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'''高村 倉太郎'''(たかむら くらたろう、[[1921年]] [[4月6日]]- [[2005年]][[11月21日]])は、日本の映画[[撮影監督]]。[[日本映画撮影監督協会]]名誉会長。
'''高村 倉太郎'''(たかむら くらたろう、[[1921年]] [[4月6日]]- [[2005年]][[11月21日]])は、日本の映画[[撮影監督]]。[[日本映画撮影監督協会]]名誉会長。


== 来歴 ==
[[1939年]]、[[松竹]]大船撮影所文化映画部に撮影助手として入所。1948年、「恋愛三羽烏」([[中村登]]監督)の[[撮影監督]]に抜擢される。[[1954年]]、[[日活]]に移籍。以後も「[[俺は待ってるぜ]]」、「[[幕末太陽傳]]」、「[[ギターを持った渡り鳥]]」、「[[一杯のかけそば]]」など娯楽作品を中心に計約140本撮影。日本映画黄金期を支えた。
[[1939年]]、[[松竹]]大船撮影所文化映画部に撮影助手として入所。1948年、「恋愛三羽烏」([[中村登]]監督)の[[撮影監督]]に抜擢される。[[1954年]]、[[日活]]に移籍。以後も「[[俺は待ってるぜ]]」、「[[幕末太陽傳]]」、「[[ギターを持った渡り鳥]]」、「[[一杯のかけそば]]」など娯楽作品を中心に計約140本撮影。日本映画黄金期を支えた。


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*[[俺は待ってるぜ]](1957年)
*[[俺は待ってるぜ]](1957年)
*[[幕末太陽傳]](1957年)
*[[幕末太陽傳]](1957年)
* [[未練の波止場 (映画)|未練の波止場]] (1958年)
*[[錆びたナイフ]](1958年)
*[[錆びたナイフ]](1958年)
*[[渡り鳥シリーズ]]
*[[渡り鳥シリーズ]]
*[[錆びた鎖]] (1960年)
* [[東京の孤独]] (1959年)
* [[錆びた鎖]] (1960年)
* [[南海の狼火]](1960年)
*[[高原児]] (1961年)
*[[高原児]] (1961年)
*[[非行少女 (1963年の映画)|非行少女]] (1963年)
*[[非行少女 (1963年の映画)|非行少女]] (1963年)
* [[刺青一代]](1965年、日活)
* [[刺青一代]](1965年、日活)
* [[赤い谷間の決斗]](1965年)
*[[紅の流れ星]](1967年)
*[[紅の流れ星]](1967年)
*[[陽のあたる坂道 (小説)|陽のあたる坂道]](1967年)
*[[陽のあたる坂道 (小説)|陽のあたる坂道]](1967年)
* [[わが命の歌 艶歌|わが命の唄 艶歌]](1968年)
*[[前科 仮釈放]] (1969年)
*[[前科 仮釈放]] (1969年)
*[[スパルタ教育くたばれ親父]] (1970年)
*[[スパルタ教育くたばれ親父]] (1970年)

2022年11月26日 (土) 04:10時点における最新版

高村 倉太郎(たかむら くらたろう、1921年 4月6日- 2005年11月21日)は、日本の映画撮影監督日本映画撮影監督協会名誉会長。

来歴

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1939年松竹大船撮影所文化映画部に撮影助手として入所。1948年、「恋愛三羽烏」(中村登監督)の撮影監督に抜擢される。1954年日活に移籍。以後も「俺は待ってるぜ」、「幕末太陽傳」、「ギターを持った渡り鳥」、「一杯のかけそば」など娯楽作品を中心に計約140本撮影。日本映画黄金期を支えた。

日活がロマンポルノ路線に転じた後も、同社に留まり生涯を日活所属で貫いた。

日活芸術学院の学院長、専任講師を務めるなど後進の指導にも尽くした。

2005年11月21日、慢性心不全のため死去。享年84。

主な撮影作品

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劇場作品

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など

テレビ作品

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文献

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著書

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  • 世界映画大事典(監修=岩本憲児・高村倉太郎、編集=岩本憲児・奥村賢・佐崎順昭・宮澤誠一、日本図書センター、2008年7月)ISBN 978-4284200844