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== 概要 ==
== 概要 ==
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[[佐賀県]]出身<ref name="kotobank2"/>。1930年[[東京帝国大学]]独法科卒業<ref name="kotobank2"/>後、裁判官生活に入る。1930年代に[[満州国]]司法部に移り、審判官や司法部参事官を務め、治安立法や統制経済法の立法に関与した<ref name="ueda_85">[[上田誠吉]]「司法官の戦争責任」85頁</ref>。戦後、[[シベリア]]や[[中国]]・[[撫順]]に抑留されて、[[1956年]]8月に帰国し、[[東京地方裁判所|東京地裁]]判事に復職した<ref name="ueda_85"></ref>。[[1960年]]には[[安保闘争]]に関わる事件の勾留理由開示公判で[[弁護士]]を法廷秩序を乱したという理由で監置した<ref name="ueda_85"></ref>。[[1961年]]には右翼テロである[[嶋中事件]]の実行犯の背後にいると目された[[赤尾敏]]に対して[[東京地方検察庁|東京地検]]が「暴力行為」「殺人・殺人未遂教唆」で勾留請求した時に「暴力行為」について勾留を認めただけで、「殺人・殺人未遂教唆」の取調べは認めず、勾留請求を却下した<ref name="yamamoto_jou_279">[[山本祐司]]「最高裁物語<上>」(講談社a文庫)279頁</ref>。その際に、「安保反対の集団的暴力の横行が事件の根本的原因で集団的暴力対策の貧困が政治テロを生んだ」という所見を発表し、[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]から注意処分を受けた<ref name="yamamoto_jou_279"></ref>。


1930年代に[[満州国]]司法部に移り、審判官や司法部参事官を務め、治安立法や統制経済法の立法に関与した<ref name="ueda_85">[[上田誠吉]]「司法官の戦争責任」85頁</ref>。戦後、中国から戦犯に問われ、撫順収容所で「熱河粛正工作に於いてのみでも、中国人民解放軍に協力した愛国人民を1700名も死刑に処し、約2600名の愛国人民を無期懲役その他の重刑に処している」と手記に書いたが、日本帰国後はこれを否定した<ref>{{Cite web |url=http://www.fukushi-hiroba.com/magazine/art/book/wakata/20060915.html |title=WEBマガジン「福祉広場」- 若田泰の本棚 - 『司法官の戦争責任 満州体験と戦後司法』 上田誠吉 著 |access-date=2023-11-7 |publisher=NPO法人福祉広場 |website=WEBマガジン「福祉広場」- 若田泰の本棚 - |author=若田泰}}</ref>。
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戦後、[[シベリア]]や[[中国]]・[[撫順戦犯管理所]]に抑留されて、[[1956年]]8月に帰国し、[[東京地方裁判所|東京地裁]]判事に復職した<ref name="ueda_85"></ref>。右派思想の持ち主であり、左翼への強硬な姿勢が目立った。<br>[[1960年]]には[[安保闘争]]に関わる事件の勾留理由開示公判で[[弁護士]]を法廷秩序を乱したという理由で監置した<ref name="ueda_85"></ref>。[[1961年]]には右翼テロである[[嶋中事件]]の実行犯の背後にいると目された[[赤尾敏]]に対して[[東京地方検察庁|東京地検]]が「暴力行為」「殺人・殺人未遂教唆」で勾留請求した時に「暴力行為」について勾留を認めただけで、「殺人・殺人未遂教唆」の取調べは認めず、勾留請求を却下した<ref name="yamamoto_jou_279">[[山本祐司]]「最高裁物語<上>」(講談社a文庫)279頁</ref>。その際に、「安保反対の集団的暴力の横行が事件の根本的原因で集団的暴力対策の貧困が政治テロを生んだ」という所見を発表し、[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]から注意処分を受けた<ref name="yamamoto_jou_279"></ref>。
1970年12月に[[鹿児島地裁]]・[[鹿児島家庭裁判所|家裁]]所長として部下の9人の裁判官に対して、「青法協をどう思っているのか」「革命的体質を持つ全司法労組の体質は合憲的かどうか」「天皇制についてどう思うか」「階級闘争は合憲か違憲か」といった思想調査につながりかねない公開質問を出した<ref>山本祐司「最高裁物語<下>」(講談社a文庫)94・95頁</ref>。反青法協を取っていた最高裁も同じ立場には立てず、最高裁は飯守の上司である[[福岡高裁]]長官宛てに「件の公開質問状の形式で回答を求めることは明らかに所長の職務範囲を逸脱した行為である。よって、同所長に対し公開質問状を撤回するよう伝達されたく、また質問を受けた裁判官にも質問に応ずる限りではない旨を伝達されたい」と緊急指示を出した<ref>山本祐司「最高裁物語<下>」(講談社a文庫)96頁</ref>。そして、最高裁は飯守を[[東京高裁]]判事に異動させようとすると、飯守が拒否したため、最高裁初めての措置としてただちに鹿児島地裁・家裁所長を解職して地方判事に格下げした<ref>山本祐司「最高裁物語<下>」(講談社a文庫)96・97頁</ref>。飯守は辞職を選び、直後に「解任されるだろうことを前提にして行動していたので、別に驚いてはいない。これからは野に下り、自由に青法協批判活動を続けていく」と述べた<ref>山本祐司「最高裁物語<下>」(講談社a文庫)97頁</ref>。


[[青年法律家協会|青法協]]問題に絡んで、[[長沼ナイキ事件|平賀書簡問題]]が発生した時は平賀健太([[札幌地裁]]所長)を擁護し、「青法協は革命団体で、最高裁は昇給のストップ、[[判事補]]は判事に昇格させないようにすべき」と主張した<ref name="#1">山本祐司「最高裁物語<下>」(講談社a文庫)96頁</ref>。
[[撫順戦犯管理所]]に収容された経験をもち、[[中国帰還者連絡会|中国帰国者連絡会]](中帰連)のメンバーであったが、「飯森事件」により中帰連から除名された。

1970年12月に[[鹿児島地裁]]・[[鹿児島家庭裁判所|家裁]]所長として部下の9人の裁判官に対して、「青法協をどう思っているのか」「革命的体質を持つ全司法労組の体質は合憲的かどうか」「天皇制についてどう思うか」「階級闘争は合憲か違憲か」といった思想調査につながりかねない公開質問を出した<ref>山本祐司「最高裁物語<下>」(講談社a文庫)94・95頁</ref>。反青法協を取っていた最高裁も同じ立場には立てず、最高裁は飯守の上司である[[福岡高裁]]長官宛てに「件の公開質問状の形式で回答を求めることは明らかに所長の職務範囲を逸脱した行為である。よって、同所長に対し公開質問状を撤回するよう伝達されたく、また質問を受けた裁判官にも質問に応ずる限りではない旨を伝達されたい」と緊急指示を出した<ref name="#1"/>。そして、最高裁は飯守を[[東京高裁]]判事に異動させようとすると、飯守が拒否したため、最高裁初めての措置としてただちに鹿児島地裁・家裁所長を解職して地方判事に格下げした<ref>山本祐司「最高裁物語<下>」(講談社a文庫)96・97頁</ref>。飯守は辞職を選び、直後に「解任されるだろうことを前提にして行動していたので、別に驚いてはいない。これからは野に下り、自由に青法協批判活動を続けていく」と述べた<ref>山本祐司「最高裁物語<下>」(講談社a文庫)97頁</ref>。


その後、1972年から[[京都産業大学]]で教授を務めた<ref name="kotobank2"/>。
その後、1972年から[[京都産業大学]]で教授を務めた<ref name="kotobank2"/>。

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[[撫順戦犯管理所]]に収容された経験をもち、[[中国帰還者連絡会|中国帰国者連絡会]](中帰連)のメンバーであったが、全国各地で起こったアイゼンハワー米大統領の来日反対への暴力デモの逮捕者に対し、裁判の被告の弁護士まで有罪にして収監した「飯森事件」により中帰連から除名された。

1980年11月5日、死去。

== 家族 ==
* 実父・田中秀夫 - [[佐賀藩]]士・田中関太郎の長男。函館地方裁判所検事正<ref>[https://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who4-5230 田中秀夫]『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]</ref>
* 養父・飯守八郎 - 母方祖父
* 兄・[[田中耕太郎]]
* 妻・なな - [[日向輝武]]と[[林きむ子]]の二女<ref>[https://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who4-12892 日向輝武]『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]</ref><ref>『近代日本舞踊史: 1900s‐1980s』西形節子 2006, p298</ref>
* 子・ロゴデザイナーの[[飯守恪太郎]]、指揮者の[[飯守泰次郎]]<ref name="kotobank1"/>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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飯守 重任(いいもり しげとう、1906年8月13日[1][2] - 1980年11月5日[1][2])とは、日本裁判官最高裁判所長官を務めた田中耕太郎の弟。

概要

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佐賀県出身[2]。1930年東京帝国大学独法科卒業[2]後、裁判官生活に入る。

1930年代に満州国司法部に移り、審判官や司法部参事官を務め、治安立法や統制経済法の立法に関与した[3]。戦後、中国から戦犯に問われ、撫順収容所で「熱河粛正工作に於いてのみでも、中国人民解放軍に協力した愛国人民を1700名も死刑に処し、約2600名の愛国人民を無期懲役その他の重刑に処している」と手記に書いたが、日本帰国後はこれを否定した[4]

戦後、シベリア中国撫順戦犯管理所に抑留されて、1956年8月に帰国し、東京地裁判事に復職した[3]。右派思想の持ち主であり、左翼への強硬な姿勢が目立った。
1960年には安保闘争に関わる事件の勾留理由開示公判で弁護士を法廷秩序を乱したという理由で監置した[3]1961年には右翼テロである嶋中事件の実行犯の背後にいると目された赤尾敏に対して東京地検が「暴力行為」「殺人・殺人未遂教唆」で勾留請求した時に「暴力行為」について勾留を認めただけで、「殺人・殺人未遂教唆」の取調べは認めず、勾留請求を却下した[5]。その際に、「安保反対の集団的暴力の横行が事件の根本的原因で集団的暴力対策の貧困が政治テロを生んだ」という所見を発表し、最高裁から注意処分を受けた[5]

青法協問題に絡んで、平賀書簡問題が発生した時は平賀健太(札幌地裁所長)を擁護し、「青法協は革命団体で、最高裁は昇給のストップ、判事補は判事に昇格させないようにすべき」と主張した[6]

1970年12月に鹿児島地裁家裁所長として部下の9人の裁判官に対して、「青法協をどう思っているのか」「革命的体質を持つ全司法労組の体質は合憲的かどうか」「天皇制についてどう思うか」「階級闘争は合憲か違憲か」といった思想調査につながりかねない公開質問を出した[7]。反青法協を取っていた最高裁も同じ立場には立てず、最高裁は飯守の上司である福岡高裁長官宛てに「件の公開質問状の形式で回答を求めることは明らかに所長の職務範囲を逸脱した行為である。よって、同所長に対し公開質問状を撤回するよう伝達されたく、また質問を受けた裁判官にも質問に応ずる限りではない旨を伝達されたい」と緊急指示を出した[6]。そして、最高裁は飯守を東京高裁判事に異動させようとすると、飯守が拒否したため、最高裁初めての措置としてただちに鹿児島地裁・家裁所長を解職して地方判事に格下げした[8]。飯守は辞職を選び、直後に「解任されるだろうことを前提にして行動していたので、別に驚いてはいない。これからは野に下り、自由に青法協批判活動を続けていく」と述べた[9]

その後、1972年から京都産業大学で教授を務めた[2]

1975年4月に行われた東京都知事選挙では、自民党が擁立した石原慎太郎の推薦人に名を連ねた[10]。選挙後、飯守は『経済時代』1975年5月号でこう書き記した。「美濃部氏が8年間共産主義的イデオロギーに基づいて都政を執り始め、日本の共産主義革命の将来のために貢献したことは紛れもない事実である。であればこそ石原氏は美濃部赤色都政に終止符を打ち都政への自由社会化のために決然起ったのであるが、惜しくも破れた」「美濃部氏のスマイルは婦人票に絶対に強く、石原氏の男らしさは婦人票に弱い。婦人は本性上視野が狭く政治に弱いから当然である」[10]

撫順戦犯管理所に収容された経験をもち、中国帰国者連絡会(中帰連)のメンバーであったが、全国各地で起こったアイゼンハワー米大統領の来日反対への暴力デモの逮捕者に対し、裁判の被告の弁護士まで有罪にして収監した「飯森事件」により中帰連から除名された。

1980年11月5日、死去。

家族

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脚注

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出典

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  1. ^ a b c デジタル版 日本人名大辞典+Plus『飯守重任』 - コトバンク
  2. ^ a b c d e 20世紀日本人名事典『飯守 重任』 - コトバンク
  3. ^ a b c 上田誠吉「司法官の戦争責任」85頁
  4. ^ 若田泰. “WEBマガジン「福祉広場」- 若田泰の本棚 - 『司法官の戦争責任 満州体験と戦後司法』 上田誠吉 著”. WEBマガジン「福祉広場」- 若田泰の本棚 -. NPO法人福祉広場. 2023年11月7日閲覧。
  5. ^ a b 山本祐司「最高裁物語<上>」(講談社a文庫)279頁
  6. ^ a b 山本祐司「最高裁物語<下>」(講談社a文庫)96頁
  7. ^ 山本祐司「最高裁物語<下>」(講談社a文庫)94・95頁
  8. ^ 山本祐司「最高裁物語<下>」(講談社a文庫)96・97頁
  9. ^ 山本祐司「最高裁物語<下>」(講談社a文庫)97頁
  10. ^ a b 飯守重任「東京都知事選の憂鬱」 『経済時代』1975年5月号、経済時代社、14-18頁。
  11. ^ 田中秀夫『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  12. ^ 日向輝武『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  13. ^ 『近代日本舞踊史: 1900s‐1980s』西形節子 2006, p298