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「長田千鶴子」の版間の差分

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'''長田 千鶴子'''(おさだ ちずこ、[[1942年]][[5月6日]] - )は、[[日本映画]]の[[編集技師]]。[[福岡県]]出身。
'''長田 千鶴子'''(おさだ ちずこ、[[1942年]][[5月6日]] - )は、[[日本映画]]の[[編集技師]]。[[福岡県]]出身。[[市川崑]]の懐刀として知られる編集者<ref name=kimata>[http://www.eiganokuni.com/kimata/53-3.html コラム『日本映画の玉(ギョク)』 鈴木英夫<その14>『九尾の狐と飛丸』をめぐって(前篇)]木全公彦、 映画の國</ref>


== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[1966年]]に[[中島源太郎]]の秘書を務め、[[1968年]]に大映テレビ部(現・[[大映テレビ]])の編集助手として入社。
高校卒業後、母親の知り合いだった[[中島源太郎]]のアニメ制作会社「[[日本動画]]」に[[1966年]]に入って中島の秘書を務め、[[1968年]]に大映テレビ部(現・[[大映テレビ]])の編集助手として入社。


[[1973年]]、『[[追跡 (1973年のテレビドラマ)|市川崑シリーズ・追跡]]』([[関西テレビ放送]])で編集技師となり、[[1975年]]の『[[吾輩は猫である (映画)#1975年版|吾輩は猫である]]』が初の映画編集者としての作品<ref>{{Cite web|url=http://cinemaga.nihon-eiga.com/recommends/vol-009/|title=今回の映画人 編集技師 長田千鶴子|work=日映シネマガ|publisher=日本映画放送|accessdate=2016-07-19}}</ref>。以来、亡くなるまで[[市川崑]]が監督した作品の編集を担当した。
[[1973年]]、『[[追跡 (1973年のテレビドラマ)|市川崑シリーズ・追跡]]』([[関西テレビ放送]])で編集技師となり、[[1975年]]の『[[吾輩は猫である (映画)#1975年版|吾輩は猫である]]』が初の映画編集者としての作品<ref>{{Cite web|url=http://cinemaga.nihon-eiga.com/recommends/vol-009/|title=今回の映画人 編集技師 長田千鶴子|work=日映シネマガ|publisher=日本映画放送|accessdate=2016-07-19}}</ref>。以来、亡くなるまで[[市川崑]]が監督した作品の編集を担当した。

2022年5月6日 (金) 00:22時点における版

おさだ ちずこ
長田 千鶴子
生年月日 (1942-05-06) 1942年5月6日(82歳)
出生地 福岡県
職業 編集技師
ジャンル 映画テレビドラマ
活動期間 1973年 - 現在
活動内容 主に市川崑監督作品の編集技師として活動
 
受賞
日本アカデミー賞
第18回最優秀編集賞(『四十七人の刺客』)
第21回最優秀編集賞(『誘拐』)
その他の賞
平成20年度(第6回)文化庁映画賞 映画功労部門
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長田 千鶴子(おさだ ちずこ、1942年5月6日 - )は、日本映画編集技師福岡県出身。市川崑の懐刀として知られる編集者[1]

経歴

高校卒業後、母親の知り合いだった中島源太郎のアニメ制作会社「日本動画」に1966年に入って中島の秘書を務め、1968年に大映テレビ部(現・大映テレビ)の編集助手として入社。

1973年、『市川崑シリーズ・追跡』(関西テレビ放送)で編集技師となり、1975年の『吾輩は猫である』が初の映画編集者としての作品[2]。以来、亡くなるまで市川崑が監督した作品の編集を担当した。

作品

受賞歴

出典・参考文献

脚注

  1. ^ コラム『日本映画の玉(ギョク)』 鈴木英夫<その14>『九尾の狐と飛丸』をめぐって(前篇)木全公彦、 映画の國
  2. ^ 今回の映画人 編集技師 長田千鶴子”. 日映シネマガ. 日本映画放送. 2016年7月19日閲覧。
  3. ^ 「第5回文化庁映画週間 - Here&There」について” (PDF). 文化庁 (2008年9月18日). 2016年7月19日閲覧。

外部リンク