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何炯の子として生まれた。[[1586年]](万暦14年)、[[進士]]に及第した。[[刑部]]主事に任じられ、[[礼部]]儀制郎中に転じた。[[万暦帝]]が皇長子[[泰昌帝|朱常洛]]を王に封じようとすると、喬遠は嫡長が太子に立てられるべきと主張して争った。同僚の陳泰来らがその上言のために左遷されると、喬遠は左遷に反対する上疏をおこなって救った。[[豊臣秀吉]]の[[朝鮮]]侵攻([[文禄の役]])が起こり、その救援のために明軍が派遣された。[[北京]]の朝廷では[[石星]]が秀吉を日本国王に封じ、日明の[[勘合貿易]]を認める封貢論を主唱していた。しかし朝鮮使臣の金 |
何炯の子として生まれた。[[1586年]]([[万暦]]14年)、[[進士]]に及第した。[[刑部]]主事に任じられ、[[礼部]]儀制郎中に転じた。[[万暦帝]]が皇長子の[[泰昌帝|朱常洛]]を王に封じようとすると、喬遠は嫡長が皇太子に立てられるべきと主張して争った。同僚の陳泰来らがその上言のために左遷されると、喬遠は左遷に反対する上疏をおこなって救った。[[豊臣秀吉]]の[[朝鮮]]侵攻([[文禄の役]])が起こり、その救援のために明軍が派遣された。[[北京]]の朝廷では[[石星]]が秀吉を日本国王に封じ、日明の[[勘合貿易]]を認める封貢論を主唱していた。しかし朝鮮使臣の金睟が[[李如松]]・[[沈惟敬]]の欺瞞を泣いて訴えた。喬遠が石星の封貢論に反対する上奏をおこない、万暦帝も心動かされたが、石星が自説を堅持したので、喬遠の上疏は容れられなかった。喬遠は罪に問われて[[広西]]布政司経歴に左遷され、辞職して帰郷した。郷里にあること二十数年、学者として著述に専念し、鏡山先生と称された。推薦の声もあったが、起用されなかった。 |
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[[1620年]]([[泰昌]]元年)、喬遠は北京に召し出されて光禄少卿となり、太僕に転じた。[[王化貞]]が兵を広寧に駐屯させ、主戦論を取った。喬遠は防御の策を書き送り、軽挙しないよう強く勧めたが、聞き入れられなかった。ほどなく王化貞は広寧を放棄して逃亡した。[[1622年]]([[天啓 (明)|天啓]]2年)、左通政に進んだ。[[鄒元標]]が首善書院を建てると、朱童蒙らがこのことを弾劾した。喬遠は「書院の梁の上の文は実は臣の手によるものでした。臣もともに罷免されるべきでしょう」と言って朱童蒙に反論した。光禄卿・通政使に進んだ。病を理由に戸部右侍郎として致仕した。[[1629年]](崇禎2年)、南京工部右侍郎として再び起用された。給事中の盧兆龍にその衰えを指弾されて、喬遠は自ら官を退いて去った。[[1632年]]2月11日(崇禎4年12月20日)、死去した。享年は74。工部尚書の位を追贈された。 |
[[1620年]]([[泰昌]]元年)、喬遠は北京に召し出されて光禄少卿となり、太僕に転じた。[[王化貞]]が兵を[[北鎮市|広寧]]に駐屯させ、主戦論を取った。喬遠は防御の策を書き送り、軽挙しないよう強く勧めたが、聞き入れられなかった。ほどなく王化貞は広寧を放棄して逃亡した。[[1622年]]([[天啓 (明)|天啓]]2年)、左通政に進んだ。[[鄒元標]]が首善書院を建てると、朱童蒙らがこのことを弾劾した。喬遠は「書院の梁の上の文は実は臣の手によるものでした。臣もともに罷免されるべきでしょう」と言って朱童蒙に反論した。光禄卿・通政使に進んだ。病を理由に[[戸部 (六部)|戸部]]右侍郎として致仕した。[[1629年]]([[崇禎]]2年)、南京[[工部 (六部)|工部]]右侍郎として再び起用された。給事中の盧兆龍にその衰えを指弾されて、喬遠は自ら官を退いて去った。[[1632年]]2月11日(崇禎4年12月20日)、死去した。享年は74。工部尚書の位を追贈された。 |
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著書に『名山蔵』37巻・『閩書』154巻<ref>『[[明史]]』芸文志二</ref>・『明文徴』74巻・『何喬遠集』80巻<ref>『明史』芸文志四</ref>があり、当時に通行した。 |
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2021年11月26日 (金) 03:15時点における版
何 喬遠(か きょうえん、1558年 - 1632年)は、明代の官僚・学者。字は穉孝、号は匪莪。本貫は泉州府晋江県。
生涯
何炯の子として生まれた。1586年(万暦14年)、進士に及第した。刑部主事に任じられ、礼部儀制郎中に転じた。万暦帝が皇長子の朱常洛を王に封じようとすると、喬遠は嫡長が皇太子に立てられるべきと主張して争った。同僚の陳泰来らがその上言のために左遷されると、喬遠は左遷に反対する上疏をおこなって救った。豊臣秀吉の朝鮮侵攻(文禄の役)が起こり、その救援のために明軍が派遣された。北京の朝廷では石星が秀吉を日本国王に封じ、日明の勘合貿易を認める封貢論を主唱していた。しかし朝鮮使臣の金睟が李如松・沈惟敬の欺瞞を泣いて訴えた。喬遠が石星の封貢論に反対する上奏をおこない、万暦帝も心動かされたが、石星が自説を堅持したので、喬遠の上疏は容れられなかった。喬遠は罪に問われて広西布政司経歴に左遷され、辞職して帰郷した。郷里にあること二十数年、学者として著述に専念し、鏡山先生と称された。推薦の声もあったが、起用されなかった。
1620年(泰昌元年)、喬遠は北京に召し出されて光禄少卿となり、太僕に転じた。王化貞が兵を広寧に駐屯させ、主戦論を取った。喬遠は防御の策を書き送り、軽挙しないよう強く勧めたが、聞き入れられなかった。ほどなく王化貞は広寧を放棄して逃亡した。1622年(天啓2年)、左通政に進んだ。鄒元標が首善書院を建てると、朱童蒙らがこのことを弾劾した。喬遠は「書院の梁の上の文は実は臣の手によるものでした。臣もともに罷免されるべきでしょう」と言って朱童蒙に反論した。光禄卿・通政使に進んだ。病を理由に戸部右侍郎として致仕した。1629年(崇禎2年)、南京工部右侍郎として再び起用された。給事中の盧兆龍にその衰えを指弾されて、喬遠は自ら官を退いて去った。1632年2月11日(崇禎4年12月20日)、死去した。享年は74。工部尚書の位を追贈された。
著書に『名山蔵』37巻・『閩書』154巻[1]・『明文徴』74巻・『何喬遠集』80巻[2]があり、当時に通行した。
子女
- 何九転(早逝、死後まもなく妻の王氏は自縊した)
- 何九雲(字は舅悌)
- 何九説(字は兄悌)