「戸野周二郎」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
四日市市長・東京市助役 |
BOT: Category:長野県内の地方公務員出身の人物を除去 (議論場所) (ID: 01HQVXNPCDAJPG966NGSSBYZMR) |
||
(14人の利用者による、間の27版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
{{表記揺れ案内|表記1=戸野周二郎|表記2=戸野周次郎|議論ページ=}} |
|||
[[File: |
[[File:Mr. Shujiro Tono, Manager of the Education Association of Kyoto Prefecture.jpg|thumb|200px|戸野周二郎]] |
||
'''戸野 周二郎'''(との しゅうじろう、[[慶応]]2年[[12月10日 (旧暦)|12月10日]]{{sfn|大正名家録|1915|ref=ta}} |
'''戸野 周二郎'''(との しゅうじろう、[[1867年]][[1月15日]]([[慶応]]2年[[12月10日 (旧暦)|12月10日]]{{sfn|大正名家録|1915|ref=ta}})– [[1955年]]([[昭和]]30年)<ref>『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、261頁。</ref>)は、[[日本]]の教育者。[[三重県]][[四日市市|四日市]][[市町村長|市長]]。 |
||
== 経歴 == |
== 経歴 == |
||
[[丹後田辺藩]]儒戸野周太郎の二男として[[舞鶴市|舞鶴]]に生まれる{{sfn|大正名家録|1915|ref=ta}}。[[京都師範学校|京都府師範学校]]を卒業後、[[東京専門学校 (旧制)|東京専門学校]](現在の[[早稲田大学]])を経て、[[1891年]]([[明治]]24年)に[[東京高等師範学校]]文科を卒業{{sfn|大正名家録|1915|ref=ta}}。[[青森師範学校|青森県師範学校]]校長、[[長野県庁|長野県]][[視学制度|視学]]、東京高等師範学校を歴任した{{sfn|大正名家録|1915|ref=ta}}。[[1902年]](明治35年)、湖北師範学堂に総教習・学務顧問として招かれ、[[清]]に渡った{{sfn|大正名家録|1915|ref=ta}}。[[1904年]](明治37年)に帰国した後は[[東京市]]教育課長に任じられた{{sfn|大正名家録|1915|ref=ta}}。[[1914年]]([[大正]]3年)からは[[下谷区]]長を務め{{sfn|大正名家録|1915|ref=ta}}、[[1919年]](大正8年)には東京市助役に就任した<ref>{{Cite web|author=東京都公文書館|url= |
[[丹後田辺藩]]儒戸野周太郎の二男として[[舞鶴市|舞鶴]]に生まれる{{sfn|大正名家録|1915|ref=ta}}。[[京都師範学校|京都府師範学校]]を卒業後、[[東京専門学校 (旧制)|東京専門学校]](現在の[[早稲田大学]])を経て、[[1891年]]([[明治]]24年)に[[東京高等師範学校]]文科を卒業{{sfn|大正名家録|1915|ref=ta}}。[[青森師範学校|青森県師範学校]]校長、[[長野県庁|長野県]][[視学制度|視学]]、東京高等師範学校を歴任した{{sfn|大正名家録|1915|ref=ta}}。[[1902年]](明治35年)、湖北師範学堂に総教習・学務顧問として招かれ、[[清]]に渡った{{sfn|大正名家録|1915|ref=ta}}。[[1904年]](明治37年)に帰国した後は[[東京市]]教育課長に任じられた{{sfn|大正名家録|1915|ref=ta}}。[[1914年]]([[大正]]3年)からは[[下谷区]]長を務め{{sfn|大正名家録|1915|ref=ta}}、[[1919年]](大正8年)には東京市助役に就任した<ref>{{Cite web|和書|author=東京都公文書館|url=https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/01soumu/archives/0702c_mayor.htm|title=歴代東京市長・助役一覧|language=[[日本語]]|accessdate=2016-08-02}}</ref>。 |
||
[[1925年]](大正14年)に四日市市長に選出され、[[1933年]](昭和8年)まで在任した。 |
[[1925年]](大正14年)に四日市市長に選出され、[[1933年]](昭和8年)まで在任した。 |
||
== 家族 == |
|||
*妻・[[戸野みちゑ]](1870-1944)- 教育者。 |
|||
== 著書 == |
== 著書 == |
||
* 『学校及教師と図書館』(宝文館、1909年) |
* 『学校及教師と図書館』(宝文館、1909年){{NDLJP|897094}} |
||
==脚注== |
==脚注== |
||
16行目: | 20行目: | ||
* {{cite book|和書|author=原田道寛|title=大正名家録|publisher=二六社編纂局|year=1915|ta}} |
* {{cite book|和書|author=原田道寛|title=大正名家録|publisher=二六社編纂局|year=1915|ta}} |
||
{{Commonscat}} |
|||
{{S-start}} |
|||
{{S-off}} |
|||
{{Succession box |
|||
| title = [[青森師範学校#歴代校長|青森県師範学校長]] |
|||
| years = 1898年 - 1899年<br />''青森県尋常師範学校長<br />1898年'' |
|||
| before = [[朝夷六郎]] |
|||
| beforenote = 青森県尋常師範学校長 |
|||
| after = [[小林盈]] |
|||
}} |
|||
{{S-other}} |
|||
{{Succession box |
|||
| title = [[信濃教育会]]会長 |
|||
| years = 1900年 - 1902年 |
|||
| before = [[正木直太郎]] |
|||
| after = [[原竜豊]] |
|||
}} |
|||
{{S-end}} |
|||
{{四日市市長}} |
|||
{{下谷区長}}{{台東区長}}{{Normdaten}} |
|||
{{DEFAULTSORT:との しゆうしろう}} |
{{DEFAULTSORT:との しゆうしろう}} |
||
[[Category:19世紀日本の教育者]] |
|||
[[Category:20世紀日本の教育者]] |
|||
[[Category:19世紀日本のノンフィクション作家]] |
|||
[[Category:20世紀日本のノンフィクション作家]] |
|||
[[Category:四日市市長]] |
[[Category:四日市市長]] |
||
[[Category: |
[[Category:下谷区長]] |
||
[[Category: |
[[Category:東京都庁職員]] |
||
[[Category:日本の中等教育の教員]] |
[[Category:日本の中等教育の教員]] |
||
[[Category: |
[[Category:日本の師範学校の教員]] |
||
[[Category:東京高等師範学校の教員]] |
|||
[[Category:弘前大学の教員]] |
|||
[[Category:東京高等師範学校出身の人物]] |
|||
[[Category:早稲田大学出身の人物]] |
|||
[[Category:京都師範学校出身の人物]] |
|||
[[Category:京都府出身の人物]] |
[[Category:京都府出身の人物]] |
||
[[Category:幕末丹後田辺藩の人物]] |
[[Category:幕末丹後田辺藩の人物]] |
2024年3月1日 (金) 02:39時点における最新版
戸野 周二郎(との しゅうじろう、1867年1月15日(慶応2年12月10日[1])– 1955年(昭和30年)[2])は、日本の教育者。三重県四日市市長。
経歴
[編集]丹後田辺藩儒戸野周太郎の二男として舞鶴に生まれる[1]。京都府師範学校を卒業後、東京専門学校(現在の早稲田大学)を経て、1891年(明治24年)に東京高等師範学校文科を卒業[1]。青森県師範学校校長、長野県視学、東京高等師範学校を歴任した[1]。1902年(明治35年)、湖北師範学堂に総教習・学務顧問として招かれ、清に渡った[1]。1904年(明治37年)に帰国した後は東京市教育課長に任じられた[1]。1914年(大正3年)からは下谷区長を務め[1]、1919年(大正8年)には東京市助役に就任した[3]。
1925年(大正14年)に四日市市長に選出され、1933年(昭和8年)まで在任した。
家族
[編集]- 妻・戸野みちゑ(1870-1944)- 教育者。
著書
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 原田道寛『大正名家録』二六社編纂局、1915年。
公職 | ||
---|---|---|
先代 朝夷六郎 青森県尋常師範学校長 |
青森県師範学校長 1898年 - 1899年 青森県尋常師範学校長 1898年 |
次代 小林盈 |
その他の役職 | ||
先代 正木直太郎 |
信濃教育会会長 1900年 - 1902年 |
次代 原竜豊 |