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| 父母 = 父:[[正親町三条公秀]]、母:[[藤原家相]]娘か
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'''正親町三条 実継'''(おおぎまちさんじょう さねつぐ)は、[[鎌倉時代]]後期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]にかけての[[公卿]]。[[内大臣]]・[[正親町三条公秀]]の子。母は不詳とされてきたが<ref>『尊卑分脈』では兄弟姉妹の中では実音だけに母の名が記述されている。</ref>後述のように弟・[[正親町三条実音|実音]]の母と同一人物ではないかと推測できる。[[官位]]は[[従一位]]・[[内大臣]]。'''後八条'''と号す。
'''正親町三条 実継'''(おおぎまちさんじょう さねつぐ)は、[[鎌倉時代]]後期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]にかけての[[公卿]]。[[内大臣]]・[[正親町三条公秀]]の子。母は不詳とされてきたが<ref>『尊卑分脈』では兄弟姉妹の中では実音だけに母の名が記述されている。</ref>後述のように弟・[[正親町三条実音|実音]]の母と同一人物ではないかと推測できる。[[官位]]は[[従一位]]・[[内大臣]]。'''後八条'''と号す。


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以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
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[[正和]]3年([[1314年]])1月5日、[[叙爵]]<ref>叙爵時の初名は実世であった。</ref>。正和4年([[1315年]])3月22日、従五位上に昇叙<ref>この時に実継と改名。</ref>。[[文保]]2年([[1318年]]1月5日、正五位下に昇叙。同年11月21日、従四位下に昇叙。[[嘉暦]]2年([[1327年]])2月23日、[[侍従]]に任ぜられる。嘉暦4年([[1329年]])1月5日、従四位上に昇叙。同年9月26日、[[近衛府|右少将]]に任ぜられる。[[元徳]]2年([[1330年]])1月5日、正四位下に昇叙。同月13日には右中将に転任。[[元弘]]元年([[1331年]])12月1日、[[蔵人頭]]に補される。同月20日、正四位上に昇叙。
*[[正和]]3年([[1314年]])1月5日、[[叙爵]]<ref>叙爵時の初名は実世であった。</ref>。
*正和4年([[1315年]])3月22日、[[従五位]]上に昇叙<ref>この時に実継と改名。</ref>。
*[[文保]]2年([[1318年]]1月5日、[[正五位]]下に昇叙。同年11月21日、[[従四位]]下に昇叙。
*[[嘉暦]]2年([[1327年]])2月23日、[[侍従]]に任ぜられる。
*嘉暦4年([[1329年]])1月5日、従四位上に昇叙。同年9月26日、[[近衛府|右少将]]に任ぜられる。
*[[元徳]]2年([[1330年]])1月5日、[[正四位]]下に昇叙。同月13日には[[右中将]]に転任。
*[[元弘]]元年([[1331年]])12月1日、[[蔵人頭]]に補される。同月20日、正四位上に昇叙。
*[[正慶]]元年/元弘2年([[1332年]])3月12日、備中守を兼ねる。同年10月21日、[[参議]]に任ぜられる。

[[正慶]]元年/元弘2年([[1332年]])3月12日、備中守を兼ねる。同年10月21日、[[参議]]に任ぜられる。正慶2年/元弘3年([[1333年]])1月6日、[[従三位]]に叙されるが、6月には参議を停止され右中将に戻される。11月29日、近江介を兼ねる。[[建武 (日本)|建武]]4年([[1337年]])3月29日、蔵人頭に補される。[[暦応]]元年([[1338年]])12月19日、参議に任ぜられる。暦応2年([[1339年]])1月5日、[[従三位]]に叙される。暦応5年([[1342年]])3月30日、[[中納言|権中納言]]に任ぜられる。[[康永]]2年([[1343年]])1月5日、正三位に叙される。4月12日、[[兵衛府|左兵衛督]]を兼ねるが同月23日に督を辞任。5月12日、右兵衛督を兼ねる。康永3年[[1344年]])9月23日、[[衛門府|右衛門督]]を兼ねる。[[貞和]]2年([[1346年]])12月29日、[[検非違使|検非違使別当]]に補される。貞和3年([[1347年]])11月16日、左衛門督に転任。同月27日には従二位に昇叙。
*正慶2年/元弘3年([[1333年]])1月6日、[[従三位]]に叙されるが、6月には参議を停止され右中将に戻される。11月29日、近江介を兼ねる。
*[[建武 (日本)|建武]]4年([[1337年]])3月29日、蔵人頭に補される。
*[[暦応]]元年([[1338年]])12月19日、参議に任ぜられる。
*暦応2年([[1339年]])1月5日、[[従三位]]に叙される。
*暦応5年([[1342年]])3月30日、[[中納言|権中納言]]に任ぜられる。
*[[康永]]2年([[1343年]])1月5日、[[正三位]]に叙される。4月12日、[[兵衛府|左兵衛督]]を兼ねるが同月23日に督を辞任。5月12日、右兵衛督を兼ねる。
*康永3年[[1344年]])9月23日、[[衛門府|右衛門督]]を兼ねる。
*[[貞和]]2年([[1346年]])12月29日、[[検非違使|検非違使別当]]に補される。
*貞和3年([[1347年]])11月16日、[[左衛門督]]に転任。同月27日には[[従二位]]に昇叙。
*貞和5年([[1349年]])1月15日、[[中納言]]に転正。9月13日、さらに[[大納言|権大納言]]に昇進。

*[[文和]]2年([[1353年]])12月29日、[[按察使 (日本)|按察使]]を兼ねる。
貞和5年([[1349年]])1月15日、[[中納言]]に転正。9月13日、さらに[[大納言|権大納言]]に昇進。[[文和]]2年([[1353年]])12月29日、[[按察使]]を兼ねる。文和3年([[1354年]])11月16日、[[内膳司|内膳司別当]]に補される。文和4年([[1355年]])12月8日、正二位に昇叙。[[延文]]5年([[1360年]])12月28日、母の喪に服す<ref>同時に弟の実音も母の喪に服しているため、実継と実音の母は同一人物ではないかと推測できる。さらに姉の秀子も同母姉妹なのではないかと考えられる。</ref>。[[康安]]元年([[1361年]])5月14日、復任する<ref>同日、弟の実音も復任している。</ref>。[[貞治]]2年([[1363年]])8月2日、父の喪に服す。同年11月18日には復任した。
*文和3年([[1354年]])11月16日、[[内膳司|内膳司別当]]に補される。

*文和4年([[1355年]])12月8日、[[正二位]]に昇叙。
貞治4年([[1365年]])12月30日、権大納言を辞した<ref>按察使はそのまま。なお、息男の[[正親町三条公豊|公豊]]を代わりに権大納言に任じるための辞任である。</ref>。貞治5年([[1366年]])2月3日、[[本座]]を許される。貞治6年([[1367年]])9月29日、内大臣に任ぜられる。[[応安]]3年([[1370年]])3月16日、内大臣を辞退
*[[延文]]5年([[1360年]])12月28日、母の喪に服す<ref>同時に弟の実音も母の喪に服しているため、実継と実音の母は同一人物ではないかと推測できる。さらに姉の秀子も同母姉妹なのではないかと考えられる。</ref>。

4年([[1371年]])5月5日、従一位に叙され。[[至徳 (本)|至徳]]4年([[1387年]])出家[[嘉慶 (日本)|嘉慶]]2年([[1388年]])6月24日、薨去
*[[康]]元年([[1361年]])5月14日、復任す<ref>同日、弟の実音も復任ている</ref>
*[[貞治]]2年([[1363年]])8月2日、父の喪に服す。同年11月18日には復任した。
*貞治4年([[1365年]])12月30日、権大納言を辞した<ref>按察使はそのまま。なお、息男の[[正親町三条公豊|公豊]]を代わりに権大納言に任じるための辞任である。</ref>。
*貞治5年([[1366年]])2月3日、本座を許される。
*貞治6年([[1367年]])9月29日、[[内大臣]]に任ぜられる。
*[[応安]]3年([[1370年]])3月16日、内大臣を辞退。
*応安4年([[1371年]])5月5日、[[従一位]]に叙される。
*[[至徳 (日本)|至徳]]4年([[1387年]])、出家した。
*[[嘉慶 (日本)|嘉慶]]2年([[1388年]])6月24日、薨去。


== 家格の確立 ==
== 家格の確立 ==
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== 系譜 ==
== 系譜 ==
*父:[[正親町三条公秀]]
*父:[[正親町三条公秀]]
*母:[[藤原家相]]娘か
*母:藤原家相娘か
*妻:[[三条公明]]娘
*妻:[[三条公明]]
**男子:[[正親町三条公豊]]
**男子:[[正親町三条公豊]]
**男子:[[三条西公時]]
**男子:[[三条西公時]]
*生母不明の子女
*生母不明の子女
**女子:行子 - [[二条師良]]正室
**女子:[[正親町三条行子|行子]] - [[二条師良]]正室
*養子
*養子
**女子:左京大夫局 - 伯耆局。[[後光厳天皇]]宮人。法印[[長快]]の娘。後光厳天皇の第十一皇子[[聖助法親王]]の母。
**女子:左京大夫局 - 伯耆局。[[後光厳天皇]]宮人。法印[[長快]]の娘。後光厳天皇の第十一皇子[[聖助法親王]]の母。
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*『[[公卿補任]]』(新訂増補国史大系[[吉川弘文館]] [[黒板勝美]]、国史大系編集会(編) [[暦応]]元年/延元3年([[1338年]])に実継が[[参議]]となった時以降の記事。
* 『[[公卿補任]]』 [[黒板勝美]]・国史大系編修会 編、[[吉川弘文館]][[新訂増補国史大系]]〉。 ※[[暦応]]元年/延元3年([[1338年]])に実継が[[参議]]となった時以降の記事。
*『[[尊卑分脈]]』(新訂増補国史大系吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※「正親町三条実継」および「[[正親町三条実音]]」の項。
* 『[[尊卑分脈]]』 黒板勝美・国史大系編修会 編、吉川弘文館〈新訂増補国史大系〉。 ※「正親町三条実継」および「[[正親町三条実音]]」の項。
*[[飯倉晴武]]『地獄を二度も見た天皇 光厳院』、吉川弘文館
* [[飯倉晴武]]『地獄を二度も見た天皇 光厳院』、[[吉川弘文館]]〈歴史文化ライブラリー〉、2002年。


{{正親町三条家当主}}
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2024年3月7日 (木) 11:31時点における最新版

 
正親町三条実継
時代 鎌倉時代後期 - 南北朝時代
生誕 正和2年(1313年
死没 嘉慶2年6月24日(1388年7月27日
別名 号:後八条
官位 従一位内大臣按察使
主君 後伏見上皇花園天皇後醍醐天皇光厳天皇光明天皇後光厳天皇後円融天皇後小松天皇
氏族 正親町三条家
父母 父:正親町三条公秀、母:藤原家相の娘か
兄弟 秀子実継実音実数
四辻実郷[1]融観了空
三条公明の娘
公豊三条西公時行子
養子:左京大夫局
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正親町三条 実継(おおぎまちさんじょう さねつぐ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿内大臣正親町三条公秀の子。母は不詳とされてきたが[2]後述のように弟・実音の母と同一人物ではないかと推測できる。官位従一位内大臣後八条と号す。

経歴[編集]

以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。

家格の確立[編集]

姉・秀子が持明院統の外戚となったことから父・公秀は内大臣に任ぜられた。実継は内大臣在任期間も長く、内大臣在任時には弟実音と息男公豊が権大納言に在任している。さらに、実継は内大臣を辞してから正親町三条家の出身では初めて従一位に叙せられた。これらのことから、実継の代に内大臣に昇進できる家格が確立されたと考えられる。持明院統に一貫して忠節を尽くしてきたことに対して任内大臣、兄弟そろっての従一位叙位という処遇がなされたと見ることができる。

系譜[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 四辻季顕の母
  2. ^ 『尊卑分脈』では兄弟姉妹の中では実音だけに母の名が記述されている。
  3. ^ 叙爵時の初名は実世であった。
  4. ^ この時に実継と改名。
  5. ^ 同時に弟の実音も母の喪に服しているため、実継と実音の母は同一人物ではないかと推測できる。さらに姉の秀子も同母姉妹なのではないかと考えられる。
  6. ^ 同日、弟の実音も復任している。
  7. ^ 按察使はそのまま。なお、息男の公豊を代わりに権大納言に任じるための辞任である。

参考文献[編集]