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==その人==
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後漢末期[[黄巾の乱]]勃発以前、朝廷の実権を握り、栄華をほしいものにしていた10人の宦官「十常侍」を粛清するために諸侯へ向けて上洛を呼びかける檄文を飛ばしていた。
後漢末期[[黄巾の乱]]勃発以前、朝廷の実権を握り、栄華をほしいものにしていた10人の宦官「[[十常侍]]」を粛清するために諸侯へ向けて上洛を呼びかける檄文を飛ばしていた。


大義名分を何進の檄文が整えてくれている以上、都に上洛し、宦官を排除して天子を補佐することが、権力を握るための最短ルートとなったのである。宦官の時代は、こうしてここに終焉した。
大義名分を何進の檄文が整えてくれている以上、都に上洛し、宦官を排除して天子を補佐することが、権力を握るための最短ルートとなったのである。宦官の時代は、こうしてここに終焉した。

2006年3月22日 (水) 10:54時点における版

曹操(そう そう、Cáo Cāo, 155年 - 220年)は中国後漢末の武将であり政治家詩人である。孟徳、沛(はい)国譙(しょう)県(現在の安徽省亳州市)の人。幼名は、阿瞞また吉利。廟号太祖謚号武皇帝。後世では武帝、魏武とも呼ばれる。父は曹嵩。曹嵩は夏侯氏であったが中常侍大長秋曹騰の養子となり曹氏を継いだ(高位の宦官は養子をとって家名を存続することが可能だった)。曹氏の先祖は前漢の平陽侯曹参とされるが疑わしい。また、曹嵩の実家である夏侯氏の先祖は前漢の汝陰侯夏侯嬰とされている。魏将、夏侯惇夏侯淵とは従兄弟にあたる。

ファイル:曹操孟徳.jpg
曹操肖像画

月旦で有名な後漢三国時代の人物批評家許劭(許子将)は、曹操のことを「治世の能臣、乱世の奸雄」(「子治世之能臣亂世之姦雄」『魏志武帝紀』)、もしくは「治世の奸臣、乱世の英雄」(「君清平之姦賊亂世之英雄」『後漢書許劭伝』)と評した。

演義では、「爪黄飛電」・「絶影」を愛馬とし、対となす宝剣「倚天の剣」・「青釭の剣」を作らせる(「絶影」は正史の注である魏書にも記述があり、絶影とは影もとどめぬという意味)。

その人

後漢末期黄巾の乱勃発以前、朝廷の実権を握り、栄華をほしいものにしていた10人の宦官「十常侍」を粛清するために諸侯へ向けて上洛を呼びかける檄文を飛ばしていた。

大義名分を何進の檄文が整えてくれている以上、都に上洛し、宦官を排除して天子を補佐することが、権力を握るための最短ルートとなったのである。宦官の時代は、こうしてここに終焉した。

大宦官・曹騰の孫である曹操が安定して出世する事の出来ただろう未来も、同時に失われたのである。

反董卓連合軍

189年(中平6年)何進の檄文にいち早く反応した董卓が洛陽に上洛、少帝弁を廃して献帝を立て、朝廷を牛耳った。曹操はその暗殺を図るが失敗、洛陽から脱出し、故郷に逃げ帰った。この後も董卓と諸侯の軋轢は進み、東郡太守橋瑁によって詔勅が偽造され、各地の諸侯に連合を呼びかける檄文が飛ぶに至る。

190年(初平元年)、袁紹を盟主として反董卓連合軍が成立すると、曹操もまた父・曹嵩の援助を受け、親友である袁紹(曹操自身は袁紹を親友だとは思っていなかったという)のもとに駆けつけた。しかし、董卓打倒を目指して集結したはずの連合軍は、董卓の軍を目前にしながら毎日宴会行い、誰も積極的に攻めようとはしなかった。やがて諸侯はお互いを牽制し始める。

董卓が洛陽を焼き払い長安に遷都したので、曹操は盟主の袁紹に好機だと迫ったが攻撃命令は下されず、単独で董卓を攻撃した曹操の軍は、壊滅的な打撃を受ける(しかし、この無謀ともいえる突撃が評価されて、曹操の名前は全土に鳴り響いたといわれている)。曹操は連合に見切りを付け、故郷に戻って軍の再編を始めた。諸侯もまた撤退、兵力を保持したまま各地に散らばっていった。

事実上、この時点で後漢王朝の全土への支配力は完全に失われ、群雄割拠の時代となった。

親友の将として戦い、もう一人の親友に裏切られる

191年(初平2年)、曹操は袁紹によって東郡太守に任命された。

192年(初平3年)、董卓が呂布暗殺されると、各地で黄巾の残党が暴れ始めた。兗州の刺史・劉岱が黄巾の残党に殺され、曹操はかわって兗州刺史に就任。黄巾討伐の詔勅を受け、青州の黄巾軍の残党30万を討伐。これを降して自身の勢力に組み入れ、『青州兵』と名付けた。これ以降、曹操の実力は大きく上昇した。

193年(初平4年)、この頃、袁紹と袁術の兄弟が仲違いをした。袁術は、公孫瓚に救援を求め、公孫瓚は劉備や徐州牧・陶謙を派遣する。曹操は、袁紹と協力してこれらと当たり、その全てを打ち破った(匤亭の戦い)。敗れた袁術は寿春に落ちのびて行った。

194年(興平元年)、春、曹操は袁術の軍を打ち破ったので徐州から帰還したが、前年に陶謙の部将に父・曹嵩を含めた一族を殺されていた。夏、その恨みから復讐戦を行う事を決意し、徐州に再度侵攻する。この時、曹操の軍の通過した所では、鶏や犬の鳴く声さえ無く、死体のため河が堰き止められたというほどの惨状であったといわれる(徐州大虐殺)。この虐殺によって曹操は最大の悪評を得る事に至り、『三国志演義』において曹操が悪役扱いされる事の根源となった。

秋、曹操がの為に兵糧を失い、徐州の侵攻を切り上げて帰還した。ところが、親友の張邈が、軍師の陳宮と謀って呂布を迎え入れており、領地である兗州の大半は呂布の物となっていた。

張邈は、呂布が袁紹を見限って去った後に呂布と会い、深い親交を結んだ為に、袁紹に嫉妬されていた。曹操は袁紹にその事を言われる都度に張邈を庇っていたが、張邈の方は曹操が袁紹との友誼を優先して自分を殺すのではないかと不安になり、裏切った。張邈と曹操とは、反董卓連合の時代からの付き合いで、互いが死んだ時には互いの家族の面倒を見る事を約束するほどの仲だった。 それほどまでに信頼していた人間に裏切られた曹操は、愕然とする。

幸い、荀彧程昱が本拠地を守り抜き、蝗の為に呂布も軍を引かせた為、曹操は帰還を果たす事が出来た。しかし、この戦いで青州兵は壊滅的打撃を受け、曹操自身も大火傷を負い、従兄弟の夏侯惇も左目を失っている。 このような時、袁紹が機を見計らったかのように援助を申し入れてくる。程昱の反対もあり、曹操はそれを断る。この年の秋、穀物の値段は1石50余万銭にもなり、一帯では人が人を食sstripper陶謙が死に、劉備がそれに代わっていた。

195年(興平2年)、春、曹操は呂布から定陶で大勝利を得た(定陶の戦い)。呂布は劉備を頼って落ち延び、張邈もそれに付き従ったが、曹操は、張邈が弟である張超に家族を預けているのを知ると、弟の張超を攻撃。

秋、根拠地の兗州を全て奪還した曹操は、兗州牧に任命された。

冬、張超を破り、張邈の三族(父母・兄弟・養子)を皆殺しにした。前後して、袁紹は公孫瓚をうちやぶり、河北をほぼ平定している。

官渡の戦い以後

196年(建安元年)、このころ長安では、呂布らを追った李傕らが朝廷の実権を握っていた。しかし、李傕らは常に内紛を続けていた。荀彧程昱の勧めで、長安から逃げてきた献帝を自らの本拠である許都(いまの許昌)に迎え入れた。

後漢帝室の威光を背後に付けて有利に政戦略を展開し、呂布袁術張繍といった諸侯を制圧。張繍は降伏したのち再び反逆し、張繍軍の襲撃のため長男の曹昂・忠臣の典韋を失った。曹操自身と愛馬の絶影もこの時負傷したという。その後、曹操と河北を制圧した袁紹の対決が必至となると、張繍は再び曹操に降伏し、曹操も快く迎え入れた。

200年官渡の戦いで最強の敵である袁紹を破り、その死後、華北(中国北部)を統一した。204年(建安9)、袁氏の本拠である(現在の河北省臨漳[りんしょう])を攻め落とし、ここに本拠地を移す。207年、袁氏に味方する烏丸(うがん)族を討ち、袁氏一族を滅ぼした。

曹操の実力は圧倒的な物となり、残るは荊州の劉表、孫権劉璋、漢中の五斗米道関中馬超を筆頭とした群小豪族、寄る辺の無い劉備だけとなった。曹操は三公制を廃止し、自ら丞相となり天下統一への道を固めた。曹操は15万の軍を南下させ、病死した劉表の後を継いだ劉琮を降し、長江を下って呉へ攻め込もうとした。呉の大将は周瑜。呉と劉備の連合軍は5、6万と推定される。208年(建安13年)12月、赤壁の戦いが起こり、呉軍の策略に引っかかった曹操軍の軍船は火攻めにあい、撤退を余儀なくされた。これにより中国全土統一の事業は頓挫し、その後に劉備が蜀の劉璋を降した事により、魏・呉・蜀の三国が割拠することとなった。

213年に魏公となり、216年に魏王に封じられ、後漢の配下の王国という形でを建国。献帝には権力は無く、実際には後漢をほぼ乗っ取った形であったが曹操は最後まで帝位にはつかず後漢の丞相の肩書きで通した。簒奪の意を問われた曹操は「自分は(の)文王たればよい(文王は(商)の重臣として殷に取って代われる勢力を持っていたが死ぬまで殷に臣従し、殷を滅ぼした子の武王によって「文王」を追号された)」としてその意を示唆したともいう。 omfg 220年、死去。遺言では戦時であるから喪に服すのは短くして、墓に金銀を入れてはいけないと言った。死後、息子の曹丕が後漢の献帝から禅譲を受け皇帝となると、太祖武帝と追号された。 awww

ちなみに子孫は今現在、中国杭州の東図上村に住んでいるとされ、住民1,600人のうち1,500人の名字が「曹」である。 fooo

人物・事績

三国志』に登場する人物は、背が高い、見目麗しい、髭が立派、など、立派な外見をしていると書かれている者が多い。そんな中で曹操は背が低く(身長7尺=約160cm)、みすぼらしかった。それに加えて、曹家は名臣曹参の裔を称していたものの、祖父の曹嵩が宦官である事から、常に士大夫層からその事を馬鹿にされていた。たとえば、袁紹の謀臣であった陳琳は曹操との戦いに向けた檄文の中で曹操を「贅閹の遺醜」(宦官という薄汚い存在の臭い倅、といったような意味)と罵倒している。しかし、そのような逆境が曹操に、才能を重んじ、風評や出自は重んじない、という気風を育てたのだと思われる(前述の陳琳も後にその文才を曹操自身によって認められ、取り立てられている)。

他の群雄達が、兵糧確保の為に農民から略奪するだけの強盗まがいの事をしていた当時に、曹操は韓浩に提言された屯田と呼ばれる農政を行っていた。屯田とは戦乱のために耕すものがいなくなった農地を官の兵士が農民を護衛して耕させる制度である。この政策により曹操軍は食料に事欠かないようになり、各地の食い詰めた民衆達を大量に集める事が出来たのである。曹操が勝ち残った理由は献帝の確保とこの屯田にあるといって良い。

曹操は文章家でもあり、兵書『孫子』を現在残る十三篇に編纂したのは曹操である(演義では、孫子の注である『孟徳新書』を張松に笑われ焼き捨てているが、恐らく『孫子』の注釈書の事ではないかと言われている。勿論焼き捨てられてはいない)。漢詩にも卓越しており、赤壁の戦いの際に歌った「短歌行」は『文選』に収録されている。文武両面に非凡な才能を見せた曹操を陳寿は「非常の人、超世の傑」(非常な才能の持ち主であり、時代を超えた英雄である)と評している。

現在の日本の酒造業界において尚行われている「段掛け方式」という醸造法は、曹操が発明した「九蒕春酒法」のことである。 曹操が当時の後漢帝の劉協に上奏した、九蒕春酒法の上奏文は、今日も現存している。

屯田以外の曹操の政治上の業績は、強制婚姻による兵雇制度の改革、権限の一元化によって朝廷内の意思を統一するため三公を廃止して丞相と御史太夫を設立、有能な人物であれば過去を問わず採用する求賢令、禁酒法、軍閥を抑制を目的とした地方分権型から中央集権型軍隊への移行、州の区分けを見直す合併独立による再編などである。

そして三国志演義の悪役に

現在、巷間に知られている三国志演義の原型は 北宋の頃に、三国物の講談、説話 (中国)雑劇であり、中国を舞台にした戦記のなかでも圧倒的な人気の高さを誇り、繰り返し上演された。南宋からの頃にはこれらの物語は書物にまとめられ、『三国志平話』と呼ばれる口語体による三国物小説が生まれた。またこのころ関索についての説話、花関索伝も成立したと推測される。 その後、代に施耐庵あるいは羅貫中が三国物語をまとめなおし、花関索伝や三国志などの歴史書から小説の筋に適合する情報を取捨選択して加えたものが『三国演義(三国志通俗演義)』で、大まかな流れは外れないものの蜀漢の陣営を正統とみなし、大衆の判官 びいきの心理と儒教的プロパガンダの脚色がなされている。

そうである以上、劉備の生涯の敵であった曹操は、物語の仇役として成立させなければならない。しかし、陳寿が記し、魏を本伝とする正史には、すでに上記にあげられた歴史的事実に基づく以外の悪評は記されていない。そのため、曹瞞伝(魏の敵国である呉の民間伝承)など、資料的価値の乏しい物の記述からも抜粋・採用される事となった。

曹操の多才さも災いしたといわれる。

上の項目の「人物・事績」の記述の多く正史・武帝記のものであるが、それら曹操の多才さを表す事績を記した後に、「軽佻(落ち着きが無く・軽はずみ・移り気のしやすい)な人柄」であったという評を編者である陳寿は記している。 儒教の思想では、初における劉邦項羽の故事から、英雄とは劉邦のように「人を使いこなす器」であり、「多くの分野に長け、それらを自らこなしてしまう存在」=項羽・曹操は、好人物とは捉えられていない。 そのような儒教思想が、儒者である陳寿や裴松之を代表とする三国志を編纂・注釈した人々、そしてそれらを読む人々の底辺にあった。そのような中では、才能が豊かであったという記述は「才能が豊かなだけ、軽佻な人物であった」という事を浮き立たせる事になり、軽佻な人柄という記述が概ね正しいのだろう、という結論に説得力を与える事になる。羅貫中は、儒教的な観念から著された記述から曹操像を作り上げ、さらにそれを民間に伝播させたことで、今日に至るまで曹操が悪役であり続ける事に一役買う事になってしまったというのだ。

また、中国は唐末・五代以降常に異民族に領土を蚕食され続け、南宋期にそれに対する反発として大義名分と正統を重んじる朱子学が朱熹によって完成を見、それが長く官学としての主流となると三国志もまた正統と異端を断ずる格好の材料となっていった。

それ以外にも中国では昔から主人を裏切る行為に対して重罪というのが常識的になっており、曹操の振る舞いが主人である献帝を蔑ろにしている為、この行為が悪役へ繋がらせた理由ともなっている。

血縁

    • 曹昂(豊愍王) 母は劉夫人 正室丁夫人の養子
    • 曹丕(文帝) 母は卞王后
    • 曹彰(任城威王) 母は卞王后
    • 曹植(陳思王) 母は卞王后
    • 曹熊(蕭懐王) 母は卞王后
    • 曹鑠(相殤王) 母は劉夫人
    • 曹沖(鄧哀王) 母は環夫人
    • 曹拠(彭城王) 母は環夫人
    • 曹宇(燕王) 母は環夫人
    • 曹林(沛穆王) 母は杜夫人
    • 曹袞(中山哀王) 母は杜夫人
    • 曹玹(済陽懐王) 母は秦夫人
    • 曹峻(陳留恭王) 母は秦夫人
    • 曹矩(范陽閔王) 母は尹夫人
    • 曹幹(趙王) 母は王昭儀
    • 曹上(臨邑殤公子) 母は孫姫
    • 曹彪(楚王) 母は孫姫
    • 曹勤(剛殤公子) 母は孫姫
    • 曹乗(穀城殤公子) 母は李姫
    • 曹整(郿戴公子) 母は李姫 (郿は、眉におおざと)
    • 曹京(霊殤公子) 母は李姫
    • 曹均(樊安公) 母は周姫
    • 曹棘(広宗殤公子) 母は劉姫
    • 曹徽(東平霊王) 母は宋姫
    • 曹茂(楽陵王) 母は趙姫
    • 曹憲(献帝夫人)
    • 曹節(献穆皇后)
    • 曹華(献帝夫人)

関連項目 

外部リンク

関連書

  • 竹田晃 『曹操』三国志の奸雄 講談社学術文庫 講談社 ISBN 4061592203
  • 中島悟史 『 曹操註解 孫子の兵法』 朝日文庫 朝日新聞社 ISBN 4022643323
  • 別冊宝島編集部 編 『三国志曹操伝』宝島社文庫 ISBN 4-7966-4997-2
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太帝
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武帝
次代
文帝