コンテンツにスキップ

「斎藤正義」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
3行目: 3行目:
{{武士/生誕|[[永正]]13年([[1516年]])}}
{{武士/生誕|[[永正]]13年([[1516年]])}}
{{武士/死没|[[天文 (日本)|天文]]17年([[1548年]])}}
{{武士/死没|[[天文 (日本)|天文]]17年([[1548年]])}}
{{武士/改名|多幸丸、斎藤正義 }}
{{武士/改名|近衛多幸丸、斎藤正義 }}
{{武士/別名|斎藤大納言、妙春}}
{{武士/別名|斎藤大納言、妙春}}
{{武士/主君|斎藤道三}}
{{武士/主君|[[斎藤道三]]}}
{{武士/氏族|[[近衛家|近衛氏]]、[[斎藤氏]]}}
{{武士/氏族|[[近衛家]]、[[斎藤氏|美濃斎藤氏]]([[藤原氏]]}}
{{武士/父母|実父:[[近衛稙家]]? 養父:''[[斎藤道三]]''}}
{{武士/父母|実父:[[近衛稙家]]? 養父:''斎藤道三''}}
{{武士/兄弟|[[近衛前久]]?}}
{{武士/兄弟|[[近衛前久]]?}}
{{武士/子|'''[[加木屋正次]]'''}}
{{武士/子|'''[[加木屋正次]]'''}}
20行目: 20行目:
正義開基という[[浄土宗]][[浄音寺]]に天文8年の賛がある精悍な甲冑姿の肖像が残っている。
正義開基という[[浄土宗]][[浄音寺]]に天文8年の賛がある精悍な甲冑姿の肖像が残っている。


{{先代次代|[[斎藤氏|持是院家当主]]|第8代:斎藤正義|[[長井利隆|斎藤妙全]](利隆)|断絶}}
{{先代次代|[[斎藤氏|持是院家当主]]|第8代:斎藤正義|[[長井利隆|斎藤妙全(利隆)]]|断絶}}


{{DEFAULTSORT:さいとう まさよし}}
{{DEFAULTSORT:さいとう まさよし}}

2008年12月5日 (金) 03:12時点における版

{{{このテンプレートは廃止されました。}}}
時代 戦国時代
生誕 永正13年(1516年)
死没 天文17年(1548年)
改名 近衛多幸丸、斎藤正義
別名 斎藤大納言、妙春
主君 斎藤道三
氏族 近衛家美濃斎藤氏藤原氏
父母 実父:近衛稙家? 養父:斎藤道三
兄弟 近衛前久
加木屋正次


斎藤 正義(さいとう まさよし、永正13年(1516年) - 天文17年(1548年))は戦国時代の武将。近衛稙家の庶子。斎藤道三の猶子。大納言、妙春と称した。美濃烏峰城(金山城)主

正義は関白近衛稙家の庶子といわれる。はじめ比叡山横川専心院の修行僧であったが、武事を好み、美濃に下って斎藤道三の食客となっていた。そして道三と敵対する土岐頼純方との合戦に活躍し、道三の猶子に迎えられ、斎藤姓を与えられたという。ただし、斎藤妙椿の孫の妙親が大納言を名乗っているので、この持是院家を継承したものかもしれない。天文元年に初陣を飾り、天文6年、道三の命により、尾張侵攻に備え、烏峰城を築いて東濃に武威を張っていたが、同17年2月、配下の久々利城土岐三河守悪五郎に館に招かれて謀殺され、烏峰城は悪五郎に乗っ取られてしまった。時は流れて天正11年、悪五郎は正義の孫、加木屋正則により討ち果たされた。

正義開基という浄土宗浄音寺に天文8年の賛がある精悍な甲冑姿の肖像が残っている。

先代
斎藤妙全(利隆)
持是院家当主
第8代:斎藤正義?
次代
断絶