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'''高橋 和巳'''(たかはし かずみ、[[1931年]][[8月31日]] - [[1971年]][[5月3日]])は、[[日本]]の[[小説家]]で[[中国文学者#一覧(主に故人および高齢者)|中国文学者]]。小説家の[[高橋たか子]]は妻。[[中国文学者#一覧(主に故人および高齢者)|中国文学者]]として中国古典を現代人に語ることに努める傍ら、現代社会の様々な問題について発言し[[全共闘世代]]の間で多くの読者を得た。 |
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*[[1965年]] [[ベトナムに平和を!市民連合|ベ平連]]の呼びかけ人となる<ref>{{Cite web |title=月刊基礎知識 from 現代用語の基礎知識 |url=https://www.jiyu.co.jp/GN/cdv/backnumber/200209/topics04/topic04_05.html |website=www.jiyu.co.jp |accessdate=2019-09-29 |publisher=[[自由国民社]]}}</ref>。 |
*[[1965年]] [[ベトナムに平和を!市民連合|ベ平連]]の呼びかけ人となる<ref>{{Cite web |title=月刊基礎知識 from 現代用語の基礎知識 |url=https://www.jiyu.co.jp/GN/cdv/backnumber/200209/topics04/topic04_05.html |website=www.jiyu.co.jp |accessdate=2019-09-29 |publisher=[[自由国民社]]}}</ref>。 |
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*[[1966年]]4月 [[明治大学文学部]][[助教授]]に就任。 |
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*[[1967年]]6月 京都大学文学部助教授に就任。妻・たか子は同行を拒否し[[鎌倉]]に残る。 |
*[[1967年]]6月 京都大学文学部助教授に就任。妻・たか子は同行を拒否し、[[鎌倉]]に残る。 |
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*[[1969年]]3月 大学闘争の最中、学生側を支持して京都大学文学部助教授を辞職する。 |
*[[1969年]]3月 大学闘争の最中、学生側を支持して京都大学文学部助教授を辞職する。 |
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*[[1971年]]5月3日 [[大腸癌|結腸 |
*[[1971年]]5月3日 [[大腸癌|結腸ガン]]のため[[東京女子医科大学病院]]で死去した。39歳没<ref>[[工藤寛正|岩井寛]]『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)183頁</ref>。9日に[[青山斎場]]で告別式、葬儀委員長は[[埴谷雄高]]が務めた。戒名は大慧院和嶺雅到居士<ref>大塚英良『文学者掃苔録図書館』(原書房、2015年)126頁</ref>。 |
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== 著書 == |
== 著書 == |
2022年10月9日 (日) 12:59時点における版
高橋 和巳 (たかはし かずみ) | |
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河出書房出版社『文芸』第5巻第4号 (1966) より | |
誕生 |
1931年8月31日 日本・大阪市浪速区 |
死没 |
1971年5月3日(39歳没) 日本・東京都新宿区河田町 |
墓地 | 冨士霊園 |
職業 | 小説家・中国文学者 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
教育 | 修士(文学) |
最終学歴 | 京都大学大学院文学研究科中国文学科 |
活動期間 | 1962年 - 1971年 |
ジャンル | 小説・評論 |
代表作 |
『悲の器』(1962年) 『憂鬱なる党派』(1965年) 『邪宗門』(1966年) 『我が心は石にあらず』(1967年) 『日本の悪霊』(1968年) 『わが解体』(1969年) |
主な受賞歴 | 文藝賞(1962年) |
デビュー作 | 『悲の器』(1962年) |
配偶者 | 高橋たか子 |
ウィキポータル 文学 |
高橋 和巳(たかはし かずみ、1931年8月31日 - 1971年5月3日)は、日本の小説家で中国文学者。小説家の高橋たか子は妻。中国文学者として中国古典を現代人に語ることに努める傍ら、現代社会の様々な問題について発言し全共闘世代の間で多くの読者を得た。
経歴
- 1931年8月31日 大阪市浪速区で誕生。
- 1944年4月 大阪府立今宮中学(現:大阪府立今宮高等学校)入学。
- 1945年4月 母・慶子の郷里である香川県に疎開し、香川県立三豊中学(現:香川県立観音寺第一高等学校)に編入学。
- 1948年3月 大阪府立今宮中学卒業。旧制松江高校に入学。漢文の教師に駒田信二がいた[1]。
- 1949年7月 新制京都大学文学部入学。在学中は、「京大文芸同人会(京大作家集団)」、「ARUKU」、「現代文学」などで活動する。学友に小松左京、大島渚がいた。
- 1954年
- 1959年
- 1965年 ベ平連の呼びかけ人となる[3]。
- 1966年4月 明治大学文学部助教授に就任。
- 1967年6月 京都大学文学部助教授に就任。妻・たか子は同行を拒否し、鎌倉に残る。
- 1969年3月 大学闘争の最中、学生側を支持して京都大学文学部助教授を辞職する。
- 1971年5月3日 結腸ガンのため東京女子医科大学病院で死去した。39歳没[4]。9日に青山斎場で告別式、葬儀委員長は埴谷雄高が務めた。戒名は大慧院和嶺雅到居士[5]。
著書
- 『悲の器』(1962年11月、第1回文藝賞)河出書房新社、のち新潮文庫
- 『文学の責任』河出書房新社 1963 のち講談社文芸文庫
- 『散華』(1963年)河出書房、1967 のち新潮文庫
- 『我が心は石にあらず』(「自由」1964年12月 - 1966年6月連載)新潮社 1967 のち新潮文庫
- 『邪宗門』(「朝日ジャーナル」1965年1月 - 1966年5月連載)河出書房新社 全2巻 1966 のち新潮文庫、角川文庫、講談社文庫、朝日文庫
- 『憂鬱なる党派』河出書房新社 1965 のち新潮文庫
- 『孤立無援の思想 全エッセイ集』河出書房新社 1966 のち旺文社文庫
- 『現代の青春 高橋和巳エッセイ集』旺文社文庫
- 『新しき長城』河出書房 1967
- 『捨子物語』河出書房 1968 のち新潮文庫
- 『日本の悪霊』(「文藝」1966年1月 - 1968年10月連載)作品集第6、1969 新潮文庫 1980
- 『わが解体』(「文藝」1969年6月 - 10月連載)河出書房新社、1971 のち河出文庫
- 『黄昏の橋』(「現代の眼」1968年10月 - 未完)筑摩書房 1971 のち新潮文庫
- 『高橋和巳作品集』全9巻 河出書房新社 1969-71
- 『孤立の憂愁の中で』筑摩書房 1969
- 『堕落』河出書房新社 1969 のち新潮文庫、講談社文芸文庫
- 『生涯にわたる阿修羅として 対話集』徳間書店 1970
- 『暗黒への出発』徳間書店 1971
- 『白く塗りたる墓』筑摩書房 1971
- 『人間にとって』新潮社 1971 のち新潮文庫
- 『自立の思想』文和書房 1971
- 『世界革命戦争への飛翔』(1971年3月 共産主義者同盟赤軍派編、刊行)
- 『高橋和巳全小説』全10巻 河出書房新社 1975
- 『高橋和巳全集』全20巻 河出書房新社 1977-80
- 『高橋和巳コレクション』全11冊 河出文庫 1996-97
共編著
- 『漢詩鑑賞入門』高木正一・武部利男共著 創元社 1962
- 『文学のすすめ 学問のすすめ6』 筑摩書房 1968
- 『ふたたび人間を問う』安田武対談 雄渾社 1968
- 『変革の思想を問う』小田実・真継伸彦共編 筑摩書房 1969
- 『明日への葬列 60年代反権力闘争に斃れた10人の遺志』 合同出版 1970
翻訳・注解
対談
- 『大いなる過渡期の論理―行動する作家の思弁と責任』(対:三島由紀夫)
回想記・伝記
- 高橋たか子『高橋和巳の思い出』構想社
- 高橋たか子『高橋和巳という人 二十五年の後に』河出書房新社
- 川西政明『評伝高橋和巳』講談社文芸文庫(新版) - 著者は河出での担当編集者で『高橋和巳全集 第20巻』(391~454頁)の年譜・書誌を編んでいる。
- 『高橋和巳 世界とたたかった文学』河出書房新社、2017年。作家論集
エピソード
森田童子の「孤立無援の唄」に「机の上の高橋和己(ママ)はおこった顔してさかさに見える」というくだりがある。