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{{出典の明記|date=2017年5月}} |
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{{Redirect|黒田家|[[黒田清隆]]の家で[[華族]]の[[伯爵]]家|黒田家 (伯爵家)}} |
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'''黒田氏'''(くろだし、{{旧字体|'''黑田氏'''}})は、[[武家]]・[[華族]]だった日本の[[氏族]]のひとつ。 |
'''黒田氏'''(くろだし、{{旧字体|'''黑田氏'''}})は、[[武家]]・[[華族]]だった日本の[[氏族]]のひとつ。 |
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[[福岡藩]]主黒田氏 |
[[近世大名]]家に[[福岡藩]]主黒田氏と[[久留里藩]]主黒田氏があり、[[明治維新|維新]]後前者は華族の[[侯爵]]家、後者は[[子爵]]家に列した{{sfn|小田部雄次|2006|p=323/331}}。 |
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== 福岡藩主 |
== 福岡藩主家→華族侯爵家の黒田氏 == |
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{{日本の氏族 |
{{日本の氏族 |
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|家名=黒田氏<br/>(称・宇多源氏佐々木氏流) |
|家名=黒田氏<br/>(称・宇多源氏佐々木氏流) |
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|種別=[[武家]]<br/>[[華族]]([[侯爵]]) |
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|出身地='''称'''・[[近江国]][[伊香郡]]黒田村<br/>[[播磨国]][[多可郡]]黒田庄? |
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|根拠地='''称'''・近江国伊香郡黒田村<br/>[[筑前国]] |
|根拠地='''称'''・近江国伊香郡黒田村<br/>[[筑前国]]<br/>[[東京市]][[赤坂区]][[福吉町]] |
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|人物=[[黒田孝高]]<br/>[[黒田長政]]<br/>[[黒田継高]]<br/>[[黒田長溥]] |
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|支流=[[福岡藩#秋月藩|秋月 |
|支流=[[福岡藩#秋月藩|秋月黒田家]]{{small|(武家・子爵)}}<br/>[[東蓮寺藩|直方黒田家]]{{small|(武家・男爵)}}<br/>[[黒田久孝]]家{{small|(武家・[[男爵]])}} |
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=== 黒田氏の起源 === |
=== 黒田氏の起源 === |
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ただし、これらの近江黒田氏を福岡藩主黒田氏に結びつけるこの説は近世から疑問視する向きもあり{{Efn|『黒田家譜』のさらに後に作成された『[[寛政重修諸家譜]]』では「代数なをいまだ足らざるに似たり。よりてしばらく旧きに従う」としてあえて系図を『寛永諸家系図伝』のまま掲載している{{Sfn|堀田|1923|pp=200-201}}。}}、{{要出典範囲|date=2017年5月|また初出史料が一般的に偽書とされる『[[江源武鑑]]』にあるものという指摘もあり}}{{Efn|『江源武鑑』はその名の通り近江源氏についての俗説を多く収録しており、黒田高政もこの史料が初見であるという。}}、歴史学者の諏訪勝則によると、現在では福岡黒田氏の起源を近江源氏に求める従来の説は慎重にならざるを得ないとしている{{Sfn|諏訪|2013|p={{要ページ番号|date=2019年1月}}}}。また黒田長政が[[日光東照宮]]に寄進した石の鳥居には、「黒田筑前守藤原長政」と名前が掘り込まれていることから、長政が[[本姓]]を[[藤原氏]]としていたことが分かり、家紋が藤原氏の使用する藤の紋を取り入れた黒田[[藤巴]]紋であることも整合性がとれる。この藤巴の紋は黒田家が播磨時代に仕えた主家、小寺家が用いた藤橘巴紋を継承しているともされる。江戸時代、近世大名となった黒田家は主に[[石餅]](白餅、黒餅)紋を表紋としている。 |
ただし、これらの近江黒田氏を福岡藩主黒田氏に結びつけるこの説は近世から疑問視する向きもあり{{Efn|『黒田家譜』のさらに後に作成された『[[寛政重修諸家譜]]』では「代数なをいまだ足らざるに似たり。よりてしばらく旧きに従う」としてあえて系図を『寛永諸家系図伝』のまま掲載している{{Sfn|堀田|1923|pp=200-201}}。}}、{{要出典範囲|date=2017年5月|また初出史料が一般的に偽書とされる『[[江源武鑑]]』にあるものという指摘もあり}}{{Efn|『江源武鑑』はその名の通り近江源氏についての俗説を多く収録しており、黒田高政もこの史料が初見であるという。}}、歴史学者の諏訪勝則によると、現在では福岡黒田氏の起源を近江源氏に求める従来の説は慎重にならざるを得ないとしている{{Sfn|諏訪|2013|p={{要ページ番号|date=2019年1月}}}}。また黒田長政が[[日光東照宮]]に寄進した石の鳥居には、「黒田筑前守藤原長政」と名前が掘り込まれていることから、長政が[[本姓]]を[[藤原氏]]としていたことが分かり、家紋が藤原氏の使用する藤の紋を取り入れた黒田[[藤巴]]紋であることも整合性がとれる。この藤巴の紋は黒田家が播磨時代に仕えた主家、小寺家が用いた藤橘巴紋を継承しているともされる。江戸時代、近世大名となった黒田家は主に[[石餅]](白餅、黒餅)紋を表紋としている。 |
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=== 黒田氏 |
==== 近江黒田氏説 ==== |
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⚫ | 黒田重隆の子[[黒田職隆|職隆]]が[[赤松氏]]の一族である播磨の有力豪族・小寺氏に仕え、その養女を迎えて自らも小寺氏を称した。職隆の子・孝高は[[織田信長]]に従い、その重臣である[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]の麾下に入った。その際、小寺氏が織田氏に敵対して衰退すると孝高は氏を黒田に復している。[[1587年]]([[天正]]15年)[[豊前国]][[中津城]]主12万石となる。[[1600年]]の[[関ヶ原の戦い]]で孝高・[[黒田長政|長政]]父子は徳川方につき、軍功により[[筑前国]]52万3千余石を与えられ、[[福岡藩]]を立藩。長政が初代藩主になった。以後黒田氏は代々福岡藩主となり国替もなく幕末に至る。二代忠之以降は代々松平筑前守の名を与えられた。黒田家宗家は第6代目藩主[[黒田継高|継高]]の時、息子二人が相次いで早世し後継問題に見舞われた。当初は継高の長女、藤子が嫁いだ[[岡山藩]][[池田氏]]から外孫・長泰(後の[[相良長寛]])を養子に迎える予定だったが、幕府の要請により[[黒田治之|治之]]が[[一橋徳川家]]から養子に入った。その後も養子が続き、[[多度津藩]][[京極氏]]・[[薩摩藩]][[島津氏]]・[[伊勢国|伊勢]][[津藩]][[藤堂氏]]から迎えている。養子とする際は、正室を先代藩主の息女や縁類の娘とし、入婿とした{{Sfn|村川|2000|p=206}} |
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⚫ | 江戸時代末期に[[兵庫県]][[西脇市]]にある[[荘厳寺 (西脇市)|荘厳寺]]に奉納されたという伝承の『荘厳寺本黒田家略系図』によると、黒田氏は播磨の守護大名・[[赤松氏]]の分流であり、[[赤松則村]]の弟の[[赤松円光|円光]]の子である黒田重光という人物を祖とする。重光は室町時代初期にこの地を治めたとされ、以後代々播磨国[[多可郡]]黒田城(西脇市[[黒田庄町]]とされる)の城主として黒田氏は存続し、8代目黒田城主が[[黒田重隆]]になるとしている。9代目に黒田治隆が存在し、孝高(同系図によると孝隆)は治隆の弟となっている。なお、この黒田氏は治隆の代に合戦に敗れ滅亡したとされている。 |
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⚫ | 従来説と大きく違うこの系図は、黒田孝高の祖父とされている黒田重隆が、祖父ではなく実父であるとしている。また、孝高の父とされている[[黒田職隆]]は孝高の養父となっており、黒田氏ではなく小寺氏の人物であるように記されている{{Efn|なお、職隆が黒田氏と署名している史料は存在し、{{Harv|兵庫県史編集専門委員会|1987|}}に掲載されている{{Sfn|兵庫県史編集専門委員会|1987|p={{要ページ番号|date=2019年1月}}}}。}}。播磨国に近江源氏流とは違う黒田氏が当初より存在していたという説の論拠ともなりうる系図だが、江戸時代末期に作成されており歴史的史実と乖離する記述も多く散見されるため参考資料とする程度である。 |
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=== 黒田氏の歴史 === |
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==== 封建時代 ==== |
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⚫ | 黒田重隆の子[[黒田職隆|職隆]]が[[赤松氏]]の一族である播磨の有力豪族・小寺氏に仕え、その養女を迎えて自らも小寺氏を称した。職隆の子・孝高は[[織田信長]]に従い、その重臣である[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]の麾下に入った。その際、小寺氏が織田氏に敵対して衰退すると孝高は氏を黒田に復している。[[1587年]]([[天正]]15年)[[豊前国]][[中津城]]主12万石となる。[[1600年]]の[[関ヶ原の戦い]]で孝高・[[黒田長政|長政]]父子は徳川方につき、軍功により[[筑前国]]52万3千余石を与えられ、[[福岡藩]]を立藩。長政が初代藩主になった。以後黒田氏は代々福岡藩主となり国替もなく幕末に至る。二代忠之以降は代々松平筑前守の名を与えられた。黒田家宗家は第6代目藩主[[黒田継高|継高]]の時、息子二人が相次いで早世し後継問題に見舞われた。当初は継高の長女、藤子が嫁いだ[[岡山藩]][[池田氏]]から外孫・長泰(後の[[相良長寛]])を養子に迎える予定だったが、幕府の要請により[[黒田治之|治之]]が[[一橋徳川家]]から養子に入った。その後も養子が続き、[[多度津藩]][[京極氏]]・[[薩摩藩]][[島津氏]]・[[伊勢国|伊勢]][[津藩]][[藤堂氏]]から迎えている。養子とする際は、正室を先代藩主の息女や縁類の娘とし、入婿とした{{Sfn|村川|2000|p=206}}。 |
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⚫ | 江戸時代末期に[[兵庫県]][[西脇市]]にある[[荘厳寺 (西脇市)|荘厳寺]]に奉納されたという伝承の『荘厳寺本黒田家略系図』によると、黒田氏は播磨の守護大名・[[赤松氏]]の分流であり、[[赤松則村]]の弟の[[赤松円光|円光]]の子である黒田重光という人物を祖とする。重光は室町時代初期にこの地を治めたとされ、以後代々播磨国[[多可郡]]黒田城(西脇市[[黒田庄町]]とされる)の城主として黒田氏は存続し、8代目黒田城主が[[黒田重隆]]になるとしている。9代目に黒田治隆が存在し、孝高(同系図によると孝隆)は治隆の弟となっている。なお、この黒田氏は治隆の代に合戦に敗れ滅亡したとされている。 |
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⚫ | 従来説と大きく違うこの系図は、黒田孝高の祖父とされている黒田重隆が、祖父ではなく実父であるとしている。また、孝高の父とされている[[黒田職隆]]は孝高の養父となっており、黒田氏ではなく小寺氏の人物であるように記されている{{Efn|なお、職隆が黒田氏と署名している史料は存在し、{{Harv|兵庫県史編集専門委員会|1987|}}に掲載されている{{Sfn|兵庫県史編集専門委員会|1987|p={{要ページ番号|date=2019年1月}}}}。}}。播磨国に近江源氏流とは違う黒田氏が当初より存在していたという説の論拠ともなりうる系図だが、江戸時代末期に作成されており歴史的史実と乖離する記述も多く散見されるため参考資料とする程度である。 |
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==== 明治以降 ==== |
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明治2年(1869年)に福岡藩知事に就任した[[黒田長知]]は、明治4(1871年)に贋札事件が発覚したことにより廃藩置県に先立って藩知事を罷免されている。福岡藩は[[有栖川宮熾仁親王]]が最後の藩知事に就任して廃藩置県による解体を迎えた<ref name="福岡藩">{{Kotobank|福岡藩|2=日本大百科全書(ニッポニカ)藩名・旧国名がわかる事典 }}</ref>。なお黒田家は明治2年以来[[華族]]に列していたが、その地位には影響は及ばなかった。[[黒田長成|長成]]の代の明治17年(1884年)に[[華族令]]施行で華族が五爵制になると、同年7月7日に旧大藩知事{{efn|旧福岡藩は現米23万4250石で現米15万石以上の大藩に該当{{sfn|浅見雅男|1994|p=109}}。}}として[[侯爵]]家に列せられた{{sfn|浅見雅男|1994|p=109}}。長成は[[貴族院 (日本)|貴族院]]において副議長を多年にわたり務めた{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=51}}。その息子[[黒田長礼]]の代に黒田侯爵家の住居は[[東京市]][[赤坂区]][[福吉町]]にあった{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=51}}。 |
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また元秋月藩主黒田家は[[黒田長徳|長徳]]の代の明治17年7月8日に[[子爵]]に叙された{{sfn|小田部雄次|2006|p=326}}。その跡を継いだ[[黒田長敬]]子爵は宮内省官僚となった{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=225}}。昭和前期に秋月黒田子爵家の住居は東京市赤坂区福吉町にあった{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=225}}。また分家の[[黒田長和]]が直方黒田家の再興という形で分家し、明治29年(1896年)12月3日付けで男爵に叙されている{{sfn|小田部雄次|2006|p=350}}。長和は長期にわたって貴族院の男爵議員に当選し続けた{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=474}}。昭和前期に直方黒田男爵家の住居は東京市赤坂区福吉町にあった{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=474}}。一門家老家だった[[三奈木黒田家]]は[[黒田一義|一義]]の代の明治33年(1900年)5月9日に[[男爵]]に列せられた{{sfn|小田部雄次|2006|p=352}}。昭和前期の三奈木黒田男爵家の住居は[[福岡県]][[朝倉郡]][[三奈木村]]にあった{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=607}}。 |
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=== 系譜 === |
=== 系譜 === |
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{{familytree|border=0|01| | | | | |02|03| | | | | | | | |04|05| | | | | |06|07|08|01=高正|02='''[[黒田長久|長久]]'''|03=光子{{Efn2|夫は[[山内豊秋]]。[[山内豊策]] ━ [[山内豊資]] ━ [[山内豊静]]と続き、豊静の子が豊秋}}|04=長栄|05=長美|06=一夫|07=[[黒田美治|美治]]|08=洋子{{Efn2|夫は[[板東英二]]}}}} |
{{familytree|border=0|01| | | | | |02|03| | | | | | | | |04|05| | | | | |06|07|08|01=高正|02='''[[黒田長久|長久]]'''|03=光子{{Efn2|夫は[[山内豊秋]]。[[山内豊策]] ━ [[山内豊資]] ━ [[山内豊静]]と続き、豊静の子が豊秋}}|04=長栄|05=長美|06=一夫|07=[[黒田美治|美治]]|08=洋子{{Efn2|夫は[[板東英二]]}}}} |
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{{familytree|border=0| | | | | | |,|-|-|(| | | | | | | | | | | | | |!| | | | | | | | | | |!}} |
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{{familytree|border=0| | | | | |01|02| | | | | | | | | | | |03| | | | | | | | |04|01=長明|02='''[[黒田長高|長高]]'''|03=長幹{{Efn2|秋月黒田家第15代当主。[[朝倉市秋月博物館]]名誉館長<ref>{{Cite web|title=秋月黒田家当主が名誉館長就任 朝倉市の秋月博物館|url=https://www.nishinippon.co.jp/item/n/465633/|website=西日本新聞|accessdate=2022-02-12}}</ref>}}|04=一敬}} |
{{familytree|border=0| | | | | |01|02| | | | | | | | | | | |03| | | | | | | | |04|01=長明|02='''[[黒田長高|長高]]'''|03=長幹{{Efn2|秋月黒田家第15代当主。[[朝倉市秋月博物館]]名誉館長<ref>{{Cite web|和書|title=秋月黒田家当主が名誉館長就任 朝倉市の秋月博物館|url=https://www.nishinippon.co.jp/item/n/465633/|website=西日本新聞|accessdate=2022-02-12}}</ref>}}|04=一敬}} |
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{{familytree/end}} |
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== 譜代大名→華族子爵家の黒田氏 == |
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== 武蔵七党の一つ丹党の流れをくむ中山氏流が養子入りした黒田氏 == |
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{{日本の氏族 |
{{日本の氏族 |
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|家名=黒田氏 |
|家名=黒田氏 |
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|家紋=Unknown.jpg |
|家紋=Unknown.jpg |
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|家紋名称= |
|家紋名称= |
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|本姓=不明(中山氏は[[武蔵七党]][[丹党]][[中山氏|中山氏流]]) |
|本姓=不明(養子入りにより武蔵七党丹党中山氏流。中山氏は[[武蔵七党]][[丹党]][[中山氏|中山氏流]]) |
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|家祖= |
|家祖= |
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|種別=[[武家]]<br/>[[華族]]([[子爵]]) |
|種別=[[武家]]<br/>[[華族]]([[子爵]]) |
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|出身地= |
|出身地= |
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|根拠地=[[上総国]] |
|根拠地=[[上総国]]<br/>[[東京市]][[目黒区]][[下目黒]] |
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|人物= |
|人物= |
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|支流= |
|支流= |
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この黒田氏は、元々は[[武蔵七党]]の一つ[[丹党]]の末裔である[[中山氏]]の出身である。中山氏は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]][[後北条氏]]に仕え、後北条氏が滅亡した後には、[[中山照守]]らが[[徳川氏]]に属し、ある一族は[[旗本]]となり、また別の一族は[[水戸藩]]の[[附家老]]となった。 |
<!---この黒田氏は、元々は[[武蔵七党]]の一つ[[丹党]]の末裔である[[中山氏]]の出身である。中山氏は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]][[後北条氏]]に仕え、後北条氏が滅亡した後には、[[中山照守]]らが[[徳川氏]]に属し、ある一族は[[旗本]]となり、また別の一族は[[水戸藩]]の[[附家老]]となった。---> |
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近江国出身で[[徳川家康]]に仕えた[[黒田直綱]]は大坂の陣などで勲功を挙げ4千石を知行したが、二十代半ばで嗣子無くして没したため、紀州藩士[[近藤用勝]]の六男の[[黒田用綱]]を養子として家名を存続させた。 |
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⚫ | 用綱は[[上野国|上野]][[館林藩]]主[[徳川綱吉]]の[[付家老]]として配属され、3,000石を領した用綱には実子がいたが{{Efn|黒田用綱の実子の一人が、同僚の[[牧野成貞]]の養子に入り[[牧野成時 (関宿藩嫡子)|牧野成時]]となっているが、若くして死去している。}}、養子として外孫に当たる[[黒田直邦|直邦]]([[中山照守]]の曾孫)を迎えた。直邦は[[儒学者]]の[[荻生徂徠]]の弟子でもあり、のちには名君と呼ばれ、その人格も高く評価された。時の将軍綱吉にも気に入られ、綱吉の将軍就任に伴い舘林藩が幕府に再吸収された際、用綱も身分は幕府直臣旗本となり、[[小納戸役]]や[[小姓]]を務め、[[1700年]]([[元禄]]13年)1万石を拝領して黒田家は大名に列した。その後も[[奏者番]]と[[寺社奉行]]を兼任するなどし、[[1703年]](元禄16年)[[常陸国|常陸]][[下館藩]]主1万5,000石となり、次いで上野国[[沼田藩]]主2万5,000石、さらに加増を受けて3万石の領主となった。 |
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[[明治維新]]後、黒田家は[[子爵]]に列せられた。 |
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[[菩提寺]]は中山氏と同じ、[[埼玉県]][[飯能市]]飯能の[[能仁寺 (飯能市)|能仁寺]]。 |
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[[1742年]]([[寛保]]2年)、直邦の養子の[[黒田直純|直純]]の時、[[上総国|上総]][[久留里藩]]3万石に転封となった。黒田家は藩財政には苦しみながらも、以降久留里藩主として明治まで存続した。<!---なお上述の福岡藩主黒田氏とは酒井家を通じ血脈を受け継いでいる。---> |
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[[明治維新]]後、黒田家は華族に列し、[[黒田和志|和志]]の代の明治17年(1884年)の[[華族令]]施行で華族が五爵制になると旧小藩知事{{efn|旧久留里藩は現米1万1126石(表高3万石)で現米5万石未満の小藩に該当{{sfn|浅見雅男|1994|p=152}}。}}として、7月8日に[[子爵]]に列せられた{{sfn|小田部雄次|2006|p=331}}。和志は貴族院の子爵議員に当選して務めた。その孫の3代子爵[[黒田経志|経志]]の代の昭和前期に同子爵家の住居は[[東京市]][[目黒区]][[下目黒]]にあった{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=396}}。 |
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*[[丸亀藩]]京極家[[家老]]に黒田氏([[京極氏#高次流 (若狭京極家)|京極家]]分家)がある。 |
*[[丸亀藩]]京極家[[家老]]に黒田氏([[京極氏#高次流 (若狭京極家)|京極家]]分家)がある。 |
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*[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[越後国|越後]][[上杉氏]]の家臣の黒田氏がいる。[[黒田秀忠]]の代に主・[[長尾晴景]]に対して謀反を起こしたために越後守護・[[上杉定実]]の命を受けた晴景の弟の長尾景虎(のちの[[上杉謙信]])によって滅ぼされた。 |
*[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[越後国|越後]][[上杉氏]]の家臣の黒田氏がいる。[[黒田秀忠]]の代に主・[[長尾晴景]]に対して謀反を起こしたために越後守護・[[上杉定実]]の命を受けた晴景の弟の長尾景虎(のちの[[上杉謙信]])によって滅ぼされた。 |
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*[[薩摩藩]][[島津氏]]家臣の家系。首相を務めた[[黒田清隆]]、ほかに[[黒田清綱]]や画家の[[黒田清輝]]がいる。 |
*[[薩摩藩]][[島津氏]]家臣の家系。首相を務めた[[黒田清隆]](同家については「'''[[黒田家 (伯爵家)]]'''」参照)、ほかに[[黒田清綱]]や画家の[[黒田清輝]]がいる。 |
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*皇族であった[[黒田清子]]が嫁いだ[[黒田慶樹]]やその祖父[[黒田慶太郎]]は、[[大阪府]][[堺市]]に由来する平民実業家の家系である。 |
*皇族であった[[黒田清子]]が嫁いだ[[黒田慶樹]]やその祖父[[黒田慶太郎]]は、[[大阪府]][[堺市]]に由来する平民実業家の家系である。 |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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{{脚注の不足|date=2017年5月|section=1}} |
{{脚注の不足|date=2017年5月|section=1}} |
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* {{Cite book|和書| |
* {{Cite book|和書|year=1994|title=華族誕生 名誉と体面の明治|author=浅見雅男|authorlink=浅見雅男|publisher=[[リブロポート]]|ref=harv}} |
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* {{Cite book|和書|date=2006年(平成18年)|title=華族 近代日本貴族の虚像と実像|author=小田部雄次|authorlink=小田部雄次|publisher=[[中央公論新社]]|series=[[中公新書]]1836|isbn= 978-4121018366|ref=harv}} |
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* {{Citation|和書|last=太田|first=亮|author-link=太田亮|others=[[上田萬年]]、[[三上参次]]監修|chapter=黒田 クロタ クルタ|pages=2223-2229|volume=第2|date=1934|title=姓氏家系大辞典|publisher=姓氏家系大辞典刊行会|id={{全国書誌番号|47004572}}|url={{NDLDC|1130938/205}} 国立国会図書館デジタルコレクション|ref=harv}} {{フリーアクセス}} |
* {{Citation|和書|last=太田|first=亮|author-link=太田亮|others=[[上田萬年]]、[[三上参次]]監修|chapter=黒田 クロタ クルタ|pages=2223-2229|volume=第2|date=1934|title=姓氏家系大辞典|publisher=姓氏家系大辞典刊行会|id={{全国書誌番号|47004572}}|url={{NDLDC|1130938/205}} 国立国会図書館デジタルコレクション|ref=harv}} {{フリーアクセス}} |
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* {{Citation|和書|last=諏訪|first=勝則|date=2013-11|title=黒田官兵衛 : 「天下を狙った軍師」の実像|series=中公新書 2241|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=9784121022417|ref=harv}} |
* {{Citation|和書|last=諏訪|first=勝則|date=2013-11|title=黒田官兵衛 : 「天下を狙った軍師」の実像|series=中公新書 2241|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=9784121022417|ref=harv}} |
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2024年6月22日 (土) 08:39時点における版
黒田氏(くろだし、旧字体:黑田氏)は、武家・華族だった日本の氏族のひとつ。
近世大名家に福岡藩主黒田氏と久留里藩主黒田氏があり、維新後前者は華族の侯爵家、後者は子爵家に列した[1]。
福岡藩主家→華族侯爵家の黒田氏
黒田氏 (称・宇多源氏佐々木氏流) | |
---|---|
黒田藤 | |
本姓 |
称・宇多源氏佐々木氏流[2] 藤原氏?/赤松氏(宇野氏流小寺氏)? |
種別 |
武家 華族(侯爵) |
出身地 |
称・近江国伊香郡黒田村 播磨国多可郡黒田庄? |
主な根拠地 |
称・近江国伊香郡黒田村 筑前国 東京市赤坂区福吉町 |
著名な人物 |
黒田孝高 黒田長政 黒田継高 黒田長溥 |
支流、分家 |
秋月黒田家(武家・子爵) 直方黒田家(武家・男爵) 黒田久孝家(武家・男爵) |
凡例 / Category:日本の氏族 |
黒田氏の起源
近世、黒田孝高(官兵衛・如水)・長政父子が筑前国に福岡藩を立藩した黒田氏は、その40年ほど後に作成された『寛永諸家系図伝』によると、戦国時代後期に活動した播磨国の国人領主・黒田重隆まで遡ることができる。重隆は播磨の有力豪族・小寺氏に重臣として仕えた武将であり、孝高の祖父にあたる[3]。『寛永諸家系図伝』によると重隆以前は「此間中絶」となっており伝承されていなかったようであるが、それ以前の系譜として中世の間、近江国に勢力を持った佐々木氏(京極氏)の分家筋である黒田氏の流れであると紹介している。
『寛永諸家系図伝』のさらに60年ほど後、福岡藩士・貝原益軒によって編纂された『黒田家譜』によると、黒田重隆の父として近江黒田氏出身者の高政(黒田重隆の父とされている)が新たに登場し、高政の代に近江を離れたとして近江黒田氏が福岡藩主黒田氏と同族であることの補説としている[2]。
ただし、これらの近江黒田氏を福岡藩主黒田氏に結びつけるこの説は近世から疑問視する向きもあり[注釈 1]、また初出史料が一般的に偽書とされる『江源武鑑』にあるものという指摘もあり[要出典][注釈 2]、歴史学者の諏訪勝則によると、現在では福岡黒田氏の起源を近江源氏に求める従来の説は慎重にならざるを得ないとしている[5]。また黒田長政が日光東照宮に寄進した石の鳥居には、「黒田筑前守藤原長政」と名前が掘り込まれていることから、長政が本姓を藤原氏としていたことが分かり、家紋が藤原氏の使用する藤の紋を取り入れた黒田藤巴紋であることも整合性がとれる。この藤巴の紋は黒田家が播磨時代に仕えた主家、小寺家が用いた藤橘巴紋を継承しているともされる。江戸時代、近世大名となった黒田家は主に石餅(白餅、黒餅)紋を表紋としている。
近江黒田氏説
鎌倉時代末期、京極宗氏の弟とされる宗満が近江国伊香郡黒田村に住み、黒田氏を称したのが始まりといわれる。この黒田氏は主に室町幕府将軍の奉公衆としての活動の記録が残っており、黒田高政が近江を離れたとされるよりも後の時代である天文年間まで存在が確認されるという。『黒田家譜』『寛永諸家系図伝』などによると、黒田家はこの末裔とされるが、先述の通り疑問視する向きも強い。
明石黒田氏説
近年、明石藩士黒田家文書、『播磨鑑』には、黒田官兵衛孝高は押部庄黒田村 (現神戸市西区平野町黒田) の出身とする『本朝通紀』長井定宗説が出てきた。これは播磨国明石藩松平家の家老職は代々黒田家であり、同姓である。がゆえに、古文書等の由緒書に、黒田氏の先祖は、播磨国明石郡黒田村の記述があるという。東播磨の一大土豪であった明石氏と黒田氏は、お互いの家に嫡子が絶えると養子を譲りあいながら家系を継いできたという。
西脇黒田庄説
江戸時代末期に兵庫県西脇市にある荘厳寺に奉納されたという伝承の『荘厳寺本黒田家略系図』によると、黒田氏は播磨の守護大名・赤松氏の分流であり、赤松則村の弟の円光の子である黒田重光という人物を祖とする。重光は室町時代初期にこの地を治めたとされ、以後代々播磨国多可郡黒田城(西脇市黒田庄町とされる)の城主として黒田氏は存続し、8代目黒田城主が黒田重隆になるとしている。9代目に黒田治隆が存在し、孝高(同系図によると孝隆)は治隆の弟となっている。なお、この黒田氏は治隆の代に合戦に敗れ滅亡したとされている。
従来説と大きく違うこの系図は、黒田孝高の祖父とされている黒田重隆が、祖父ではなく実父であるとしている。また、孝高の父とされている黒田職隆は孝高の養父となっており、黒田氏ではなく小寺氏の人物であるように記されている[注釈 3]。播磨国に近江源氏流とは違う黒田氏が当初より存在していたという説の論拠ともなりうる系図だが、江戸時代末期に作成されており歴史的史実と乖離する記述も多く散見されるため参考資料とする程度である。
黒田氏の歴史
封建時代
黒田家の正史、『黒田家譜』によると、16世紀初め、近江源氏の分流佐々木氏流である黒田高政は近江を出奔して、同じ近江源氏の流れである越後国の加地氏などを頼って備前国邑久郡福岡に移った。そして高政の子・重隆の時に播磨国に移り、同国の有力豪族である小寺氏に仕えた。近世になって成立した『夢幻物語』によると、重隆は家伝の目薬を製造・販売し、やがて土豪として成長したとされる。元から播磨地域の出身であり赤松氏一族に仕えた説など、数多くの説が近年の研究から唱えられている。
黒田重隆の子職隆が赤松氏の一族である播磨の有力豪族・小寺氏に仕え、その養女を迎えて自らも小寺氏を称した。職隆の子・孝高は織田信長に従い、その重臣である羽柴秀吉の麾下に入った。その際、小寺氏が織田氏に敵対して衰退すると孝高は氏を黒田に復している。1587年(天正15年)豊前国中津城主12万石となる。1600年の関ヶ原の戦いで孝高・長政父子は徳川方につき、軍功により筑前国52万3千余石を与えられ、福岡藩を立藩。長政が初代藩主になった。以後黒田氏は代々福岡藩主となり国替もなく幕末に至る。二代忠之以降は代々松平筑前守の名を与えられた。黒田家宗家は第6代目藩主継高の時、息子二人が相次いで早世し後継問題に見舞われた。当初は継高の長女、藤子が嫁いだ岡山藩池田氏から外孫・長泰(後の相良長寛)を養子に迎える予定だったが、幕府の要請により治之が一橋徳川家から養子に入った。その後も養子が続き、多度津藩京極氏・薩摩藩島津氏・伊勢津藩藤堂氏から迎えている。養子とする際は、正室を先代藩主の息女や縁類の娘とし、入婿とした[7]。
なお、黒田孝高は有岡城の戦いから救出された後に有岡城の土牢で世話を受けた、利仁流加藤氏の支流・伊丹氏の一族とされる加藤重徳の次男を養子に迎え、黒田姓を与えて黒田一成と名乗らせている。一成は関ヶ原の戦いで功績を残し、福岡藩立藩後には藩大老となり三奈木黒田家を起こし、明治まで代々、藩主に仕えた。このほか黒田姓を与えられた家には立花黒田家(初代は薦野増時)などがある。黒田家家臣団は俗に黒田二十四騎、黒田八虎として知られる。
なお、1623年(元和9年)、長政の三男長興は筑前国秋月藩5万石、四男高政は筑前国東蓮寺藩(直方藩)4万石が分与されて支藩となっているが、後者は本藩の養子になったために絶家した。
明治以降
明治2年(1869年)に福岡藩知事に就任した黒田長知は、明治4(1871年)に贋札事件が発覚したことにより廃藩置県に先立って藩知事を罷免されている。福岡藩は有栖川宮熾仁親王が最後の藩知事に就任して廃藩置県による解体を迎えた[8]。なお黒田家は明治2年以来華族に列していたが、その地位には影響は及ばなかった。長成の代の明治17年(1884年)に華族令施行で華族が五爵制になると、同年7月7日に旧大藩知事[注釈 4]として侯爵家に列せられた[9]。長成は貴族院において副議長を多年にわたり務めた[10]。その息子黒田長礼の代に黒田侯爵家の住居は東京市赤坂区福吉町にあった[10]。
また元秋月藩主黒田家は長徳の代の明治17年7月8日に子爵に叙された[11]。その跡を継いだ黒田長敬子爵は宮内省官僚となった[12]。昭和前期に秋月黒田子爵家の住居は東京市赤坂区福吉町にあった[12]。また分家の黒田長和が直方黒田家の再興という形で分家し、明治29年(1896年)12月3日付けで男爵に叙されている[13]。長和は長期にわたって貴族院の男爵議員に当選し続けた[14]。昭和前期に直方黒田男爵家の住居は東京市赤坂区福吉町にあった[14]。一門家老家だった三奈木黒田家は一義の代の明治33年(1900年)5月9日に男爵に列せられた[15]。昭和前期の三奈木黒田男爵家の住居は福岡県朝倉郡三奈木村にあった[16]。
系譜
凡例 1) 太字は宗家(福岡藩主家)当主、数字は代。1=福岡藩主、秋1=秋月藩主、東1=東蓮寺藩主、直1=直方藩主、三1=三奈木黒田家当主 2) 実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。 ※ 構成の都合で出生順より組み替え。
(高政) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
小寺政職 | 重隆 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
岩姫[注 1] | 職隆 | 小寺高友 | 井手友氏 | 松井重孝 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
光 | 孝高(如水) | 利高 | 利則 | 直之 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
糸姫 | [福岡藩] 長政1 | 栄姫 | 熊之助 | [三奈木黒田家] 一成三1 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠之2 | 久姫 | [秋月藩] 長興秋1 | [東蓮寺藩] 高政東1 | 一任三2 | 女子 | 久野重時[注 2] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
光之3 | 之勝東2 | 彦子[注 3] | 勝子 | 一貫三3 | 一任 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
筑姫[注 4] | 綱之 | 長寛東3→綱政4 | [直方藩] 長清直1 | 富喜 | 長重秋2 | 一春三4 | 鶴子 | 野村祐春 | 一利三5 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
吉之 | 守山政則→宣政5 | 長軌秋3 | 長貞 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
幸 | 継高6 | 長貞秋4 | 豊姫[注 5] | 一誠三6 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
藤[注 6] | 為[注 7] | 友[注 8] | 重政 | 菊姫[注 9] | 長経 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
徳川宗尹 | 屋世[注 10] | 正姫 | 長邦秋5 | 春姫 | 秋月種美 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
徳川治済 | 治之7 | 艶姫[注 11] | 長恵秋6 | 此子[注 12] | 秋月種茂(種穎) | 上杉治憲(鷹山) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
京極高幸→治高8[注 13] | 保姫 | 島津重豪 | 長堅 | 一興三7 | 隆庸(一庸)三8 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
徳川家斉 | 茂子 | 長堅秋7 | 山内豊雍 | 秋月種徳 | 長舒 | 女子 | 清定(一定)三9 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
斉隆9 | 島津斉宣 | 長舒秋8 | 采子 | 秋月種任 | 藤堂高嶷[注 14] | 女子[注 15] | 溥整(一整)三10[注 16] | 女子[注 17] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
斉清10 | 孝姫 | 島津斉興 | 長韶秋9 | 山内豊策 | 順 | 藤堂高兌 | 野村東馬[注 18] | 一雄三12[注 19] | 千代子 | 一美三11 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
純姫 | 斉溥11 | 島津久光 | 雪子 | 秋月種殷 | 秋月種樹[注 20] | 藤堂高猷 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
慶賛12 | 豊子 | 島津忠義 | 慶子 | 長元秋10 | 藤堂建若 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
長和 | 静男 | 長成 | 清子 | 山内豊福 | 織田信民 | 長義秋11 | 長徳秋12 | 鏸子 | 一義三13 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
長義 | 長礼 | 長敬 | 一弘 | 稔 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
高正 | 長久 | 光子[注 21] | 長栄 | 長美 | 一夫 | 美治 | 洋子[注 22] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
長明 | 長高 | 長幹[注 23] | 一敬 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
- 系譜注釈
- ^ 明石正風の娘。小寺政職養女
- ^ 久野重勝の子
- ^ 清光院。藤堂高通室
- ^ 長女。宝厳院。酒井忠挙室
- ^ 上杉綱憲の娘
- ^ 長女。宝源院。池田宗政室。二人の間に生まれた相良長寛の後、相良頼徳 ━ 相良頼之 ━ 池田章政 ━ 池田詮政 ━ 池田博子 ━ 細川護貞 ━ 細川護熙と続いている
- ^ 次女。心珠院。酒井忠温室
- ^ 四女。松平定邦室
- ^ 眞含院。島津継豊の娘。島津重豪は甥(継豊 ━ 重年 ━ 重豪)
- ^ 早世
- ^ 保科正率室。長政継室栄姫の兄である保科正貞の後、保科正景 ━ 保科正賢 ━ 保科正寿 ━ 保科正富 ━ 保科正率に至る
- ^ 山崎義俊室
- ^ 治高の曽祖父である京極高豊の妻、市子は、酒井忠挙と光之娘である筑姫の間の子だが、治高と筑姫との間に血縁関係はない
- ^ 藤堂高虎の異母弟高清の子孫。長興の娘、彦子との間に血縁関係はない
- ^ 黒田一修室
- ^ はじめ、加藤徳裕の養子となり、加藤家10代当主。加藤司書徳成の義兄(姉の夫)。加藤家の祖は、加藤重徳の長男吉成
- ^ 黒田直倫室
- ^ 福岡藩家老。慶応4年、乙丑の獄での勤王派弾圧の責任を負い、切腹
- ^ 第十七国立銀行(後の福岡銀行)の設立に携わる
- ^ 孫、英子の夫は武見太郎
- ^ 夫は山内豊秋。山内豊策 ━ 山内豊資 ━ 山内豊静と続き、豊静の子が豊秋
- ^ 夫は板東英二
- ^ 秋月黒田家第15代当主。朝倉市秋月博物館名誉館長[17]
- 系譜出典
- 維新史料編纂会編『現代華族譜要』日本史籍協会、1929年1月15日、256-261頁。doi:10.11501/1879484。
- 『新訂 寛政重修諸家譜 第七』続群書類従完成会、1965年1月30日、200-218頁。
- 国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第4巻』吉川弘文館、1984年2月1日。ISBN 4-642-00504-8。
- 霞会館『平成新修旧華族家系大成 上巻』吉川弘文館、1996年、563-569頁。
- 林洋海『福岡藩』現代書館〈シリーズ藩物語〉、2015年7月15日。ISBN 978-4-7684-7137-1。
- 企画展示 | 市美×市博 黒田資料名品展Ⅳ 藩主夫人が愛した文物 - 福岡市博物館
- ふるさと人物誌7 秋月藩中興の祖 「黒田 長舒」(くろだ ながのぶ) - 福岡県朝倉市
- 旧三奈木黒田家庭園パンフレット (PDF) - 福岡県朝倉市
播磨多可郡の黒田氏
赤松則村の家臣黒田宗信が、知行地の播磨国多可郡黒田庄(兵庫県西脇市黒田庄町黒田)に黒田城を築き、黒田氏を称した。黒田宗政が討ち死にして断絶したが、子の黒田治宗が播州の山中村に隠れ住み、後に別所則治に従って家を再興した。その三男の山中貞幸は出雲尼子氏に仕え、貞幸の孫が山中幸盛である。山中幸盛の子で鴻池財閥の祖となる鴻池直文は、当初播州の黒田氏本家の養子となっていたという。この黒田氏は天正6年(1578年)に羽柴秀吉によって滅ぼされたとされる。鴻池直文の子の一人は、黒田氏を名乗っている。
なお、前述の福岡藩主・黒田氏の西脇黒田庄説の通り、黒田官兵衛とその子孫があまりにも有名なため、当の西脇市でもこの黒田氏は官兵衛の黒田氏であるとの伝承が地元でも古くからなされている[18]。
下野黒田氏
佐々木氏流を称する黒田氏と同じく、京極宗氏の弟とされる宗満を祖とする。永禄3年(1560年)、近江国の戦国大名六角義治の推挙によって、黒田邦勝が宇都宮広綱の家臣となっている。
系譜
凡例 太線は実子、細線は養子。 宗満 ┃ 定宗 | 宗信 ┃ 高教 ┃ 高宗 | 高信 ┃ 清高 | 政光 ┃ 光勝 ┃ 信勝 ┃ 勝秀 ┃ 勝好 ┃ 勝幸 ┃ 邦勝 ┃ 信勝 ┃ 定勝 ┃
譜代大名→華族子爵家の黒田氏
黒田氏 | |
---|---|
本姓 | 不明(養子入りにより武蔵七党丹党中山氏流。中山氏は武蔵七党丹党中山氏流) |
種別 |
武家 華族(子爵) |
主な根拠地 |
上総国 東京市目黒区下目黒 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
近江国出身で徳川家康に仕えた黒田直綱は大坂の陣などで勲功を挙げ4千石を知行したが、二十代半ばで嗣子無くして没したため、紀州藩士近藤用勝の六男の黒田用綱を養子として家名を存続させた。
用綱は上野館林藩主徳川綱吉の付家老として配属され、3,000石を領した用綱には実子がいたが[注釈 5]、養子として外孫に当たる直邦(中山照守の曾孫)を迎えた。直邦は儒学者の荻生徂徠の弟子でもあり、のちには名君と呼ばれ、その人格も高く評価された。時の将軍綱吉にも気に入られ、綱吉の将軍就任に伴い舘林藩が幕府に再吸収された際、用綱も身分は幕府直臣旗本となり、小納戸役や小姓を務め、1700年(元禄13年)1万石を拝領して黒田家は大名に列した。その後も奏者番と寺社奉行を兼任するなどし、1703年(元禄16年)常陸下館藩主1万5,000石となり、次いで上野国沼田藩主2万5,000石、さらに加増を受けて3万石の領主となった。
1742年(寛保2年)、直邦の養子の直純の時、上総久留里藩3万石に転封となった。黒田家は藩財政には苦しみながらも、以降久留里藩主として明治まで存続した。
明治維新後、黒田家は華族に列し、和志の代の明治17年(1884年)の華族令施行で華族が五爵制になると旧小藩知事[注釈 6]として、7月8日に子爵に列せられた[20]。和志は貴族院の子爵議員に当選して務めた。その孫の3代子爵経志の代の昭和前期に同子爵家の住居は東京市目黒区下目黒にあった[21]。
系譜
太線は実子、細線は養子。
中山直張 ┃ 直邦 ┝━━━┓ 直純 直亨 ┣━━━┓ 直英 直方 ┃ ┝━━━┳━━━┓ 直温 直侯 直静 直古 ┃ ┃ 直和 直養
常陸国の黒田氏
常陸国にも黒田氏がある。多賀郡黒田邑より起こっている。『梶原冬庵伝』に黒田八太夫、同八兵衛、八之丞がいる[22]。
その他
- 丸亀藩京極家家老に黒田氏(京極家分家)がある。
- 戦国時代の越後上杉氏の家臣の黒田氏がいる。黒田秀忠の代に主・長尾晴景に対して謀反を起こしたために越後守護・上杉定実の命を受けた晴景の弟の長尾景虎(のちの上杉謙信)によって滅ぼされた。
- 薩摩藩島津氏家臣の家系。首相を務めた黒田清隆(同家については「黒田家 (伯爵家)」参照)、ほかに黒田清綱や画家の黒田清輝がいる。
- 皇族であった黒田清子が嫁いだ黒田慶樹やその祖父黒田慶太郎は、大阪府堺市に由来する平民実業家の家系である。
脚注
注釈
- ^ 『黒田家譜』のさらに後に作成された『寛政重修諸家譜』では「代数なをいまだ足らざるに似たり。よりてしばらく旧きに従う」としてあえて系図を『寛永諸家系図伝』のまま掲載している[4]。
- ^ 『江源武鑑』はその名の通り近江源氏についての俗説を多く収録しており、黒田高政もこの史料が初見であるという。
- ^ なお、職隆が黒田氏と署名している史料は存在し、(兵庫県史編集専門委員会 1987)に掲載されている[6]。
- ^ 旧福岡藩は現米23万4250石で現米15万石以上の大藩に該当[9]。
- ^ 黒田用綱の実子の一人が、同僚の牧野成貞の養子に入り牧野成時となっているが、若くして死去している。
- ^ 旧久留里藩は現米1万1126石(表高3万石)で現米5万石未満の小藩に該当[19]。
出典
- ^ 小田部雄次 2006, p. 323/331.
- ^ a b 太田 1934, p. 2224.
- ^ 太田 1934, p. 2225.
- ^ 堀田 1923, pp. 200–201.
- ^ 諏訪 2013, p. [要ページ番号].
- ^ 兵庫県史編集専門委員会 1987, p. [要ページ番号].
- ^ 村川 2000, p. 206.
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)藩名・旧国名がわかる事典『福岡藩』 - コトバンク
- ^ a b 浅見雅男 1994, p. 109.
- ^ a b 華族大鑑刊行会 1990, p. 51.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 326.
- ^ a b 華族大鑑刊行会 1990, p. 225.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 350.
- ^ a b 華族大鑑刊行会 1990, p. 474.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 352.
- ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 607.
- ^ “秋月黒田家当主が名誉館長就任 朝倉市の秋月博物館”. 西日本新聞. 2022年2月12日閲覧。
- ^ 黒田官兵衛ゆかりの里・西脇/西脇市ホームページ
- ^ 浅見雅男 1994, p. 152.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 331.
- ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 396.
- ^ 太田 1934, p. 2228.
参考文献
- 浅見雅男『華族誕生 名誉と体面の明治』リブロポート、1994年。
- 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社〈中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN 978-4121018366。
- 太田亮「国立国会図書館デジタルコレクション 黒田 クロタ クルタ」『姓氏家系大辞典』 第2、上田萬年、三上参次監修、姓氏家系大辞典刊行会、1934年、2223-2229頁。全国書誌番号:47004572 。
- 諏訪勝則『黒田官兵衛 : 「天下を狙った軍師」の実像』中央公論新社〈中公新書 2241〉、2013年11月。ISBN 9784121022417。
- 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN 978-4820540342。
- “黒田官兵衛ゆかりの里・西脇/西脇市ホームページ”. 西脇市ホームページ. 西脇市. 2017年5月25日閲覧。
- 兵庫県史編集専門委員会編『兵庫県史』 史料編 中世 2、兵庫県、1987年3月。全国書誌番号:87035291。
- 堀田正敦 編『国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重脩諸家譜』 第3輯、國民圖書、1923年2月。全国書誌番号:21329093 。
- 村川浩平『日本近世武家政権論』日本図書刊行会、近代文芸社、2000年6月。ISBN 4823105281。