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「磁気コアメモリ」の版間の差分

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[[File:Ferrite core memory.jpg|thumb|[[CDC 6600]](1964年)で使われた磁気コアメモリ。大きさは10.8×10.8 cm。1コアごとに1[[ビット]]、全体では64 x 64 コアで合計4096ビットの容量がある。拡大図はコアの構造を示したもの]]
[[File:Ferrite core memory.jpg|thumb|[[CDC 6600]](1964年)で使われた磁気コアメモリ。大きさは10.8×10.8 cm。1コアごとに1[[ビット]]、全体では64 x 64 コアで合計4096ビットの容量がある。拡大図はコアの構造を示したもの]]

'''磁気コアメモリ'''(じきコアメモリ)は、小さな[[ドーナツ]]状の[[フェライトコア]]を[[磁化]]させることにより情報を記憶させる[[主記憶装置]]のことで、コンピュータの黎明期にあたる1955年から1975年頃に多用された。原理的に破壊読み出しで、読み出すと必ずデータが消えるため、再度データを書き戻す必要がある。破壊読み出しだが、[[磁性|磁気]]で記憶させるため、[[不揮発性メモリ|不揮発性]]という特徴がある(ただし、電源投入時のノイズ等で内容が破壊されうるので、設計次第で[[揮発性メモリ]]のように扱われる)。
'''磁気コアメモリ'''(じきコアメモリ)は、小さな[[ドーナツ]]状の[[フェライトコア]]を[[磁化]]させることにより情報を記憶させる[[主記憶装置]]のことで、コンピュータの黎明期にあたる1955年から1975年頃に多用された。原理的に破壊読み出しで、読み出すと必ずデータが消えるため、再度データを書き戻す必要がある。破壊読み出しだが、[[磁性|磁気]]で記憶させるため、[[不揮発性メモリ|不揮発性]]という特徴がある(ただし、電源投入時のノイズ等で内容が破壊されうるので、設計次第で[[揮発性メモリ]]のように扱われる)。


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[[File:Intel C1103.jpg|thumb|[[Intel 1103]](1970年)。世界初の[[DRAM]]で、磁気ドラムメモリを置き換える形で普及した]]
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その後磁気コアメモリは 1970年代初めにシリコン半導体のメモリチップ ([[Random Access Memory|RAM]]) に置き換えられていった。特に半導体ベンチャー企業(1968年創業)のIntel社が1970年に発売した世界初の[[DRAM]]、[[Intel 1103]](容量1,024bit)は、磁気コアメモリと同等以上の集積度を実現しており(逆に言うと、最後期の磁気コアメモリは最初期のDRAMと同レベルの集積度をおばちゃんの手作業で実現していたということである)、またその1ビット1セントを下回る低価格性もあって(Intelは1969年に容量256bitの[[SRAM]]である[[Intel 1101]]を発売していたが、高価だったので磁気コアメモリを置き換えることができなかった)、この発売以後、メインフレームにおいて磁気コアメモリからDRAMへの置き換えが急速に進んだ。Intel社の創業当時のロゴ(通称:ドロップドイー)は、下に下がった「e」がコアメモリを齧る様子を表しており、DRAMはその低コスト性、信頼性、省スペース性によって、文字通りコアメモリのシェアを食う形で普及していった。インテルミュージアム(Intelを記念するカリフォルニアの博物館で、磁気コアメモリも展示されている)の説明によると、1972年にIntel 1103 DRAMのシェアが磁気コアメモリのシェアを上回ったという。
その後磁気コアメモリは 1970年代初めにシリコン半導体のメモリチップ ([[Random Access Memory|RAM]]) に置き換えられていった。特に半導体ベンチャー企業(1968年創業)のIntel社が1970年に発売した世界初の[[DRAM]]、[[Intel 1103]](容量1,024bit)は、磁気コアメモリと同等以上の集積度を実現しており(逆に言うと、最後期の磁気コアメモリは最初期のDRAMと同レベルの集積度をおばちゃんの手作業で実現していたということである)、またその1ビット1セントを下回る低価格性もあって(Intelは1969年に容量256bitの[[SRAM]]である[[Intel 1101]]を発売していたが、高価だったので磁気コアメモリを置き換えることができなかった)、この発売以後、メインフレームにおいて磁気コアメモリからDRAMへの置き換えが急速に進んだ。Intel社の創業当時のロゴ(通称:ドロップドイー)は、下に下がった「e」がコアメモリを齧る様子を表しており、DRAMはその低コスト性、信頼性、省スペース性によって、文字通りコアメモリのシェアを食う形で普及していった。インテルミュージアム(Intelを記念するカリフォルニアの博物館で、磁気コアメモリも展示されている)の説明によると、1972年にIntel 1103 DRAMのシェアが磁気コアメモリのシェアを上回ったという。


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2020年3月30日 (月) 10:49時点における版

CDC 6600(1964年)で使われた磁気コアメモリ。大きさは10.8×10.8 cm。1コアごとに1ビット、全体では64 x 64 コアで合計4096ビットの容量がある。拡大図はコアの構造を示したもの

磁気コアメモリ(じきコアメモリ)は、小さなドーナツ状のフェライトコア磁化させることにより情報を記憶させる主記憶装置のことで、コンピュータの黎明期にあたる1955年から1975年頃に多用された。原理的に破壊読み出しで、読み出すと必ずデータが消えるため、再度データを書き戻す必要がある。破壊読み出しだが、磁気で記憶させるため、不揮発性という特徴がある(ただし、電源投入時のノイズ等で内容が破壊されうるので、設計次第で揮発性メモリのように扱われる)。

縦方向、横方向、さらに斜め方向の三つの線の交点にコアを配置する。縦横方向でアドレッシングを行ない、斜め方向の線でデータを読み出す。

歴史

Whirlwind(1951年)で使われた磁気コアメモリ。容量は2048ビット

磁気コアメモリを世界で初めて開発したのは上海生まれのアメリカ人物理学者であるアン・ワング王安)と Way-Dong Woo である。彼らは1949年に「パルス転送制御デバイス」を開発したが、その名称が意味するのはコアの磁場を活用して電気機械式システムの制御をするというものだった。ワングと Woo はハーバード大学の研究所に勤務していたが、大学側は彼らの発明を売り出すことに興味を持たなかった。そのため、ワングは Woo が病で臥せっている間にそのシステムの特許を自分のものとした。

マサチューセッツ工科大学 (MIT) の Whirlwind プロジェクトに従事していたジェイ・フォレスターらのグループが、このワングらの業績に気づいた。Whirlwind はリアルタイムのフライトシミュレーションに使われる予定であり、高速なメモリを必要としていた。最初はウィリアムス管を使おうとしていたが、このデバイスは気まぐれで信頼性に乏しかった。

ふたつの発明によって磁気コアメモリの開発が可能となった。ひとつはアン・ワングのライト-アフター-リード・サイクルの発明である。これにより情報を読み出すと消えてしまうという問題が解決された。もうひとつはジェイ・フォレスターの電流一致システム (coincident-current system) であり、これによって多数のコアを数本のワイヤで制御することが可能となった。

コア配列は人間の手で顕微鏡と精密なモーターを使って組み立てられていた。1950年代後半には、極東でコアメモリ製造工場ができており、例えば東京電気化学工業(現・TDK)の市川工場(東京電気化学工業株式会社電子事業部、現・TDKテクノ)が1956年に設立されている。工員の多くは「手先が器用」とされた女性で、東京通信工業(現・ソニー)が工員募集の際に「女工」の代わりに使った「トランジスタ娘」のキャッチコピーが話題となったため、他の電子機器メーカーの女性工員も同じくそう呼ばれて時代の花形となった。数百人の労働者が一日数セントの賃金でコアメモリを組み立てていた(1960年当時の大卒初任給が約1.1万円、1ドル360円の時代なので、当時は相当な高学歴だった大卒でも米ドル換算で日給1ドルを下回るような時代であり、中卒・高卒で「金の卵」と呼ばれて上京し集団就職した女性工員はそれよりも遥かに低い)。これによってコアメモリの価格が低くなり、1960年代初めには主記憶装置として広く使われるようになり、低価格/低性能の磁気ドラムメモリも高価格/高性能の真空管メモリも使われなくなっていった。なお、当時の日本語では「磁心記憶装置」と呼ばれた。当時生産された物のいくつかは産業遺産として保存されており、例えば日立製作所が1964年にHITAC 5020用に制作した4Kの磁心記憶装置が日立製作所に所蔵されているほか、NTT技術史料館に所蔵されているパラメトロン式計算機MUSASINO-1にも磁心記憶装置が搭載されている。4Kのコアメモリで1ユニット当たり4096個、64Kの物で65536個も搭載されたフェライトコアは、全て高度成長期の日本人が顕微鏡を見ながらドーナツ状のフェライト磁石に銅線を1本ずつ手で通したものである。

磁気コアメモリの製造が自動化されることはなかったが、その価格はほぼムーアの法則に従った推移を示した。最初のころビット当たり1ドル程度だった価格は、最後にはビット当たり0.01ドルになっている。人件費の安い国の工場で大量の女工を投入して製造するという、典型的な労働集約型の製造方法を取っており、これによってコアメモリの低価格化を図って広く普及させることのできた欧米に対して、日本国内の組織が自前でコンピュータを作る際はTDKや日立に高い金を払ってコアメモリを購入することになるため、例えばトランジスタすら高価すぎて使うことができなかったので代わりにパラメトロンを使ってコンピューターを作った電電公社のMUSASINO-1では、磁気コアメモリがそのセンタコストの約3割を占めたという[1]。そのため、MUSASINO-1では後にコアメモリより安くて大容量な磁気ドラム装置を用いた仮想記憶システムが搭載された。

Intel 1103(1970年)。世界初のDRAMで、磁気ドラムメモリを置き換える形で普及した

その後磁気コアメモリは 1970年代初めにシリコン半導体のメモリチップ (RAM) に置き換えられていった。特に半導体ベンチャー企業(1968年創業)のIntel社が1970年に発売した世界初のDRAMIntel 1103(容量1,024bit)は、磁気コアメモリと同等以上の集積度を実現しており(逆に言うと、最後期の磁気コアメモリは最初期のDRAMと同レベルの集積度をおばちゃんの手作業で実現していたということである)、またその1ビット1セントを下回る低価格性もあって(Intelは1969年に容量256bitのSRAMであるIntel 1101を発売していたが、高価だったので磁気コアメモリを置き換えることができなかった)、この発売以後、メインフレームにおいて磁気コアメモリからDRAMへの置き換えが急速に進んだ。Intel社の創業当時のロゴ(通称:ドロップドイー)は、下に下がった「e」がコアメモリを齧る様子を表しており、DRAMはその低コスト性、信頼性、省スペース性によって、文字通りコアメモリのシェアを食う形で普及していった。インテルミュージアム(Intelを記念するカリフォルニアの博物館で、磁気コアメモリも展示されている)の説明によると、1972年にIntel 1103 DRAMのシェアが磁気コアメモリのシェアを上回ったという。

ワング博士の出願した特許は1955年にようやく認められたが、そのころには既に磁気コアメモリが使われていた。そのため長い訴訟問題となったが、IBMがワングに数百万ドルを支払って特許権を買い取ることで解決した。ワングはこれを資金としてワング・ラボラトリーズの規模を拡大させた。

磁気コアメモリは、磁気をスイッチや増幅に使用する様々な技術のひとつである。1950年代、真空管は先端技術であったが、その材質は壊れやすく、発熱と電力消費が大きく、不安定であった。磁気デバイスはトランジスタなどの半導体デバイスと同様の利点を持っていて、軍事利用された例が多い。

構造と記憶の原理

一般的な磁気コアメモリについて、その構造と記憶の原理について説明する。

ヒステリシス曲線

基本的な要諦は、フェライトコアの特性としてその磁化特性について、ヒステリシスの存在により着磁の変化に一定の「しきい値」のようなものがある、ということである。

磁気コアメモリは、小型のフェライト磁性体のリング(コアという)に電線が通されたものが、格子状に多数配置された構造になっている。コアの一つが1ビットの記憶容量を持つ。

一つのコアに対しては、書き込み用電線が縦横の各1本で2本、それと読み出し用電線1本が通っている。書き込み用電線は格子状に配線され格子点にコアがある。格子の縦横各1本の書き込み用電線を指定すると、一つのコアが定まるわけである。これがビットアドレスの指定になる。縦と横のそれぞれ1本の電線に流す電流は、ある程度の余裕を持って前述のしきい値よりも低い磁力しか発生させない程度に流す。これにより、交点にある、両方の電線が通っている唯一のコアだけが十分な強さの磁力の変化を受ける。

あるコアにデータを書き込むには、そのコアに対応する書き込み用電線2本に電流を流して磁化させる。電流の方向によりコアの磁界の向きが決まり、それにより0か1のビット値が決まる。なお、磁化されたコアは、電流が止まっても磁化した状態を保持するので不揮発性のメモリということができる。

あるコアのデータを読み出すには、そのコアに対応する書き込み用電線2本に電流を流し、読み出し用電線の電流を検知する。このとき現在のコアの磁界の向きが逆転するようであれば、読み出し用ケーブルに電流が流れる。逆転しない場合は、読み出し用電線に電流が流れない。これによりコアのビット値が判明する。しかし、データを読み出すときに、書き込み用電線2本に電流を流すのでコアが磁化されてしまい、読み出し前の内容が失われてしまう(非破壊読み出しができない)。このためコアの内容をその後も保持したい場合は、「書き戻し」が必要である。

豆知識

  • コンピュータのメモリが半導体化されて久しいが、メモリ内容をダンプしたファイルをコアダンプ(プログラムの異常終了などでそうなることを「コアを吐く」ともいう)と呼ぶのは磁気コアメモリが使われていた当時の名残りであり、現在でも使われている。
  • IBM半自動式防空管制組織に用いた磁気コアメモリの駆動回路に、真空管に代えてシリコントランジスタを採用し信頼性と高速性を確保した。トランジスタがゲルマニウム製全盛期に、シリコントランジスタを製造できたのはロバート・ノイス率いるフェアチャイルドセミコンダクターのみであり、IBMはフェアチャイルドセミコンダクターから独占的に高額で買い付け、創業時のフェアチャイルドセミコンダクターを(結果的に)資金面で支えた。後年フェアチャイルドセミコンダクターを見限ったロバート・ノイスは、半導体メモリを集積回路で安価に製造することで、(自身が普及を助けた)磁気コアメモリに取って代わることを目的としてインテルを設立した。最初期の社章はコアを齧るイメージを用いている。最初のD-RAMを商品化したのもIntel社である。
  • 最も遅い時代までコアメモリが使われていたとしてよく語られるもののひとつに、スペースシャトルの飛行制御システムに使われたAP-101の初期型がある。このことは『困ります、ファインマンさん』に書かれて広く知られるようになった[2]
  • 特定のコアへのアクセスが集中すると、そこがを持って正常動作が出来なくなる。これは、プログラムで同一変数に連続して操作を行うと値が化ける現象として現れる。そのため、プログラムでは異なる変数を順次操作する様に考慮する必要がある。

脚注

  1. ^ 2016/3/10 DIPS4150形磁気ドラム記憶装置が「情報処理技術遺産」に認定されました。 - NTT技術史料館
  2. ^ 「ジョンソン基地では非常に良いソフトウェアを作っているのだが、悲しいかなシャトルに載っているコンピュータは、およそカビでも生えそうな時代遅れのモデルで、もう製造すらしていない。その記憶装置も中に電線が通った磁気コアから成るおよそ旧式なしろものだ。」R.P.ファインマン『困ります、ファインマンさん』〈岩波現代文庫〉2001年、278頁。ISBN 9784006030292 

関連項目

外部リンク

いずれも英文