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'''酒井 忠氏'''('''さかい ただうじ'''、、[[天保]]6年[[1月14日 (旧暦)|1月14日]]([[1835年]][[2月11日]]) - [[明治]]9年([[1864年]][[1月21日]]))は、[[若狭]][[小浜藩]]の第13代藩主。父は[[酒井忠欽]](忠氏は三男)。正室は[[酒井忠義]]の次女。官位は従五位下、従四位下、修理大夫。若狭守。
'''酒井 忠氏'''('''さかい ただうじ'''、、[[天保]]6年[[1月14日 (旧暦)|1月14日]]([[1835年]][[2月11日]]) - [[明治]]9年([[1876年]][[1月21日]]))は、[[若狭]][[小浜藩]]の第13代藩主。父は[[酒井忠欽]](忠氏は三男)。正室は[[酒井忠義]]の次女。官位は従五位下、従四位下、修理大夫。若狭守。


1835年正月14日生まれ。幼名は晴蔵。修理。[[1853年]]5月7日、先代藩主の[[酒井忠義]]の養嗣子となる。[[1857年]]12月に叙任し、[[1861年]]12月には従四位下を叙任する。[[1862年]]閏8月1日、忠義がかつて[[安政の大獄]]で[[井伊直弼]]と共に[[尊王攘夷]]派や一橋派を弾圧したことを咎められて強制隠居処分に処せられたため、その後を継ぐこととなった。[[幕末]]期の動乱の中では[[佐幕派]]として行動し、天狗党の乱鎮圧などで功績を挙げている。[[1868年]]の[[戊辰戦争]]においても、[[鳥羽・伏見の戦い]]で幕府軍について新政府軍と戦ったが、敗れて新政府軍に降伏することを余儀なくされた。
1835年正月14日生まれ。幼名は晴蔵。修理。[[1853年]]5月7日、先代藩主の[[酒井忠義]]の養嗣子となる。[[1857年]]12月に叙任し、[[1861年]]12月には従四位下を叙任する。[[1862年]]閏8月1日、忠義がかつて[[安政の大獄]]で[[井伊直弼]]と共に[[尊王攘夷]]派や一橋派を弾圧したことを咎められて強制隠居処分に処せられたため、その後を継ぐこととなった。[[幕末]]期の動乱の中では[[佐幕派]]として行動し、天狗党の乱鎮圧などで功績を挙げている。[[1868年]]の[[戊辰戦争]]においても、[[鳥羽・伏見の戦い]]で幕府軍について新政府軍と戦ったが、敗れて新政府軍に降伏することを余儀なくされた。

2005年12月31日 (土) 14:22時点における版

酒井 忠氏さかい ただうじ、、天保6年1月14日1835年2月11日) - 明治9年(1876年1月21日))は、若狭小浜藩の第13代藩主。父は酒井忠欽(忠氏は三男)。正室は酒井忠義の次女。官位は従五位下、従四位下、修理大夫。若狭守。

1835年正月14日生まれ。幼名は晴蔵。修理。1853年5月7日、先代藩主の酒井忠義の養嗣子となる。1857年12月に叙任し、1861年12月には従四位下を叙任する。1862年閏8月1日、忠義がかつて安政の大獄井伊直弼と共に尊王攘夷派や一橋派を弾圧したことを咎められて強制隠居処分に処せられたため、その後を継ぐこととなった。幕末期の動乱の中では佐幕派として行動し、天狗党の乱鎮圧などで功績を挙げている。1868年戊辰戦争においても、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍について新政府軍と戦ったが、敗れて新政府軍に降伏することを余儀なくされた。

同年6月、家臣団の一部がなおも幕府側の彰義隊に与したことを咎められて、謹慎処分に処せられた。後に罪を許されたが、同年12月に病を理由に家督を忠録(酒井忠義)に譲って隠居した。1876年正月21日、42歳で死去。法号:桓盛院殿賢質英量大居士。墓所:小浜市男山の空印寺。