コンテンツにスキップ

「酒井忠氏」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
2行目: 2行目:


== 人物==
== 人物==


[[旗本]]・[[酒井忠欽]]の四男。正室は[[酒井忠義 (若狭国小浜藩主)|酒井忠義]]の次女。官位は従五位下、従四位下、修理大夫。若狭守。
[[旗本]]・[[酒井忠欽]]の四男。正室は[[酒井忠義 (若狭国小浜藩主)|酒井忠義]]の次女。官位は従五位下、従四位下、修理大夫。若狭守。


== 経歴 ==
== 経歴 ==


天保6年(1835年)正月14日生まれ。幼名は晴蔵。修理。[[嘉永]]6年([[1853年]])5月7日、先代藩主の酒井忠義の養嗣子となる。[[安政]]4年([[1857年]])12月に叙任し、[[文久]]元年([[1861年]])12月には従四位下に叙任する。文久2年([[1862年]])閏8月1日、忠義がかつて[[安政の大獄]]で[[井伊直弼]]と共に[[尊王攘夷]]派や一橋派を弾圧したことを咎められて強制隠居処分に処せられたため、その後を継ぐこととなった。[[幕末]]期の動乱の中では[[佐幕派]]として行動し、[[天狗党の乱]]鎮圧などで功績を挙げている。[[慶応]]4年([[1868年]])の[[戊辰戦争]]においても、[[鳥羽・伏見の戦い]]で幕府軍について新政府軍と戦ったが、敗れて新政府軍に降伏することを余儀なくされた。
天保6年(1835年)正月14日生まれ。幼名は晴蔵。修理。[[嘉永]]6年([[1853年]])5月7日、先代藩主の酒井忠義の養嗣子となる。[[安政]]4年([[1857年]])12月に叙任し、[[文久]]元年([[1861年]])12月には従四位下に叙任する。文久2年([[1862年]])閏8月1日、忠義がかつて[[安政の大獄]]で[[井伊直弼]]と共に[[尊王攘夷]]派や一橋派を弾圧したことを咎められて強制隠居処分に処せられたため、その後を継ぐこととなった。[[幕末]]期の動乱の中では[[佐幕派]]として行動し、[[天狗党の乱]]鎮圧などで功績を挙げている。[[慶応]]4年([[1868年]])の[[戊辰戦争]]においても、[[鳥羽・伏見の戦い]]で幕府軍について新政府軍と戦ったが、敗れて新政府軍に降伏することを余儀なくされた。


同年6月、家臣団の一部がなおも幕府側の[[彰義隊]]に与したことを咎められて、謹慎処分に処せられた。後に罪を許されたが、同年12月に病を理由に家督を忠録(酒井忠義)に譲って隠居した。明治9年(1876年)正月21日、42歳で死去。法号桓盛院殿賢質英量大居士。墓所[[福井県]][[小浜市]]男山の空印寺。
同年6月、家臣団の一部がなおも幕府側の[[彰義隊]]に与したことを咎められて、謹慎処分に処せられた。後に罪を許されたが、同年12月に病を理由に家督を忠録(酒井忠義)に譲って隠居した。明治9年(1876年)正月21日、42歳で死去。法号桓盛院殿賢質英量大居士。墓所[[福井県]][[小浜市]]男山の空印寺。



{{小浜藩主|酒井氏|13代|1862-1868}}
{{小浜藩主|酒井氏|13代|1862- 1868}}


{{デフォルトソート:さかい たたうし}}
[[Category:酒井氏|たたうし]]
[[Category:酒井氏|たたうし]]
[[Category:江戸の大名|さかい たたうし]]
[[Category:江戸の大名]]
[[Category:譜代大名|さかいたたうし]]
[[Category:譜代大名]]
[[Category:江戸幕府寺社奉行|さかいたたうし]]
[[Category:江戸幕府寺社奉行]]
[[Category:幕末の人物|さかいたたうし]]
[[Category:幕末の大名]]
[[Category:1835年生|さかいたたうし]]
[[Category:1835年生]]
[[Category:1876年没|さかいたたうし]]
[[Category:1876年没]]

2010年11月3日 (水) 05:04時点における版

酒井 忠氏(さかい ただうじ、天保6年1月14日1835年2月11日) - 明治9年(1876年1月21日))は、若狭小浜藩の第13代藩主。小浜藩酒井家14代。

人物

旗本酒井忠欽の四男。正室は酒井忠義の次女。官位は従五位下、従四位下、修理大夫。若狭守。

経歴

天保6年(1835年)正月14日生まれ。幼名は晴蔵。修理。嘉永6年(1853年)5月7日、先代藩主の酒井忠義の養嗣子となる。安政4年(1857年)12月に叙任し、文久元年(1861年)12月には従四位下に叙任する。文久2年(1862年)閏8月1日、忠義がかつて安政の大獄井伊直弼と共に尊王攘夷派や一橋派を弾圧したことを咎められて強制隠居処分に処せられたため、その後を継ぐこととなった。幕末期の動乱の中では佐幕派として行動し、天狗党の乱鎮圧などで功績を挙げている。慶応4年(1868年)の戊辰戦争においても、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍について新政府軍と戦ったが、敗れて新政府軍に降伏することを余儀なくされた。

同年6月、家臣団の一部がなおも幕府側の彰義隊に与したことを咎められて、謹慎処分に処せられた。後に罪を許されたが、同年12月に病を理由に家督を忠録(酒井忠義)に譲って隠居した。明治9年(1876年)正月21日、42歳で死去。法号は桓盛院殿賢質英量大居士。墓所は福井県小浜市男山の空印寺。