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* '''真人'''(しんじん)は、[[老荘思想]]・[[道教]]において人間の理想像とされる存在。[[仙人]]の別称として用いられることもある。
# '''真人'''(しんじん)は、[[老荘思想]]・[[道教]]において人間の理想像とされる存在。[[仙人]]の別称として用いられることもある。
* '''真人'''(しんじん)は、[[秦朝|秦]]の[[始皇帝]]が[[朕]]に代わって[[真理]]を悟ったことによる自称。
# '''真人'''(しんじん)は、[[秦朝|秦]]の[[始皇帝]]が[[朕]]に代わって[[真理]]を悟ったことによる自称。
* '''真人'''(まひと)は、[[八色の姓]]で制定された姓([[カバネ]])の一つ。本項で詳述。
# '''真人'''(まひと)は、[[八色の姓]]で制定された姓([[カバネ]])の一つ。'''本項で詳述。'''
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'''真人'''(まひと)は、[[天武天皇]]13年([[684年]])に制定された八色の姓の一つで、最高位の姓である。
'''真人'''(まひと)は、[[天武天皇]]13年([[684年]])に制定された[[八色の姓]]の一つで、最高位の姓である。


== 概要 ==
== 真人の意味 ==
基本的に、[[継体天皇]]の近親とそれ以降の[[天皇]]・[[皇子]]の子孫に与えられた。天皇の称号が道教の[[天皇大帝]]に由来するという説とともに、この「真人」も道教由来のものとする説がある。八色の姓のなかでは[[道師]]も道教の神学用語と重なっている。また天武天皇の[[諡]](おくりな)の「瀛真人」(おきのまひと)は道教の神学では「[[瀛州]]」という海中の神山に住む仙人の高級者を意味する。
基本的に、[[継体天皇]]の近親とそれ以降の[[天皇]]・[[皇子]]の子孫に与えられた。天皇の称号が[[道教]]の[[天皇大帝]]に由来するという説とともに、この「真人」も道教由来のものとする説がある。八色の姓のなかでは[[道師]]も道教の神学用語と重なっている。また[[天武天皇]]の[[諡]](おくりな)の「瀛真人」(おきのまひと)は道教の神学では「[[瀛州]]」という海中の神山に住む仙人の高級者を意味する。


== 真人の賜姓例 ==
真人[[賜姓]]は[[天武天皇]]が構想する[[皇親政治]]の一翼を担うものであった。『[[日本書紀]]』の天武天皇13年10月条に、「守山公・路公(みちのきみ)・高橋公・[[三国氏|三国公]]・[[当麻氏|当麻公]]・茨城公(うまらきのきみ)・[[多治比氏|丹比公]](たぢひのきみ)・猪名公(ゐなのきみ)・坂田公・羽田公・息長公(おきながのきみ) ・酒人公(さかひとのきみ)・山道公、十三氏に、姓を賜ひて真人と曰ふ」<ref>『日本書紀』巻第二十九、天武天皇13年10月1日条</ref>とあって、これら公(きみ)姓氏族はおよそ[[応神天皇|応神]] ・継体~[[用明天皇]]の皇子の子孫である。それ以降の天皇・皇子の子孫についても、[[奈良時代]]にたびたび賜姓が行われ、『[[新撰姓氏録]]』の載せる真人姓は48氏に昇る([[六国史|国史]]にのみ所見のものも含むと更に増加)。 しかし、時あたかも[[藤原氏|藤原朝臣]]による権勢拡大の最中で、真人=高貴という原義すら崩れ始めていたことも否めず、[[塩焼王|氷上真人塩焼]]<ref>『続日本紀』巻第二十一、廃帝 [[淳仁天皇]]、[[天平宝字]]2年8月1日条</ref> ・[[不破内親王|厨真人厨女]]<ref>『続日本紀』巻第二十九、[[孝謙天皇|称徳天皇]]、[[神護景雲]]3年5月25日条</ref>のように一種の懲罰として賜姓される例も現れた。この傾向は[[平安時代]]に一層強まり、[[延暦]]21([[802年]])[[良岑安世|安世]]([[桓武天皇]]の皇子)が良岑朝臣姓を賜ると、[[皇族]]や真人姓の中からも[[朝臣]]賜姓を望む者が増加。政治的意義を失った真人姓の氏族は、次第に政界から姿を消していった
真人[[賜姓]]は[[天武天皇]]が構想する[[皇親政治]]の一翼を担うものであった。『[[日本書紀]]』の天武天皇13年10月条に、「[[守山氏|守山公]][[路氏|路公]](みちのきみ)・高橋公・[[三国氏|三国公]]・[[当麻氏|当麻公]]・[[茨城氏|茨城公]](うまらきのきみ)・[[多治比氏|丹比公]](たぢひのきみ)・[[猪名氏|猪名公]](ゐなのきみ)・[[坂田氏|坂田公]][[羽田氏|羽田公]][[息長氏|息長公]](おきながのきみ) ・[[酒人氏|酒人公]](さかひとのきみ)・[[山道氏|山道公]][[十三氏|十三真人]]に、姓を賜ひて真人と曰ふ」<ref>『[[日本書紀]]』巻第二十九、天武天皇13年10月1日条</ref>とあって、これら公(きみ)姓氏族はおよそ[[応神天皇|応神]] ・[[継体天皇]] [[用明天皇]]の[[皇子]]の子孫である。それ以降の天皇・皇子の子孫についても、[[奈良時代]]にたびたび賜姓が行われ、『[[新撰姓氏録]]』の載せる真人姓は48氏に昇る([[六国史|国史]]にのみ所見のものも含むと更に増加)。


=== その後 ===
出自・使用の両方で特異なのが、[[明経道]]を[[家学]]とした[[清原広澄|広澄流]][[清原氏 (広澄流)|清原氏]]である(天武系の清原氏とは同名別氏族)。『新撰姓氏録』では、[[海氏]](あまうじ)は、海神[[ワタツミ]]を祖とする[[神別氏族]]とされる。それにも関わらず、海広澄は、清原真人の氏姓を下賜されて清原広澄となった{{sfn|太田|1934|pp=1985–1986}}。[[太田亮]]の主張によれば、これは、海氏([[凡海氏]])の[[凡海麁鎌]]が天武天皇の養育者であった縁でもって、海氏は天武後裔であると仮冒したのではないかという{{sfn|太田|1934|pp=1985–1986}}。清原氏系図の一本によれば、広澄流清原氏は[[室町時代]]の15世紀まで真人の姓を使い続け、[[清原業忠]]の代で初めて朝臣に改姓したという{{sfn|太田|1934|pp=1985–1986}}。
しかし、時あたかも[[藤原氏|藤原]][[朝臣]]による権勢拡大の最中で、真人 = 高貴という原義すら崩れ始めていたことも否めず、[[塩焼王|氷上真人塩焼]]<ref>『続日本紀』巻第二十一、[[廃帝]] [[淳仁天皇]]、[[天平宝字]]2年8月1日条</ref> ・[[不破内親王|厨真人厨女]]<ref>『[[続日本紀]]』巻第二十九、[[孝謙天皇|称徳天皇]]、[[神護景雲]]3年5月25日条</ref>のように一種の懲罰として賜姓される例も現れた。この傾向は[[平安時代]]に一層強まり、[[延暦]]21年([[802年]])[[良岑安世|安世]]([[桓武天皇]]の皇子)が[[良岑氏|良岑]]朝臣姓を賜ると、[[皇族]]や真人姓の中からも[[朝臣]]賜姓を望む者が増加。政治的意義を失った真人姓の[[氏族]]は、次第に政界から姿を消していった。

出自・使用の両方で特異なのが、[[明経道]]を[[家学]]とした[[清原広澄|広澄流]][[清原氏 (広澄流)|清原氏]]である([[天武天皇|天武系]]の清原氏とは同名別氏族)。『[[新撰姓氏録]]』では、[[海氏]](あまうじ)は、海神[[ワタツミ]]を祖とする[[神別]][[氏族]]とされる。それにも関わらず、海広澄は、清原真人の氏姓を下賜されて[[清原広澄]]となった{{sfn|太田|1934|pp=1985 – 1986}}。[[太田亮]]の主張によれば、これは、海氏([[凡海氏]])の[[凡海麁鎌]]が天武天皇の養育者であった縁でもって、海氏は天武後裔であると{{読み仮名|仮冒|かぼう}}したのではないかという{{sfn|太田|1934|pp=1985 – 1986}}。[[清原氏]][[系図]]の一本によれば、広澄流清原氏は[[室町時代]]の[[15世紀]]まで真人の姓を使い続け、[[清原業忠]]の代で初めて[[朝臣]]に改姓したという{{sfn|太田|1934|pp=1985 – 1986}}。


== 主な真人姓氏族 ==
== 主な真人姓氏族 ==
* [[応神天皇]]系  [[息長氏|息長真人]]・[[坂田氏|坂田真人]]・山道真人
* [[応神天皇]]系 - [[息長氏|息長真人]]・[[坂田氏|坂田真人]]・[[山道氏|山道真人]]
* [[継体天皇]]系  [[三国氏|三国真人]]・[[酒人氏|酒人真人]]
* [[継体天皇]]系 - [[三国氏|三国真人]]・[[酒人氏|酒人真人]]
* [[宣化天皇]]系  [[多治比氏|多治比真人]]・[[為名氏|為名真人]]
* [[宣化天皇]]系 - [[多治比氏|多治比真人]]・[[為名氏|為名真人]]
* [[敏達天皇]]系  [[大原氏|大原真人]]・吉野真人・海上真人・[[甘南備氏|甘南備真人]]・[[路氏|路真人]]・[[大宅氏|大宅真人]]
* [[敏達天皇]]系 - [[大原氏|大原真人]]・[[吉野氏|吉野真人]][[海上氏|海上真人]]・[[甘南備氏|甘南備真人]]・[[路氏|路真人]]・[[大宅氏|大宅真人]]
* [[用明天皇]]系  [[当麻氏|当麻真人]]・[[登美氏|登美真人]]・蜷淵真人
* [[用明天皇]]系 - [[当麻氏|当麻真人]]・[[登美氏|登美真人]]・[[蜷淵氏|蜷淵真人]]
* [[舒明天皇]]系  [[三嶋氏|三嶋真人]]
* [[舒明天皇]]系 - [[三嶋氏|三嶋真人]]
* [[天智天皇]]系  [[淡海氏|淡海真人]]・河合真人
* [[天智天皇]]系 - [[淡海氏|淡海真人]]・[[河合氏|河合真人]]
* [[天武天皇]]系  [[高階氏|高階真人]]・豊野真人・[[文室氏|文室真人]]・[[清原氏|清原真人]]・御長真人・[[中原氏 (弘宗王流)|中原真人]]{{efn|真人の姓を得た中原氏は、天武天皇後裔[[弘宗王]]の子らを氏祖とするが、この一流はるわなかった{{sfn|太田|1936|pp=4251–4252}}。[[十市氏]]後裔で明経道・明法道を家学として繁栄したいわゆる[[中原氏]](中原宿禰のち中原朝臣)とは別氏族{{sfn|太田|1936|pp=4251–4252}}。}}・[[氷上氏|氷上真人]]
* [[天武天皇]]系 - [[高階氏|高階真人]]・[[豊野氏|豊野真人]]・[[文室氏|文室真人]]・[[清原氏|清原真人]]・[[御長氏|御長真人]]・[[中原氏 (弘宗王流)|中原真人]]{{efn|真人の姓を得た中原氏は、天武天皇後裔[[弘宗王]]の子らを氏祖とするが、この一流はるわなかった{{sfn|太田|1936|pp=4251 – 4252}}。[[十市氏]]後裔で[[明経道]][[明法道]]を家学として繁栄したいわゆる[[中原氏]](中原[[宿禰]]のち中原朝臣)とは別氏族{{sfn|太田|1936|pp=4251 – 4252}}。}}・[[氷上氏|氷上真人]]
* [[神別]]系  [[清原氏 (広澄流)|清原真人]]([[清原広澄|海広澄(清原広澄)流]]、天武天皇系を仮冒?)
* [[神別]]系 - [[清原氏 (広澄流)|清原真人]]([[清原広澄|海広澄(清原広澄)流]]、天武天皇系を{{読み仮名|[[仮冒]]|かぼう}}?)


== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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* [[福永光司]] 『道教と古代日本』 人文書院、1987年、10頁
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2020年9月26日 (土) 19:30時点における版

  1. 真人(しんじん)は、老荘思想道教において人間の理想像とされる存在。仙人の別称として用いられることもある。
  2. 真人(しんじん)は、始皇帝に代わって真理を悟ったことによる自称。
  3. 真人(まひと)は、八色の姓で制定された姓(カバネ)の一つ。本項で詳述。

真人(まひと)は、天武天皇13年(684年)に制定された八色の姓の一つで、最高位の姓である。

真人の意味

基本的に、継体天皇の近親とそれ以降の天皇皇子の子孫に与えられた。天皇の称号が道教天皇大帝に由来するという説とともに、この「真人」も道教由来のものとする説がある。八色の姓のなかでは道師も道教の神学用語と重なっている。また天武天皇(おくりな)の「瀛真人」(おきのまひと)は道教の神学では「瀛州」という海中の神山に住む仙人の高級者を意味する。

真人の賜姓例

真人賜姓天武天皇が構想する皇親政治の一翼を担うものであった。『日本書紀』の天武天皇13年10月条に、「守山公路公(みちのきみ)・高橋公・三国公当麻公茨城公(うまらきのきみ)・丹比公(たぢひのきみ)・猪名公(ゐなのきみ)・坂田公羽田公息長公(おきながのきみ) ・酒人公(さかひとのきみ)・山道公十三真人に、姓を賜ひて真人と曰ふ」[1]とあって、これら公(きみ)姓氏族はおよそ応神継体天皇用明天皇皇子の子孫である。それ以降の天皇・皇子の子孫についても、奈良時代にたびたび賜姓が行われ、『新撰姓氏録』の載せる真人姓は48氏に昇る(国史にのみ所見のものも含むと更に増加)。

その後

しかし、時あたかも藤原朝臣による権勢拡大の最中で、真人 = 高貴という原義すら崩れ始めていたことも否めず、氷上真人塩焼[2]厨真人厨女[3]のように一種の懲罰として賜姓される例も現れた。この傾向は平安時代に一層強まり、延暦21年(802年安世桓武天皇の皇子)が良岑朝臣姓を賜ると、皇族や真人姓の中からも朝臣賜姓を望む者が増加。政治的意義を失った真人姓の氏族は、次第に政界から姿を消していった。

出自・使用の両方で特異なのが、明経道家学とした広澄流清原氏である(天武系の清原氏とは同名別氏族)。『新撰姓氏録』では、海氏(あまうじ)は、海神ワタツミを祖とする神別氏族とされる。それにも関わらず、海広澄は、清原真人の氏姓を下賜されて清原広澄となった[4]太田亮の主張によれば、これは、海氏(凡海氏)の凡海麁鎌が天武天皇の養育者であった縁でもって、海氏は天武後裔であると仮冒かぼうしたのではないかという[4]清原氏系図の一本によれば、広澄流清原氏は室町時代15世紀まで真人の姓を使い続け、清原業忠の代で初めて朝臣に改姓したという[4]

主な真人姓氏族

脚注

注釈

  1. ^ 真人の姓を得た中原氏は、天武天皇後裔弘宗王の子らを氏祖とするが、この一流は振るわなかった[5]十市氏後裔で明経道明法道を家学として繁栄したいわゆる中原氏(中原宿禰のち中原朝臣)とは別氏族[5]

出典

  1. ^ 日本書紀』巻第二十九、天武天皇13年10月1日条
  2. ^ 『続日本紀』巻第二十一、廃帝 淳仁天皇天平宝字2年8月1日条
  3. ^ 続日本紀』巻第二十九、称徳天皇神護景雲3年5月25日条
  4. ^ a b c 太田 1934, pp. 1985–1986.
  5. ^ a b 太田 1936, pp. 4251–4252.

参考文献

  • 太田亮清原 キヨハラ」『姓氏家系大辞典』 第2、上田萬年三上参次監修、姓氏家系大辞典刊行会、1934年、1980-1989頁。全国書誌番号:47004572https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130938/84  オープンアクセス
  • 太田亮「中原 ナカハラ」『姓氏家系大辞典』 3巻、上田萬年、三上参次監修、姓氏家系大辞典刊行会、1936年、4251-4257頁。全国書誌番号:47004572https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1131019/91  オープンアクセス
  • 福永光司 『道教と古代日本』(人文書院1987年、10頁)

関連項目