られ、その後も親交が続いた。その親交については後に中平が[[エッセイ]]に書き残している。黒澤からは、中平が監督に昇進したら脚本を一本書いて提供するとまで言われていたという。黒澤は中平の葬儀にも出席した([[中平まみ]]著『ブラックシープ 映画監督「中平康」伝』 [[ワイズ出版]])。

*[[和泉雅子]]
*[[和泉雅子]]
なぜか中平とは馬が合い、中平邸に遊びに行ったことのある数少ない女優。『KAWADE夢ムック 総特集 鈴木清順』(河出書房出版)のインタビューにおいて、鈴木清順の本であるにも関わらず中平の話で盛り上がってしまっている。
**なぜか中平とは馬が合い、中平邸に遊びに行ったことのある数少ない女優。『KAWADE夢ムック 総特集 鈴木清順』(河出書房出版)のインタビューにおいて、鈴木清順の本であるにも関わらず中平の話で盛り上がってしまっている。
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『[[泥だらけの純情]]』で[[吉永小百合]]が[[浜田光夫]]に言うナゾナゾは、中平に頼まれて和泉が考えたものであると伝えられる。中平に[[高島屋]]で売っているアメリカ製のお人形を買ってくれと駄々をこねたら買ってきてくれたこともあったそうだ。中平の映画も全て観に行ったと語っており、特に『[[危いことなら銭になる]]』は四番館、五番館まで観に行ったという。また和泉は事ある毎に中平のことを、ハリウッドに行っても通用したくらいの才能ある「天才」等と称して、彼を尊敬していると語る。また和泉としても中平の頭の中は感覚的に体で分かっちゃう、という発言もしている。こうした和泉の発言は様々な文献の中で散見されるが、。-->

*その他の俳優、スタッフ
*その他の俳優、スタッフ
中平は、思ったことをズバズバ言う辛辣さと演出時の厳しい要求とで周囲に毛嫌いされることが多く、俳優陣にもあまり人気がなかったようであるが、女優では、[[月丘夢路]]、[[北原三枝]]、[[冨士眞奈美]]、[[稲野和子]]、[[加賀まりこ]]、[[和泉雅子]]、[[峯品子]]などと馬が合ったようで作品にも数本出演している。[[中原早苗]]、[[渡辺美佐子]]の演技を賞賛し、その他にも[[細川ちか子]]、[[岸輝子]]なども好んで作品によく出演させていた。中でも早口でセリフを言える[[中原早苗]]の演技を特に気に入っていたようで、中平作品に11本も出演して最多出演俳優となった。
**中平は、思ったことをズバズバ言う辛辣さと演出時の厳しい要求とで周囲に毛嫌いされることが多く、俳優陣にもあまり人気がなかったようであるが、女優では、[[月丘夢路]]、[[北原三枝]]、[[冨士眞奈美]]、[[稲野和子]]、[[加賀まりこ]]、[[和泉雅子]]、[[峯品子]]などと馬が合ったようで作品にも数本出演している。[[中原早苗]]、[[渡辺美佐子]]の演技を賞賛し、その他にも[[細川ちか子]]、[[岸輝子]]なども好んで作品によく出演させていた。中でも早口でセリフを言える[[中原早苗]]の演技を特に気に入っていたようで、中平作品に11本も出演して最多出演俳優となった。男優では[[二谷英明]]が中平に理解を示していたようで、多数の作品に出演していた他、中平最後の映画となった『[[変奏曲]]』においても[[スチル写真]](止め画)とセリフのみの出演をしている。[[浦山桐郎]]とは犬猿の仲だったことも有名

男優では[[二谷英明]]が中平に理解を示していたようで、多数の作品に出演していた他、中平最後の映画となった『[[変奏曲]]』においても[[スチル写真]](止め画)とセリフのみの出演をしている。[[浦山桐郎]]とは犬猿の仲だったことも有名。

*その他の人物
*その他の人物
[[石坂洋次郎]]、[[柴田錬三郎]]など各界の芸術家、小説家などに交友関係があり、『[[砂の上の植物群]]』の原作者でもある[[吉行淳之介]]とは呑み友達であったと伝えられる。
**[[石坂洋次郎]]、[[柴田錬三郎]]など各界の芸術家、小説家などに交友関係があり、『[[砂の上の植物群]]』の原作者でもある[[吉行淳之介]]とは呑み友達であったと伝えられる。


==中平康を演じた俳優==
==中平康を演じた俳優==
*[[石黒賢]]
*[[石黒賢]]
平成16年([[2004年]]『[[弟 (テレビドラマ)|弟]]』([[テレビ朝日]]系)。[[石原裕次郎]]の生涯を豪華キャスト競演でドラマ化。
[[2004年]]『[[弟 (テレビドラマ)|弟]]』([[テレビ朝日]]系)。[[石原裕次郎]]の生涯を豪華キャスト競演でドラマ化。


==フィルモグラフィ==
==フィルモグラフィ==
[[File:Crazed-Fruit-1.jpg|thumb|220px|『[[狂った果実 (小説)|狂った果実]]』(1956年)]]
*『[[狙われた男]]』 - 昭和31年([[1956年]])…処女作だが公開は『狂った果実』の後。
[[File:Yoshinaga-Sayuri-4.png|thumb|190px|『光る海』(1963年)]]
*『[[狂った果実 (小説)|狂った果実]]』 - 昭和31年([[1956年]])
[[File:Chinatsu-Nakayama-1.jpg|thumb|190px|『[[現代っ子 (テレビドラマ)|現代っ子]]』(1963年)]]
*『[[夏の嵐 (1956年の映画)|夏の嵐]]』 - 昭和31年([[1956年]])
[[File:Sunanoueno-shkubutsugun-1.png|thumb|220px|『[[砂の上の植物群]]』(1964年)]]
*『[[牛乳屋フランキー]]』 - 昭和31年([[1956年]])
[[File:Shishido-Jo-2.jpg|thumb|220px|『現代悪党仁義』(1965年)]]
*『[[街燈 (映画)|街燈]]』 - 昭和32年([[1957年]])
*『[[狙われた男]]』 - [[1956年]]…処女作だが公開は『狂った果実』の後。
*『[[殺したのは誰だ]]』 - 昭和32年([[1957年]])
*『[[誘惑 (映画)|誘惑]]』 - 昭和32([[1957年]])
*『[[狂った果実 (小説)|狂った果実]]』 - 1956
*『[[美徳よろめき]]』 - 昭和32([[1957年]])
*『[[嵐 (1956年の映画)|夏の嵐]]』 - 1956
*『[[四季の愛欲]]』 - 昭和33([[1958年]])
*『[[牛乳屋フランキー]]』 - 1956
*『[[紅の翼]]』 - 昭和33年([[1958年]]
*『[[街燈 (映画)|街燈]]』 - [[1957年]]
*『[[才女気質]]』 - 昭和34([[1959年]])
*『[[殺したのは誰だ]]』 - 1957
*『[[その壁を砕け]]』 - 昭和34([[1959年]])
*『[[誘惑 (映画)|誘惑]]』 - 1957
*『[[密会 (映画)|密会]]』 - 昭和34([[1959年]])
*『[[美徳のよろめき]]』 - 1957
*『[[学生野郎と娘たち]]』 - 昭和35年([[1960年]]
*『[[四季の愛欲]]』 - [[1958年]]
*『[[地図ない町]]』 - 昭和35([[1960年]])
*『[[]]』 - 1958
*『[[あした晴れるか]]』 - 昭和35年([[1960年]]
*『[[才女気質]]』 - [[1959年]]
*『[[あいつと私]]』 - 昭和36([[1961年]])
*『[[その壁を砕け]]』 - 1959
*『[[アラブの嵐]] 』 - 昭和36([[1961年]])
*『[[密会 (映画)|密会]]』 - 1959
*『[[当りや大将]]』 - 昭和37年([[1962年]]
*『[[学生野郎と娘たち]]』 - [[1960年]]
*『[[若くて悪くて凄こいつら]]』 - 昭和37([[1962年]])
*『[[地図のな]]』 - 1960
*『[[あした晴れるか (映画)|あした晴れるか]]』 - 1960年
*『[[危いことなら銭になる]]』 - 昭和37年([[1962年]])
*『[[泥だらけの純情]]』 - 昭和38年([[1963年]]
*『[[あいつと私]]』 - [[1961年]]
*『[[背中に陽が当る]]』 - 昭和38([[1963年]])
*『[[アラブ]] 』 - 1961
*『[[現代っ子 (映画)|現代っ子]]』 - 昭和38年([[1963年]]
*『[[当りや大将]]』 - [[1962年]]
*『[[光る海]]』 - 昭和38([[1963年]])
*『[[若くて悪くて凄いこいつら]]』 - 1962
*『[[月曜日のユカ]]』 - 昭和39([[1964年]])
*『[[危いことなら銭になる]]』 - 1962
*『[[猟人日記 (戸川昌子)|猟人日記]]』 - 昭和39年([[1964年]]
*『[[泥だらけの純情]]』 - [[1963年]]
*『[[上の植物群]]』 - 昭和39([[1964年]])
*『[[背中に陽が当る]]』 - 1963
*『[[おんなの渦と渕と流れ]]』 - 昭和39([[1964年]])
*『[[現代っ子 (映画)|現代っ子]]』 - 1963
*『[[現代悪党仁義]]』 - 昭和40([[1965年]])
*『[[光る海]]』 - 1963
*『[[黒い賭博師]]』 - 昭和40年([[1965年]]
*『[[月曜日のユカ]]』 - [[1964年]]
*『[[野郎に国境はない]]』 - 昭和40([[1965年]])
*『[[猟人日記 (戸川昌子)|猟人日記]]』 - 1964
*『[[結婚相談]]』 - 昭和40([[1965年]])
*『[[砂の上の植物群]]』 - 1964
*『[[黒い賭博師 悪魔左手]]』 - 昭和41([[1966年]])
*『[[おんな渦と渕と流れ]]』 - 1964
*『[[赤いグラス]]』 - 昭和41年([[1966年]]
*『[[現代悪党仁義]]』 - [[1965年]]
*『[[黒い賭博師]]』 - 1965年
*『[[特警009]]』 - 昭和42年([[1967年]])…香港[[ショウ・ブラザーズ]]
*『[[喜劇 大風呂敷]]』 - 昭和42([[1967年]])
*『[[野郎に国境はない]]』 - 1965
*『[[青春太郎]]』 - 昭和42([[1967年]])
*『[[結婚相談]]』 - 1965
*『[[黒い賭博師 悪魔の左手]]』 - [[1966年]]
*『[[飛天女郎]]』 - 昭和42年([[1967年]])…香港[[ショウ・ブラザーズ]]
*『[[ザ・パイダースの大進撃]]』 - 昭和43([[1968年]])
*『[[赤いグラス]]』 - 1966
*『[[狂恋詩]]』 - 昭和43年 ([[1968年]])…香港[[ショウ・ブラザーズ]]
*『[[特警009]]』 - [[1967年]]香港[[ショウ・ブラザーズ]]
*『[[喜劇 大風呂敷]]』 - 1967年
*『[[猟人]]』 - 昭和43年([[1968年]])…香港[[ショウ・ブラザーズ]]
*『[[栄光への反逆]]』 - 昭和45([[1970年]])
*『[[青春太郎]]』 - 1967
*『[[飛天女郎]]』 - 1967年…香港ショウ・ブラザーズ
*『[[闇の中の魑魅魍魎]]』 - 昭和46年([[1971年]])
*『[[混血児リカ]]』 - 昭和47年([[1972年]]
*『[[ザ・スパイダースの大進撃]]』 - [[1968年]]
*『[[狂恋詩]]』 - 1968年…香港ショウ・ブラザーズ
*『[[混血児リカ ひとりゆくさすらい旅]]』 - 昭和48年([[1973年]])
*『[[猟人]]』 - 1968年…香港ショウ・ブラザーズ
*『[[青春不時着]]』 - 昭和49年([[1974年]])…韓国[[申フィルム]]
*『[[変奏曲 (映画)|変奏曲]]』 - 昭和50年([[1976年]])
*『[[栄光への反逆]]』 - [[1970年]])
*『[[闇の中の魑魅魍魎]]』 - [[1971年]]

*『[[混血児リカ]]』 - [[1972年]]
== 関連項目 ==
*『[[混血児リカ ひとりゆくさすらい旅]]』 - [[1973年]]
*[[麻生れい子]]
*『[[青春不時着]]』 - [[1974年]]…韓国[[申フィルム]]
*『[[変奏曲 (映画)|変奏曲]]』 - [[1976年]]


== 脚注 ==
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* 市川雷蔵かげろうの死(社会思想社→現代教養文庫) - [[田山力哉]]著。表題作の他、「闇に堕ちた監督 - 小説・中平康」収録。
* 市川雷蔵かげろうの死(社会思想社→現代教養文庫) - [[田山力哉]]著。表題作の他、「闇に堕ちた監督 - 小説・中平康」収録。
* 巨匠たちの伝説 映画記者現場日記(三一書房) - [[石坂昌三]]著。
* 巨匠たちの伝説 映画記者現場日記(三一書房) - [[石坂昌三]]著。
* ええ音やないか(リトルモア) - [[橋本文雄 (録音技師)|橋本文雄]]・[[上野志]]著。
* ええ音やないか(リトルモア) - [[橋本文雄 (録音技師)|橋本文雄]]・[[上野志]]著。
* 姫田真左久のパン棒人生(ダゲレオ出版) - [[姫田真佐久]]著。
* 姫田真左久のパン棒人生(ダゲレオ出版) - [[姫田真佐久]]著。
* ブラックシープ 映画監督「中平康」伝([[ワイズ出版]]) - 中平まみ著。
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なかひら こう
中平 康
中平 康
森脇文庫『週刊スリラー』5月1日創刊号(1959)より
別名義 楊樹希(ヤン・スーシー)
生年月日 (1926-01-03) 1926年1月3日
没年月日 (1978-09-11) 1978年9月11日(52歳没)
出生地 日本の旗 日本 東京府北豊島郡滝野川町(現・東京都北区
職業 映画監督脚本家
ジャンル 映画
活動期間 1956年 - 1976年
著名な家族 高橋虎之助(父)
中平まみ(娘)
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中平 康(なかひら こう、1926年1月3日 - 1978年9月11日[1])は、日本映画監督。香港名は楊樹希(ヤン・スーシー)[2]。父は洋画家高橋虎之助。娘は作家の中平まみ

増村保造岡本喜八市川崑鈴木清順らと共にモダン派と称された。代表作に『変奏曲』『混血児リカ』『月曜日のユカ』『狂った果実』などがある。

来歴・人物[編集]

出生〜助監督時代[編集]

1926年大正15年)1月3日東京府滝野川町に生まれる。父は洋画家高橋虎之助。一人娘だった母・俊バイオリニストの中平姓を継ぐ。音楽学校を出た祖母もヴァイオリンを教えていたなどして芸術家になることを奨励されるような家庭で育つ。中学時代より映画に熱中し、好きだったルネ・クレール監督作品など同じ作品を10回くらいずつ繰り返し観るなどして研究を重ねる。旧制高知高等学校の理科甲類を出て浪人中に、雑誌「人間喜劇」の諷刺シナリオの公募に出品して佳作5本の中に入選、題名は「ミスター・ゴエモン」。1948年(昭和23年)、東京大学文学部美術科入学。所属した映画研究会には荻昌弘渡辺祐介若林栄二郎がいた。

1948年昭和23年)、東京大学を中退し、川島雄三に憧れ松竹大船撮影所の戦後第1回助監督募集に応募、1,500人中8人(鈴木清順松山善三斉藤武市井上和男生駒千里今井雄五郎有本正)の内に撰ばれ、松竹入社。川島をはじめ、佐々木康木下惠介大庭秀雄原研吉渋谷実黒澤明などの助監督を務める。ベレー帽は彼の生涯のトレードマークとなった。

助監督時代は、自ら志願して就いた黒澤明と川島雄三に可愛がられた。多くの助監督が後輩を指導する際、脚本を勉強することを第一とするのが通常であったのに対し、中平は編集の技術も身に付けることを強く主張するなど、助監督時代から既に後の映画テクニックへの執着を見せる。彼はチーフ助監督として川島雄三監督の『真実一路』の予告編を演出した。早く監督昇進を希望していた中平は、西河克己からの誘いもあり、1954年(昭和29年)、映画製作を再開した日活に移籍。日活では新藤兼人田坂具隆、西河克己、滝沢英輔山村聡らの助監督を務めた。

日活前期〜娯楽映画、商業主義映画[編集]

1956年(昭和31年)、プロデューサー水の江滝子に才能を見出され、助監督身分のまま、殺人事件の舞台となる銀座裏通りを丸ごとオープンセットで作り、随所にパンフォーカスを駆使した『狙われた男』を監督(公開は『狂った果実』の後)、新人監督らしからぬ中編スリラーとなる。「うるさ型」の監督として知られ、同年の『太陽の季節』(古川卓己監督)のヒットを受け、わずか17日間で撮影された2作目『狂った果実』がヒット作となった。これにより、新人だった石原裕次郎がスターになっていった。

ルネ・クレールビリー・ワイルダーに心酔。才能のポテンシャルとしては同世代のモダン派として並び称された岡本喜八増村保造らと同レベルと見られた。『牛乳屋フランキー』、『街燈』、『誘惑』、『才女気質』等のスピーディーで軽妙洒脱な作品に力量を発揮した他、『殺したのは誰だ』、『紅の翼』、『その壁を砕け』、『密会』等のサスペンスミステリーと、あらゆるジャンルを描いた。1959年(昭和34年)にはエジプトとの合作『アラブの嵐』を監督。当初は通訳をつけていたが、中平の意向で途中から通訳なしで撮影をしていた。中平曰く「喜怒哀楽が同じだから、言葉は通じなくても意が通じた」とのこと。1960年(昭和35年)の『学生野郎と娘たち』では、主人公を一人に限定せず多くの登場人物を等価に描くという中平流群像劇の方法論を映像化した。しかし「反・荘重深刻派」、「日本軽佻浮薄派」を自任し、テーマ性や社会性がある題材よりも娯楽映画を好み、映像テクニックを重視する彼の作風は、映画評論家には理解されなかった。

エッセイ映画評論もおこなった。娯楽映画やスター・システムに乗っかった中平は、映画賞で「テーマ性や社会性のある作品ばかりがベストテン入り」する状況を厳しく批判した。映画を原作や素材によって評価するのではなく、その素材をどのように映像化したかをこそ評価すべきだと繰り返し訴えたが、聞く耳を持つ者はあまりいなかった。その結果、映画評論家を敵に廻すことも多かった。この時期に日活のスター・システムが確立されたのに伴い、プログラムピクチャーを量産。スター中心の映画製作であっても、あくまでも「まず映画ありき」の姿勢で臨み、吉永小百合は後に「一番恐い監督でした」と語るなど、その演出姿勢は変わらず厳しいものであったとされる。

学生野郎と娘たち』の次に撮った『地図のない町』は橋本忍に納得の行くまで脚本の書き直しを依頼し石原裕次郎主演作として自ら企画したが、裕次郎のスターイメージを損なうとして会社側に却下されて、結局、葉山良二主演で映画化された。同年、石原の『あした晴れるか』から1961年(昭和36年)には中平最大のヒット作となった石原の『あいつと私』をはさんで1963年(昭和38年)、吉永小百合の純愛路線の『現代っ子』まで、娯楽映画、商業主義映画が続いた。

日活後期:『月曜日のユカ』で新境地[編集]

1964年(昭和39年)には『月曜日のユカ』、『猟人日記』、『砂の上の植物群』、『おんなの渦と渕と流れ』と立て続けに撮った映画は、テクニック面に才気を見せるが、彼の作品は映画賞には縁がなかった。「ヒッチコックだって賞なんかもらってやしない」と周囲に洩らすこともあったという。岡本・増村、同じ日活の今村昌平浦山桐郎が名声を高めていく中で取り残された焦りからか生活を荒れさせ、撮影現場で飲酒することすらあったと伝えられる。加賀まり子によると『月曜日のユカ』の撮影時の現場では既に中平は泥酔状態で実質監督したのは斎藤耕一(脚本・スチルカメラ)であったという。

1965年(昭和40年)、小林旭黒い賭博師シリーズでは中平が初登板した第6作『黒い賭博師』で、従来の哀愁や情念の要素を抜き去った、モダンなタッチに路線変更。翌1966年(昭和41年)、シリーズ最終作となる『黒い賭博師 悪魔の左手』でも、度が過ぎるほどの荒唐無稽さと映像テクニックを見せつけた。この時期、日活のヒットメーカーとして、「森永キャラメル(健次郎)」「江崎グリコ(実生)」「中平おこし」と、菓子の名前で並び称されていた。

1967年(昭和42年)以降、香港ショウ・ブラザーズに招かれ、自身の『野郎に国境はない』、『狂った果実』、『猟人日記』をそれぞれリメイクした他、渡辺祐介脚本(ノンクレジット)の『飛天女郎』を監督。日本と香港を往来しつつ、日本でも映画を撮るが、日活が勢いを失っていく中、撮影時の飲酒を咎められるなどもあり、1968年(昭和43年)『ザ・スパイダースの大進撃』を最後に日活を解雇される。解雇及び香港での映画製作のきっかけは1963年(昭和38年)頃に当時の日活堀社長と映画を巡って喧嘩を起こしたことだった。東宝の藤本真澄、東映の岡田茂に掛け合って映画を撮らせて欲しいと頼んだが、五社協定を理由に断られ、日本では映画が撮らせてもらえないと判断したからであるという。堀社長からは「他の奴と違うことをするな」と戒められたが、それは自分の性分に合わないと中平は聞き入れなかった。

独立プロ時代:『混血児リカ』『変奏曲』[編集]

1971年(昭和46年)には、中平プロダクションを設立。中平作品の脚本を度々担当し、助監督時代から信頼していた新藤兼人に脚本を依頼して製作した『闇の中の魑魅魍魎』が第24回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に選ばれたが、これに洩れた大島渚監督が選考経緯不明瞭としてカンヌ国際映画祭事務当局に強く抗議、騒動となった(日本映画製作者連盟が正式出品作は1国につき1作品の規定にも関わらず、中平・大島両監督の作品を送り、カンヌ国際映画祭事務当局によって『闇の中の魑魅魍魎』が正式出品作として選ばれたという経緯があった)。これに対して後に中平も「フランスの主催する映画祭なのですから文句をつけるものでもなく、抗議は筋違い」と大島監督を批判しているが、結果的に『闇の中の魑魅魍魎』は受賞を逃す。

1972年(昭和48年)には新藤兼人の率いる近代映画協会に招かれ『混血児リカ』、さらに翌年にも『混血児リカ ひとりゆくさすらい旅』という2本のスケバンアクションを撮り上げた。1974年(昭和49年)、韓国申フィルムに招かれ、『青春不時着』にて自身の『紅の翼』をリメイク(脚本・共同監督)。1976年(昭和51年)にATGで撮ったオールフランスロケの意欲作『変奏曲』は佳作となった。この時のクランクイン後まで続いた金銭トラブルや諸々の問題は中平をかなり疲弊させた。

その後、酒と睡眠薬の乱用も災いしてか身体が衰弱。以後、映画界からは遠ざかり数本のテレビ用2時間サスペンスドラマを演出する。その中には彼が好んだウィリアム・アイリッシュ原作の作品もあった。

やがて末期の胃癌であることが分かり、胃癌であることは本人には直接には伝えられていなかったともいわれるが、末期状態でありながらも、点滴を射ち、担架に寝ながら演出したオードリー・ヘプバーン主演のサスペンス『暗くなるまで待って』をリメイクしたテレビ用2時間ドラマ『土曜ワイド劇場 涙・暗くなるまで待って』が遺作となる。これら晩年のテレビの仕事は、彼を助監督から監督に昇進させ、最後まで彼の才能を買っていた水の江滝子によって与えられた仕事であった。

1978年(昭和53年)9月11日、胃癌のため52歳で死去。葬儀には黒澤明渋谷実らの姿も見られ、「彼ほど映画が好きだったやつはいない」と語る映画関係者もいたと伝えられる。

晩年は、オードリー・ヘプバーン&ビリー・ワイルダーの『昼下りの情事』のような映画をジュディ・オング主演で映画にしたいと口にしたり、モームの『月と六ペンス』や、シュテファン・ツヴァイクによる伝記小説『バルザック』等の映画化を希望していたという。評論家の田山力哉、娘の中平まみによる評伝がある。中平映画のテンポは速いが、中平自身は「私は速すぎない。他の監督の映画が遅いのだ」と言い、しかし「速い」、「遅い」と言っても、それはカット割りの細かさや編集によるものだけでなく、もっと映画全体の性質のことであると語っている(「キネマ旬報1959年3月上旬号)。

評価[編集]

映像テクニック[編集]

森脇文庫『週刊スリラー』5月1日創刊号(1959)より

中平は「テクニックの人」と呼ばれた。具体的には映像の早回しや、画面の縮小ほか多数のテクニックだが、『月曜日のユカ』ではテクニックが、映画の一部分を台無しにしている傾向もあった。映画評論家からは、彼のテクニックに偏重しすぎた面を、たびたび批判された。

没後20年近く経った1998年(平成10年)には、中平を再評価する動きが見え始め、1999年(平成11年)には中平まみ著『ブラックシープ 映画監督「中平康」伝』(ワイズ出版)刊行記念「中平康レトロスペクティヴ」と題して映画8作品が渋谷ユーロスペース他、全国で上映された。2003年(平成15年)には第16回・東京国際映画祭協賛企画「映画をデザインした先駆的監督・中平康レトロスペクティヴ」として『闇の中の魑魅魍魎』と『変奏曲』を除く国内の映画全作品に加えて、日本初公開となる『狂恋詩』、『猟人』の2本の「香港作品」まで上映させる大規模な回顧上映が渋谷ユーロスペース他、各地で開催された。ユーロスペースでは、『誘惑』が上映された。

この回顧上映時には『猟人日記』に準主演するなどして中平作品とも関わりのあった戸川昌子が主催する文化サロン「青い部屋」にてミルクマン斉藤と戸川昌子による中平康トークイベントも開催された。またユーロスペースでは『月曜日のユカ』上映に併せて加賀まりこがトークショーのゲストとして来館した『月曜日のユカ』もまた代表作となっている。

中平の自伝のようにも見える(ミルクマン斉藤による)といわれる後期作品『闇の中の魑魅魍魎』と、日本映画の枠からの脱却を計った『変奏曲』は過去にビデオ化されたことがある(荻昌弘は『変奏曲』をその年のキネマ旬報ベストテンのベスト3にあげている)。

思想よりも洗練とテクニックを重んじる中平の作品は、21世紀の「保守化、商業主義した観客」にこそ受け入れられるのではないかという見方もある。その一方で、日活時代の後期は急速な衰えを見せて企画も会社お仕着せばかりになり、飛躍の機会を失ったと言われる。後年、日活時代の陳腐な作品も多く再上映され、映画ファンには不評だった。モダン派と並び称された増村、鈴木清順らが鬼才として評価される中、取り残されたような形で世を去った。田山力也の評伝ではこの時期「泥酔しながら仕事に臨むことが多く」スタッフや俳優の信頼を失墜したと書かれている。再起を賭けた『闇の中の魑魅魍魎』でも、肉体的衰えから演出を流すようになってしまっていることが後見役の新藤兼人を苛立たせたと同書にあり、主演・麿赤児の自伝でも現場に顔を出した新藤が何度も取り直しを命じる場面が書かれている。

2005年(平成17年)には韓国釜山国際映画祭にて成瀬巳喜男監督『浮雲』、今村昌平監督『神々の深き欲望』、鈴木清順監督『ツィゴイネルワイゼン』等と共に『狂った果実』も紹介、上映された。また韓国でも「中平康レトロスペクティヴ」が開催され、芦川いづみの可憐さが印象的な『あいつと私』等が上映された。2009年4月から5月、東京・ラピュタ阿佐ヶ谷にて、「孤高のニッポン・モダニスト 映画監督・中平康」と題して日活時代の作品から選ばれた34作品が上映された。

キャスティング[編集]

中平は「脇の味」を出すことを得意とし、その独特なキャスティングのセンスで「意外なところに意外な人物を出す」といわれた。『誘惑』には岡本太郎東郷青児が本人役で特別出演。『紅の翼』では原作者の菊村到が新聞社の編集長役で出演。『泥だらけの純情』では実際に中平が通っていた銀座のバーで馴染みだったホステスを、浜田光夫に脇毛を抜かせようとするホステス役として起用した。『光る海』では山本嘉次郎が大学の卒業式で卒業証書を渡す校長としてカメオ出演。『黒い賭博師』では漫画家の加藤芳郎が汽車の中のギャンブラー役で出演。

交友関係者[編集]

  • 川島雄三
    • 中平は映画界に入る前から川島作品には注目しており、その後も親交が続いた。中平はマジメなことが嫌いで「日本軽佻浮薄派」と自任していたが、これは川島の影響も少なからずともあるようである。
  • 黒澤明
    • 中平は黒澤明にも心酔していた。黒澤が松竹で撮った『醜聞』、『白痴』の時には、自ら志願して助監督に就き、その縦横無尽な働きぶりに黒澤に気に入られ、その後も親交が続いた。その親交については後に中平がエッセイに書き残している。黒澤からは、中平が監督に昇進したら脚本を一本書いて提供するとまで言われていたという。黒澤は中平の葬儀にも出席した(中平まみ著『ブラックシープ 映画監督「中平康」伝』 ワイズ出版)。
  • 和泉雅子
    • なぜか中平とは馬が合い、中平邸に遊びに行ったことのある数少ない女優。『KAWADE夢ムック 総特集 鈴木清順』(河出書房出版)のインタビューにおいて、鈴木清順の本であるにも関わらず中平の話で盛り上がってしまっている。
  • その他の俳優、スタッフ
    • 中平は、思ったことをズバズバ言う辛辣さと演出時の厳しい要求とで周囲に毛嫌いされることが多く、俳優陣にもあまり人気がなかったようであるが、女優では、月丘夢路北原三枝冨士眞奈美稲野和子加賀まりこ和泉雅子峯品子などと馬が合ったようで作品にも数本出演している。中原早苗渡辺美佐子の演技を賞賛し、その他にも細川ちか子岸輝子なども好んで作品によく出演させていた。中でも早口でセリフを言える中原早苗の演技を特に気に入っていたようで、中平作品に11本も出演して最多出演俳優となった。男優では二谷英明が中平に理解を示していたようで、多数の作品に出演していた他、中平最後の映画となった『変奏曲』においてもスチル写真(止め画)とセリフのみの出演をしている。浦山桐郎とは犬猿の仲だったことも有名。
  • その他の人物

中平康を演じた俳優[編集]

2004年』(テレビ朝日系)。石原裕次郎の生涯を豪華キャスト競演でドラマ化。

フィルモグラフィ[編集]

狂った果実』(1956年)
『光る海』(1963年)
現代っ子』(1963年)
砂の上の植物群』(1964年)
『現代悪党仁義』(1965年)

脚注[編集]

  1. ^ Jacoby, Alexander (2008). “NAKAHIRA Kō” (英語). A Critical Handbook of Japanese Film Directors: From the Silent Era to the Present Day. Stone Bridge Press 
  2. ^ 高知県立美術館冬の定期上映会 - 「中平 康 映画祭」 - 映画をデザインした先駆的監督”. 高知県立美術館. 高知県文化財団. 2014年7月31日閲覧。

参考文献[編集]

  • ストレイ・シープ(河出書房新社) - 中平まみ著。父への思慕も描かれる小説。
  • 映画座(河出書房新社) - 中平まみ著。父の追憶を甦らせた小説で父の生と死の瞬間が克明に描かれる。
  • ストレイ・シープ/映画座(河出書房新社) - 中平まみ著。『ストレイ・シープ』と『映画座』を一冊にまとめた文庫。
  • 市川雷蔵かげろうの死(社会思想社→現代教養文庫) - 田山力哉著。表題作の他、「闇に堕ちた監督 - 小説・中平康」収録。
  • 巨匠たちの伝説 映画記者現場日記(三一書房) - 石坂昌三著。
  • ええ音やないか(リトルモア) - 橋本文雄上野昻志著。
  • 姫田真左久のパン棒人生(ダゲレオ出版) - 姫田真佐久著。
  • ブラックシープ 映画監督「中平康」伝(ワイズ出版) - 中平まみ著。
  • 至極のモダニスト - 中平康(プチグラパブリッシング) - ミルクマン斉藤監修。
  • 中平康レトロスペクティヴ(プチグラパブリッシング) - ミルクマン斉藤監修。
  • 日活アクション無頼帖(ワイズ出版) - 山崎忠昭著・高崎俊夫編。

外部リンク[編集]