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*: [[大陸移動説]]に強い関心を持ち、一般への普及に力を注いだ。
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*[[1964年]]、「地球潮汐および地球振動に関する研究」により、ベルギー科学アカデミーから地球物理学界で最も権威ある賞であるラグランジュ賞を受賞する。
*[[1964年]]、「地球潮汐および地球振動に関する研究」により、ベルギー科学アカデミーから地球物理学界で最も権威ある賞であるラグランジュ賞を受賞する。
*[[1981年]]4月、東京大学を[[定年退職]]。科学雑誌[[ニュートン]]を創刊し編集長に就任。一般向けに科学を分かりやすく説明し、楽しい科学の普及に尽力した。
*[[1981年]]4月、東京大学を[[定年退職]]。科学雑誌[[ニュートン (雑誌)]]を創刊し編集長に就任。一般向けに科学を分かりやすく説明し、楽しい科学の普及に尽力した。
*[[1981年]]5月、東京大学名誉教授の称号が授与され東京大学[[名誉教授]]となる。
*[[1981年]]5月、東京大学名誉教授の称号が授与され東京大学[[名誉教授]]となる。
*[[1982年]]、[[NHK]]からNHK放送文化賞受賞。
*[[1982年]]、[[NHK]]からNHK放送文化賞受賞。

2009年10月20日 (火) 04:05時点における版

竹内 均
生誕 1920年7月2日
日本の旗 日本 福井県大野市
死没 (2004-04-20) 2004年4月20日(83歳没)
職業 地球物理学者
配偶者 夫人との愛情の節を参照
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竹内 均(たけうち ひとし、1920年7月2日 - 2004年4月20日)は、日本を代表する地球物理学者の第一人者で、東京大学名誉教授理学博士、科学啓蒙家。科学雑誌『Newton』初代編集長。代々木ゼミナール札幌校元校長。

生涯

  • 1920年7月2日、福井県大野市に生まれる。
  • 旧制大野中学校2年生の夏、寺田寅彦のエッセー『茶碗の湯』を読み、学者の道を目指す。
    この頃から夜8時に就寝し、朝4時に起床して勉強するという、終生続いた習慣が始まったという。
  • 第四高等学校卒業。
  • 1943年東京帝国大学理学部地球物理学科卒業。
  • 1948年東京大学理学部大学院修了。
    この間、地球潮汐の問題に取り組み、竹内-モロデンスキー方程式を求める等、世界的な業績を残し始める。
  • 1949年5月、東京大学教養学部助教授となる。この頃に地球磁場の研究に取り組み始め、一定の業績を上げる。
    同年、「地球潮汐」の研究で理学博士の学位を取得。
  • 1953年12月、東京大学理学部に移る。
  • 1963年、東京大学教授となる。坪井忠二の後任として地球物理第2講座(地球および惑星内部物理学)を担当。
    大陸移動説に強い関心を持ち、一般への普及に力を注いだ。
  • 1964年、「地球潮汐および地球振動に関する研究」により、ベルギー科学アカデミーから地球物理学界で最も権威ある賞であるラグランジュ賞を受賞する。
  • 1981年4月、東京大学を定年退職。科学雑誌ニュートン (雑誌)を創刊し編集長に就任。一般向けに科学を分かりやすく説明し、楽しい科学の普及に尽力した。
  • 1981年5月、東京大学名誉教授の称号が授与され東京大学名誉教授となる。
  • 1982年NHKからNHK放送文化賞受賞。
  • 1994年勲三等旭日中綬章(教育研究功労)に叙せられる。
  • 2004年4月20日心不全のため、国立病院機構東京医療センターにて逝去。83歳で永眠。

人物像

独特のふちの厚いメガネがトレードマークの、科学者でありながら質実剛健を地で行く人物で、自分に厳しく他人(特に子供)に優しい性格であった。科学者として偉ぶらず、時にユーモアを交えながら落ち着いた話しぶりは、若者特に子供を魅了した。その独特の口調はタモリに「歩くヨーデル」と評された。

彼が科学者を目指したのは寺田寅彦に憧れてのことであった。大学に東京大学を選んだのも、「地球物理学」が東京大学以外では学べなかったことと、何より寺田寅彦の弟子筋にあたる人物がいたということをテレビの対談で述べていた。自分が寺田の「孫弟子」であることをとても誇りに思っていたようだ。研究者としては「地磁気の発生は外核(外部コア)の対流による」(ダイナモ理論)という説を発表し、世界的に注目された。しかし彼の活躍は東京大学教授を退職してから始まる。彼が日本の科学、特に「地学」への国民の関心の低さを憂い、啓蒙活動を始めたのである。科学の啓蒙活動はライフワークとして死ぬ直前まで続けた。

寺田寅彦が残した「天災は忘れた頃にやってくる」という言葉を胸に抱き、関東大震災以降、災害に、特に地震に無頓着であった日本国民に警鐘を鳴らし続けた。竹内の専門であるプレートテクトニクスに基づく科学的な地震学を広めようとしたが、十分に国民に浸透する前に彼が恐れていたことが現実となる。1995年に兵庫県南部地震、通称阪神大震災が発生したのである。その結果、彼の目的は期せずして達せられたが、テレビなどマスコミにプレートテクトニクスを知らない「にわか地球物理学者」が登場し、誤った科学知識を広めたので、よりいっそう本の出版など科学の啓蒙活動に力を入れた。

彼は売れっ子作家なみに数百冊に及ぶ多くの書物を書いた(著書は約450冊)。そしてそれは専門の地球物理学のみならず、一般科学から「修身」など人の生き方についてまで多岐にわたる。また彼の書物の書き方も独特で、原稿やペンは使わずテープレコーダーに「原稿」を吹き込んだ。それを彼の秘書が原稿に起こすという手法を取っていた。それゆえ多量の書物を短期間で「書く」事が出来た。当時このような方法で原稿を「書く」作家はほとんどいなかった。このような「書き方」は「コツ」が必要なため、今でもこのような方法で「書く」人はほとんどいないであろう。彼は彼の書籍の中でその「書き方」を詳しく説明している。この手法のため当時彼が使用していたテープレコーダーの製造会社(ソニーと思われる)に、話の記録を一時的に止める「ポーズ(pause)ボタン」の機能を付ける事を提案した。それ以降ソニーのみならずほとんどすべてのテープレコーダー製造会社の製品にはこの「ポーズボタン」の機能が付いている。

科学の啓蒙活動

正しい科学知識を日本国民に広め日本の科学水準を上げる」ため彼はラジオ・テレビ・新聞などあらゆるメディアを使い(特にテレビへの出演は2,000回を超える)啓蒙活動を続けた。特に彼が重視したのは「子供」であった。「科学的素養は子供のうちにつけておかなければならない」という信念の元、満を持してつくったのが科学雑誌『Newton』である。

当時も科学雑誌はあるにはあったが、難解すぎて一般向けではなかった。そこで、『Newton』では当時の技術では非常に高くついたにもかかわらず、全ページフルカラーで解説も簡便に、なるべく専門用語や難解な表現やカタカナ英語を使わず、「中学生がよんでわかる科学雑誌」を目指した。当時では珍しい定期購読者への宅配サービスも行う(送料無料)ほどの力の入れようであった。

発刊当初は専門の地球物理学、特にプレートテクトニクスに関する記事が多かったが、雑誌として認知されるに従って投稿する科学者が増え、総合的な科学雑誌となっていった。

なお、1973年に映画『日本沈没』(小松左京原作)にプレートテクトニクスを説明する科学者役というそのままの設定で出演している。このことについては、後に『ニュートン』の記事の中で「迫真の演技であるとして皆にからかわれた」と書いている。DVDには小松左京との対談の模様が収録された。翌年放送されたドラマ版にも出演している。

また、NHK高校講座科学と人間」(理科I、現在の理科総合に相当する科目)で多くの生徒が苦手とする物理をほとんど公式を使うことなくわかりやすく解説したこともあった。

夫人との愛情

非常に多忙な竹内の研究生活を支えたのは、同郷の夫人。竹内に同じく早朝4時に起床し、朝食を作り続けてくれたことには頭が上がらなかったという。

主な著書・訳書

関連項目

外部リンク