コンテンツにスキップ

「藤沢隆」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
 
1行目: 1行目:
{{存命人物の出典皆無|date=2017-10-12}}
{{存命人物の出典皆無|date=2017-10-12}}
{{MedalTableTop|Takashi Fujisawa 1966.jpg|220px|1966年世界選手権での藤沢隆}}
{{MedalTableTop}}
{{MedalCountry|{{JPN}}}}
{{MedalCountry|{{JPN}}}}
{{MedalSport|男子 [[スキージャンプ]]}}
{{MedalSport|男子 [[スキージャンプ]]}}
6行目: 6行目:
{{MedalSilver|[[1966年ノルディックスキー世界選手権|1966 オスロ]]|90m級}}
{{MedalSilver|[[1966年ノルディックスキー世界選手権|1966 オスロ]]|90m級}}
{{MedalBottom}}
{{MedalBottom}}
'''藤沢 隆'''(ふじさわ たかし、[[1943年]][[2月7日]] - )は、[[1960年代]]に活躍した[[北海道]][[余市郡]][[余市町]]出身の元[[ノルディック複合]]及び[[スキージャンプ]]選手。[[北海道余市高等学校|余市高校]]-[[早稲田大学]]を経て[[コクド|国土計画]]に所属。
'''藤沢 隆'''(ふじさわ たかし、[[1943年]][[2月7日]] - )は、[[1960年代]]に活躍した[[北海道]][[余市郡]][[余市町]]出身の元[[ノルディック複合]]及び[[スキージャンプ]]選手。[[北海道余市高等学校|余市高校]][[早稲田大学]]を経て[[コクド|国土計画]]に所属。


== 経歴 ==
1966年に[[ノルウェー]]の[[オスロ]]で行われた[[ノルディックスキー世界選手権]]個人90m級(現在のラージヒル)で銀メダルを獲得、世界選手権で日本人初のメダリストとなった。同選手権の70m級(現在のノーマルヒル)では16位。
1964年の[[1964年インスブルックオリンピック|インスブルックオリンピック]]にノルディック複合の選手として出場し、個人20位の成績を残した。


1966年に[[ノルウェー]]の[[オスロ]]で行われた[[ノルディックスキー世界選手権]]個人90m級(現在のラージヒル[[ビョルン・ヴィルコラ]]に次ぐ銀メダルを獲得、世界選手権で日本人初のメダリストとなった。同選手権の70m級(現在のノーマルヒル)では16位。
1970年に[[チェコスロバキア]]の[[ソケタトリ]]で行われた世界選手権で70m級は15位、90m級は6位だった。


1964年の[[1964インスブルックオリンピック|インスブルックオリンピック]]にはノルディック複合の選手として出場個人20の成績残した。
1968年の[[1968グルノーブルオリンピックキージャンプ競技|グルノーブルオリンピック]]にスキージャンプの選手として出場。70m級で26位90m級では1本目2につけたが、2本目は距離伸ばせずこの回48位、トータルで18位に終わった。


1970年に[[チェコスロバキア]]の[[ヴィソケー・タトリ]]で行われた世界選手権で70m級は15位、90m級は6位だった。
1968年の[[1968年グルノーブルオリンピックのスキージャンプ競技|グルノーブルオリンピック]]にはスキージャンプの選手として出場、70m級で26位、90m級では1本目2位につけたが、2本目は距離を伸ばせずこの回48位、トータルで18位に終わった。


1972年の[[1972年札幌オリンピックのスキージャンプ競技|札幌オリンピック]]に3大会連続3回目の出場を果たし、70m級では1本目4位につけたが2本目46位と低迷、23位に終わった。90m級では14位となった。
1972年の[[1972年札幌オリンピックのスキージャンプ競技|札幌オリンピック]]に3大会連続3回目の出場。[[笠谷幸生]]に次ぐメダル候補に挙げられ、70m級では1本目を終わって笠谷、[[青地清二]]、[[金野昭次]]に次ぐ4位につけたが2本目は失敗ジャンプで56人中46位と低迷、トータルで23位に終わりメダルを逃した。表彰台を日本勢で独占した金の笠谷、銀の金野、銅の青地らジャンプメンバーはその夜、コーチの部屋に集まり祝勝会をして喜んでいたが、藤沢はその場にいなかった<ref>[https://www.news-postseven.com/archives/20220202_1723379.html 札幌五輪「表彰台独占」日の丸飛行隊 栄光の影に隠れたヒーローたちの挫折]</ref>5日後の90m級では14位となった。


[[全日本スキー選手権大会]]のジャンプ種目で2度2冠を達成している。
[[全日本スキー選手権大会]]のジャンプ種目で2度2冠を達成している。
33行目: 34行目:
*1970.01.15(木) 第5回[[雪印杯全日本ジャンプ旭川大会|雪印杯争奪ジャンプ旭川大会]]成年組 優勝
*1970.01.15(木) 第5回[[雪印杯全日本ジャンプ旭川大会|雪印杯争奪ジャンプ旭川大会]]成年組 優勝
*1971.12.19(日) 第13回[[雪印杯全日本ジャンプ大会]]成年組 優勝
*1971.12.19(日) 第13回[[雪印杯全日本ジャンプ大会]]成年組 優勝

== 脚注 ==
{{Reflist}}


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==

2024年4月7日 (日) 20:04時点における最新版

獲得メダル

1966年世界選手権での藤沢隆
日本の旗 日本
男子 スキージャンプ
ノルディックスキー世界選手権
1966 オスロ 90m級

藤沢 隆(ふじさわ たかし、1943年2月7日 - )は、1960年代に活躍した北海道余市郡余市町出身の元ノルディック複合及びスキージャンプ選手。余市高校早稲田大学を経て国土計画に所属。

経歴[編集]

1964年のインスブルックオリンピックにノルディック複合の選手として出場し、個人20位の成績を残した。

1966年にノルウェーオスロで行われたノルディックスキー世界選手権個人90m級(現在のラージヒル)でビョルン・ヴィルコラに次ぐ銀メダルを獲得、世界選手権で日本人初のメダリストとなった。同選手権の70m級(現在のノーマルヒル)では16位。

1968年のグルノーブルオリンピックにスキージャンプの選手として出場。70m級で26位、90m級では1本目2位につけたが、2本目は距離を伸ばせずこの回48位、トータルで18位に終わった。

1970年にチェコスロバキアヴィソケー・タトリで行われた世界選手権で70m級は15位、90m級は6位だった。

1972年の札幌オリンピックに3大会連続3回目の出場。笠谷幸生に次ぐメダル候補に挙げられ、70m級では1本目を終わって笠谷、青地清二金野昭次に次ぐ4位につけたが、2本目は失敗ジャンプで56人中46位と低迷、トータルで23位に終わりメダルを逃した。表彰台を日本勢で独占した金の笠谷、銀の金野、銅の青地らジャンプメンバーはその夜、コーチの部屋に集まり祝勝会をして喜んでいたが、藤沢はその場にいなかった[1]。5日後の90m級では14位となった。

全日本スキー選手権大会のジャンプ種目で2度2冠を達成している。

日本国内での主な競技成績[編集]

脚注[編集]

外部リンク[編集]