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'''高 士廉'''(こう しれん、[[576年]] - [[647年]]は、[[中国]]の[[隋]]から[[唐]]にかけての官僚・武将。名は倹。士廉は[[字]]であり、字をもって通称される。[[本貫]]は[[勃海郡|渤海郡]][[蓨県]]。唐の[[凌煙閣二十四功臣]]のひとりに挙げられた。[[北斉]]の清河王[[高岳 (北斉)|高岳]]の孫にあたる
'''高 士廉'''(こう しれん、[[武平 (北斉)|武平]]7年([[576年]] - [[貞観 (唐)|貞観]]21年[[1月5日 (旧暦)|1月5日]]([[647年]][[2月14日]]))は、[[中国]]の[[隋]]から[[唐]]にかけての官僚・武将。名は倹。士廉は[[字]]であり、字をもって通称される。[[本貫]]は[[勃海郡|渤海郡]][[蓨県]]。唐の[[凌煙閣二十四功臣]]のひとりに挙げられた。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
北斉期に楽安王[[高勱]]の子として生まれた。士廉は聡明で度量があり、顔かたちは昼のようであり、書をいちど見ると暗誦してしまったと伝えられる。隋の[[司隷]]大夫の[[薛道衡]]や起居舎人の崔祖濬らと交友して、名を知られた。北斉の[[宗室]]として、派手な交際を避け、終南山の下に寓居した。[[吏部]][[侍郎]]の高構の勧めにより出仕し、隋の[[仁寿 (隋)|仁寿]]年間に文才甲科に及第して、治礼郎に任じられた。妹は[[長孫晟]]に嫁ぎ、後に孤児となった甥の[[長孫無忌]]兄妹を引き取っている。[[斛斯政]]が[[高句麗]]に逃れると、交友があったためにその罪に連座して、[[交趾郡]]朱䳒県主簿に左遷された。ときに母が老いており、遠隔の地に連れて行くことができなかったので、妻の鮮于氏を残して母を世話させることとして赴任した。隋末の戦乱で[[長安]]との連絡が途絶えると、交趾郡[[太守]]の[[丘和]]に召されて司法書佐に任ぜられた。[[欽州 (古代)|欽州]]の俚帥の[[甯長真]]が兵を率いて交趾に侵入すると、士廉は行軍司馬となって、迎撃してこれを破った。
[[北斉]]、清河王[[高岳 (北斉)|高岳]]の孫であると楽安王[[高勱]]の子として生まれた。士廉は聡明で度量があり、顔かたちは昼のようであり、書をいちど見ると暗誦してしまったと伝えられる。隋の[[司隷]]大夫の[[薛道衡]]や起居舎人の崔祖濬らと交友して、名を知られた。北斉の[[宗室]]として、派手な交際を避け、終南山の下に寓居した。[[吏部]][[侍郎]]の高構の勧めにより出仕し、隋の[[仁寿 (隋)|仁寿]]年間に文才甲科に及第して、治礼郎に任じられた。妹は[[長孫晟]]に嫁ぎ、後に孤児となった甥の[[長孫無忌]]兄妹を引き取っている。[[斛斯政]]が[[高句麗]]に逃れると、交友があったためにその罪に連座して、[[交趾郡]]朱䳒県主簿に左遷された。ときに母が老いており、遠隔の地に連れて行くことができなかったので、妻の鮮于氏を残して母を世話させることとして赴任した。


[[李淵]]が[[嶺南 (中国)|嶺南]]に遣使すると、[[622年]]に士廉は丘和とともに唐に降り、秦王[[太宗 (唐)|李世民]]の下で治中となり、重用された。[[626年]]、李世民が[[皇太子]][[李建成]]と争うと、士廉は長孫無忌とともに李建成を討つ計画を定めた。[[玄武門の変]]の当日は士廉は囚人を釈放してかぶとを着せ、芳林門に向かって李世民の援軍として戦った。李世民が皇太子となると、太子右庶子に任じられた。[[627年]]、[[侍中]]に進み、義興郡公に封ぜられた。[[王珪]]をかくまって奏上しなかったため、[[安州 (湖北省)|安州]][[都督]]に左遷された。
隋末の戦乱で[[長安]]との連絡が途絶えると、交趾郡[[太守]]の[[丘和]]に召されて司法書佐に任ぜられた。[[欽州 (古代)|欽州]]の俚帥の[[甯長真]]が兵を率いて交趾に侵入すると、士廉は行軍司馬となって、迎撃してこれを破った。
[[李淵]]が[[嶺南 (中国)|嶺南]]に遣使すると、[[武徳]]5年([[622年]]に士廉は丘和とともに唐に降り、秦王[[太宗 (唐)|李世民]]の下で治中となり、重用された。武徳9年([[626年]]、李世民が[[皇太子]][[李建成]]と争うと、士廉は長孫無忌とともに李建成を討つ計画を定めた。[[玄武門の変]]の当日は士廉は囚人を釈放してかぶとを着せ、芳林門に向かって李世民の援軍として戦った。李世民が皇太子となると、太子右庶子に任じられた。[[627年]]、[[侍中]]に進み、義興郡公に封ぜられた。[[王珪]]をかくまって奏上しなかったため、[[安州 (湖北省)|安州]][[都督]]に左遷された。


[[益州]]大都督府長史に進んだ。士廉は益州の地で学校を復興し、灌漑のための水道を広げ、現地の風俗を一変させた。
[[益州]]大都督府長史に進んだ。士廉は益州の地で学校を復興し、灌漑のための水道を広げ、現地の風俗を一変させた。


[[631年]]、長安に召還されて吏部尚書となり、許国公に進封された。[[635年]]、[[司空]]に進んだ。特進・上柱国の位を加えられた。[[638年]]、申国公となり、[[尚書省|尚書]][[右僕射]]に転じた。
貞観5年([[631年]]、長安に召還されて吏部尚書となり、許国公に進封された。貞観9年([[635年]]、[[司空]]に進んだ。特進・上柱国の位を加えられた。貞観12年([[638年]]、申国公となり、[[尚書省|尚書]][[右僕射]]に転じた。

太宗李世民が[[洛陽]]に行幸すると、皇太子の[[李承乾]]が監国となり、士廉は太子少師として補佐するよう命じられた。貞観16年([[642年]])、隠退を望んで請願したが、僕射の任を解かれたのみで、開府儀同三司・同中書門下三品に任じられて、政治の権限を残された。貞観18年([[644年]])、太宗が高句麗を攻撃すると、皇太子[[高宗 (唐)|李治]]が監国として[[定州]]に駐留し、士廉は[[太傅]]として補佐した。貞観20年([[646年]])、長安に帰還する途中、[[并州]]で病に倒れた。


太宗李世民が[[洛陽]]に行幸すると、皇太子の[[李承乾]]が監国となり、士廉は太子少師として補佐するよう命じられた。[[642]]、隠退を望んで請願したが、僕射の任を解かれたのみで、開府儀同三司・同中書門下三品に任じられて、政治の権限を残された。[[644]]、太宗が高句麗を攻撃すると、皇太子[[高宗 (唐)|李治]]が監国として[[定州]]に駐留し、士廉は[[太傅]]として補佐した。[[646年]]、長安に帰還する途中、[[并州]]で病に倒れた。[[647年]]、長安の崇仁里の私邸で世を去った。[[司徒]]・并州都督の位を追贈され、文献と[[諡]]され、[[昭陵 (唐)|昭陵]]に陪葬された。高宗李治が即位すると、[[太尉]]の位を加えられた。
貞観21(647)正月、長安の崇仁里の私邸で世を去った。[[司徒]]・并州都督の位を追贈され、文献と[[諡]]され、[[昭陵 (唐)|昭陵]]に陪葬された。高宗李治が即位すると、[[太尉]]の位を加えられた。


六子があり、高履行・高至行・高純行・高真行・高審行・高慎行が名を知られた。
六子があり、高履行・高至行・高純行・高真行・高審行・高慎行が名を知られた。

2021年12月16日 (木) 23:14時点における版

高 士廉(こう しれん、武平7年(576年) - 貞観21年1月5日647年2月14日))は、中国からにかけての官僚・武将。名は倹。士廉はであり、字をもって通称される。本貫渤海郡蓨県。唐の凌煙閣二十四功臣のひとりに挙げられた。

経歴

北斉末、清河王高岳の孫であると楽安王高勱の子として生まれた。士廉は聡明で度量があり、顔かたちは昼のようであり、書をいちど見ると暗誦してしまったと伝えられる。隋の司隷大夫の薛道衡や起居舎人の崔祖濬らと交友して、名を知られた。北斉の宗室として、派手な交際を避け、終南山の下に寓居した。吏部侍郎の高構の勧めにより出仕し、隋の仁寿年間に文才甲科に及第して、治礼郎に任じられた。妹は長孫晟に嫁ぎ、後に孤児となった甥の長孫無忌兄妹を引き取っている。斛斯政高句麗に逃れると、交友があったためにその罪に連座して、交趾郡朱䳒県主簿に左遷された。ときに母が老いており、遠隔の地に連れて行くことができなかったので、妻の鮮于氏を残して母を世話させることとして赴任した。

隋末の戦乱で長安との連絡が途絶えると、交趾郡太守丘和に召されて司法書佐に任ぜられた。欽州の俚帥の甯長真が兵を率いて交趾に侵入すると、士廉は行軍司馬となって、迎撃してこれを破った。

李淵嶺南に遣使すると、武徳5年(622年)に士廉は丘和とともに唐に降り、秦王李世民の下で治中となり、重用された。武徳9年(626年)、李世民が皇太子李建成と争うと、士廉は長孫無忌とともに李建成を討つ計画を定めた。玄武門の変の当日は士廉は囚人を釈放してかぶとを着せ、芳林門に向かって李世民の援軍として戦った。李世民が皇太子となると、太子右庶子に任じられた。627年侍中に進み、義興郡公に封ぜられた。王珪をかくまって奏上しなかったため、安州都督に左遷された。

益州大都督府長史に進んだ。士廉は益州の地で学校を復興し、灌漑のための水道を広げ、現地の風俗を一変させた。

貞観5年(631年)、長安に召還されて吏部尚書となり、許国公に進封された。貞観9年(635年)、司空に進んだ。特進・上柱国の位を加えられた。貞観12年(638年)、申国公となり、尚書右僕射に転じた。

太宗李世民が洛陽に行幸すると、皇太子の李承乾が監国となり、士廉は太子少師として補佐するよう命じられた。貞観16年(642年)、隠退を望んで請願したが、僕射の任を解かれたのみで、開府儀同三司・同中書門下三品に任じられて、政治の権限を残された。貞観18年(644年)、太宗が高句麗を攻撃すると、皇太子李治が監国として定州に駐留し、士廉は太傅として補佐した。貞観20年(646年)、長安に帰還する途中、并州で病に倒れた。

貞観21年(647年)正月、長安の崇仁里の私邸で世を去った。司徒・并州都督の位を追贈され、文献とされ、昭陵に陪葬された。高宗李治が即位すると、太尉の位を加えられた。

六子があり、高履行・高至行・高純行・高真行・高審行・高慎行が名を知られた。

伝記資料

  • 旧唐書』巻65 列伝第15「高士廉伝」
  • 新唐書』巻95 列伝第20「高士廉伝」