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'''斎藤 正義'''(さいとう まさよし、永正13年(1516年) - 天文17年(1548年))は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[近衛稙家]]の庶子。[[斎藤道三]]の[[猶子]]。大納言、妙春と称した。美濃[[金山城 (美濃国)|烏峰城]](金山城)主。斎藤大納言、妙春とも称される。子は[[加木屋正次]]。
'''斎藤 正義'''(さいとう まさよし、永正13年(1516年) - 天文17年(1548年))は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[近衛稙家]]の庶子。[[斎藤道三]]の[[猶子]]。大納言、妙春と称した。[[美濃国|美濃]][[金山城 (美濃国)|烏峰城]](金山城)主。斎藤大納言、妙春とも称される。子は[[加木屋正次]]。


正義は[[関白]]近衛稙家の[[庶子]]といわれる。幼名は多幸丸。はじめ[[比叡山]]横川専心院の修行僧であったが、武事を好み、[[美濃国|美濃]]に下って斎藤道三の食客となっていた。天文元年(1532年)に初陣を飾り、道三と敵対する[[土岐頼純]]方との合戦に活躍し、道三の猶子に迎えられ、斎藤姓を与えられたという。ただし、大納言を称したことから、[[斎藤妙椿]]の孫の[[斎藤利親|妙親]]が大納言を名乗っていることもあり、持是院家を継承したものかもしれない。天文6年(1537年)、道三の命により、尾張侵攻に備え、[[金山城 (美濃国)|烏峰城]]を築いて東濃に勢威を張っていたが、同17年(1548年)2月、配下の[[久々利城]]主[[久々利頼興|土岐三河守悪五郎]]に館に酒宴に招かれて謀殺された。烏峰城は悪五郎に乗っ取られてしまったが、天正11年([[1583年]])1月、正義の孫、[[加木屋正則]]により悪五郎は討ち果たされた。
正義は[[関白]]近衛稙家の[[庶子]]といわれる。幼名は多幸丸。はじめ[[比叡山]]横川専心院の修行僧であったが、武事を好み、美濃に下って斎藤道三の食客となっていた。天文元年(1532年)に初陣を飾り、道三と敵対する[[土岐頼純]]方との合戦に活躍し、道三の猶子に迎えられ、斎藤姓を与えられたという。ただし、大納言を称したことから、[[斎藤妙椿]]の孫の[[斎藤利親|妙親]]が大納言を名乗っていることもあり、持是院家を継承したものかもしれない。天文6年(1537年)、道三の命により、尾張侵攻に備え、[[金山城 (美濃国)|烏峰城]]を築いて東濃に勢威を張っていたが、同17年(1548年)2月、配下の[[久々利城]]主[[久々利頼興]]に館に酒宴に招かれて謀殺された。烏峰城は頼興に乗っ取られてしまったが、天正11年([[1583年]])1月、正義の孫、[[加木屋正則]]により頼興は討ち果たされた。


正義開基という[[浄土宗]][[浄音寺]]に天文8年の賛がある精悍な甲冑姿の肖像が残っている。
正義開基という[[浄土宗]][[浄音寺]]に天文8年の賛がある甲冑姿の肖像が残っている。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2011年8月19日 (金) 01:51時点における版

斎藤 正義(さいとう まさよし、永正13年(1516年) - 天文17年(1548年))は、戦国時代武将近衛稙家の庶子。斎藤道三猶子。大納言、妙春と称した。美濃烏峰城(金山城)主。斎藤大納言、妙春とも称される。子は加木屋正次

正義は関白近衛稙家の庶子といわれる。幼名は多幸丸。はじめ比叡山横川専心院の修行僧であったが、武事を好み、美濃に下って斎藤道三の食客となっていた。天文元年(1532年)に初陣を飾り、道三と敵対する土岐頼純方との合戦に活躍し、道三の猶子に迎えられ、斎藤姓を与えられたという。ただし、大納言を称したことから、斎藤妙椿の孫の妙親が大納言を名乗っていることもあり、持是院家を継承したものかもしれない。天文6年(1537年)、道三の命により、尾張侵攻に備え、烏峰城を築いて東濃に勢威を張っていたが、同17年(1548年)2月、配下の久々利城久々利頼興に館に酒宴に招かれて謀殺された。烏峰城は頼興に乗っ取られてしまったが、天正11年(1583年)1月、正義の孫、加木屋正則により頼興は討ち果たされた。

正義開基という浄土宗浄音寺に天文8年の賛がある甲冑姿の肖像が残っている。

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