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「酒井忠清」の版間の差分

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'''酒井忠清'''('''さかい ただきよ'''、[[寛永]]元年10月19日([[1624年]]) - [[天和 (元号)|天和]]元年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]([[1681年]][[7月4日]]))は[[江戸時代]]の[[上野国]][[厩橋藩]]主、幕府[[大老]]である。4代将軍[[徳川家綱]]の治世に[[大老]]として権力を振るった。父は[[酒井忠行]]、母は[[松平定勝]]([[徳川家康]]の異父同母弟)の娘。家康・[[徳川秀忠|秀忠]]・[[徳川家光|家光]]の3代に仕えた[[酒井忠世]]の孫。正室は[[松平定綱]]の娘。子に[[酒井忠邦]]ほか。名は与四郎。屋敷が[[江戸城]][[大手門]]下馬札付近にあり、'''下馬将軍'''と俗称された。官位は従四位下左近衛権少将雅楽頭。
'''酒井忠清'''('''さかい ただきよ'''、[[寛永]]元年[[10月19日 (旧暦)|10月19日]]([[1624年]][[11月29日]]) - [[天和 (元号)|天和]]元年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]([[1681年]][[7月4日]]))は[[江戸時代]]の[[上野国]][[厩橋藩]]主、幕府[[大老]]である。4代将軍[[徳川家綱]]の治世に[[大老]]として権力を振るった。父は[[酒井忠行]]、母は[[松平定勝]]([[徳川家康]]の異父同母弟)の娘。家康・[[徳川秀忠|秀忠]]・[[徳川家光|家光]]の3代に仕えた[[酒井忠世]]の孫。正室は[[松平定綱]]の娘。子に[[酒井忠邦]]ほか。名は与四郎。屋敷が[[江戸城]][[大手門]]下馬札付近にあり、'''下馬将軍'''と俗称された。官位は従四位下左近衛権少将雅楽頭。


1653年([[承応]]2)に[[老中]]、[[榊原忠次]]の死後の1666年([[寛文]]6)に大老に就任する。[[保科正之]]や[[阿部忠秋]]が没すると権力が集中し、将軍家綱を補佐して[[殉死]]禁止令や、[[伊達騒動]]や[[越後騒動]]などに対処する。1680年(延宝8)の家綱の死去にあたって、鎌倉時代の例に倣って[[有栖川幸仁親王]]を[[宮将軍]]として擁立しようと画策して[[堀田正俊]]などに反対される。これは、家綱の弟の[[徳川綱吉]]の資質に疑問を持ったため、または家綱の側室が懐妊中で、出産までの時間稼ぎをしようとしたためとされる。綱吉が将軍に就任すると辞任し、忠清の側近たちも失脚する。1681年に死去、享年58。
1653年([[承応]]2)に[[老中]]、[[榊原忠次]]の死後の1666年([[寛文]]6)に大老に就任する。[[保科正之]]や[[阿部忠秋]]が没すると権力が集中し、将軍家綱を補佐して[[殉死]]禁止令や、[[伊達騒動]]や[[越後騒動]]などに対処する。1680年(延宝8)の家綱の死去にあたって、鎌倉時代の例に倣って[[有栖川幸仁親王]]を[[宮将軍]]として擁立しようと画策して[[堀田正俊]]などに反対される。これは、家綱の弟の[[徳川綱吉]]の資質に疑問を持ったため、または家綱の側室が懐妊中で、出産までの時間稼ぎをしようとしたためとされる。綱吉が将軍に就任すると辞任し、忠清の側近たちも失脚する。1681年に死去、享年58。
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2005年5月21日 (土) 15:42時点における版

酒井忠清(さかい ただきよ寛永元年10月19日1624年11月29日) - 天和元年5月19日1681年7月4日))は江戸時代上野国厩橋藩主、幕府大老である。4代将軍徳川家綱の治世に大老として権力を振るった。父は酒井忠行、母は松平定勝徳川家康の異父同母弟)の娘。家康・秀忠家光の3代に仕えた酒井忠世の孫。正室は松平定綱の娘。子に酒井忠邦ほか。名は与四郎。屋敷が江戸城大手門下馬札付近にあり、下馬将軍と俗称された。官位は従四位下、左近衛権少将、雅楽頭。

1653年(承応2)に老中榊原忠次の死後の1666年(寛文6)に大老に就任する。保科正之阿部忠秋が没すると権力が集中し、将軍家綱を補佐して殉死禁止令や、伊達騒動越後騒動などに対処する。1680年(延宝8)の家綱の死去にあたって、鎌倉時代の例に倣って有栖川幸仁親王宮将軍として擁立しようと画策して堀田正俊などに反対される。これは、家綱の弟の徳川綱吉の資質に疑問を持ったため、または家綱の側室が懐妊中で、出産までの時間稼ぎをしようとしたためとされる。綱吉が将軍に就任すると辞任し、忠清の側近たちも失脚する。1681年に死去、享年58。

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