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== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[北周]]の[[涇州]][[刺史]]の薛回(字は道弘)の子として生まれた。17歳のとき、北周の[[武帝 (北周)|武帝]]の下で[[北斉]]を討ち、功績により帥都督に任じられた。隋の[[開皇]]年間、数々の戦功により、儀同三司・右親衛車騎将軍に累進した。[[604年]]、[[煬帝]]が即位すると、[[広州市|番禺]]の少数民族たちが叛いたため、世雄が鎮圧にあたった。右監門郎将に転じた。煬帝に従って[[吐谷渾]]を討ち、位は通議大夫に進んだ。
[[北周]]の[[涇州]][[刺史]]の薛回(字は道弘)の子として生まれた。17歳のとき、北周の[[武帝 (北周)|武帝]]の下で[[北斉]]を討ち、功績により帥都督に任じられた。隋の[[開皇]]年間、数々の戦功により、[[儀同三司]]・右親衛車騎将軍に累進した。[[604年]]、[[煬帝]]が即位すると、[[番禺区|番禺]]の少数民族たちが叛いたため、世雄が鎮圧にあたった。右監門郎将に転じた。煬帝に従って[[吐谷渾]]を討ち、位は通議大夫に進んだ。


世雄は清廉謹直で、戦場で勝利をおさめても略奪や横領をおこなわなかったので、煬帝に賞賛された。煬帝は群臣の前で世雄を好人として挙げ、右翊衛将軍に任じた。
世雄は清廉謹直で、戦場で勝利をおさめても略奪や横領をおこなわなかったので、煬帝に賞賛された。煬帝は群臣の前で世雄を好人として挙げ、右翊衛将軍に任じた。


[[608年]]、世雄は玉門道行軍大将となり、[[突厥]]の[[啓民可汗]]とともに伊吾(現在の[[新疆ウイグル自治区]][[クムル市]])を攻撃することとなった。世雄の兵が[[玉門関]]に到着したが、啓民可汗は盟約に反してやってこなかったので、世雄は孤軍で莫賀延磧を越えて伊吾に向かった。伊吾は隋軍がやってこれないものと考えて、迎撃の準備を整えておらず、世雄の兵が磧を越えてきたのを知ると、軍門に牛酒を捧げて降伏を願い出た。世雄は[[漢]]の旧伊吾城の東に城を築いて、新伊吾と名づけ、銀青光禄大夫の王威を留めて、帰還した。煬帝は喜び、世雄の位を正議大夫に進めた。
[[608年]]、世雄は玉門道行軍大将となり、[[突厥]]の[[啓民可汗]]とともに[[伊州|伊吾]]を攻撃することとなった。世雄の兵が[[玉門関]]に到着したが、啓民可汗は盟約に反してやってこなかったので、世雄は孤軍で莫賀延磧を越えて伊吾に向かった。伊吾は隋軍がやってこれないものと考えて、迎撃の準備を整えておらず、世雄の兵が磧を越えてきたのを知ると、軍門に牛酒を捧げて降伏を願い出た。世雄は[[漢]]の旧伊吾城の東に城を築いて、新伊吾と名づけ、銀青光禄大夫の王威を留めて、帰還した。煬帝は喜び、世雄の位を正議大夫に進めた。


[[612年]]の[[隋の高句麗遠征]]においては、世雄は沃沮道軍将となり、[[宇文述]]とともに[[平壌]]で敗れた。撤退して白石山に到着したが、高句麗軍の重囲の下に陥った。世雄は疲弊した軍に方陣を布かせ、精鋭の騎兵200を選び、高句麗軍のややひるんだ隙に縦撃を加えて、包囲を突破して帰還した。敗戦の責任を問われて免職された。[[613年]]、煬帝が第二次高句麗遠征の軍を起こすと、世雄は右候衛将軍として再び起用され、軍を率いて蹋頓道に進んだ。軍が烏骨城に到着したとき、[[楊玄感]]の乱の報が入り、軍を返した。煬帝が柳城に到着すると、世雄は東北道大使となり、郡太守を代行して、懐に駐屯した。世雄は十二郡の士馬を発して突厥を攻撃し、塞外を巡って帰還した。[[614年]]、煬帝が第三次高句麗遠征の軍を起こすと、世雄は左禦衛大将軍となり、涿郡留守を兼ねた。[[617年]]、[[李密 (隋)|李密]]が東都([[洛陽]])に迫ると、世雄は命を受けて[[幽州]]・薊州の兵を集めて李密を討つこととなった。世雄が[[河間市|河間]]にいたり、河間城の南に大軍を駐屯させると、[[竇建徳]]を討とうとした。竇建徳は精鋭数百を集め、先手を取って夜襲を仕掛けた。ときに霧が濃く、軍の統率も取れず、状況も把握できないまま、大軍があだとなって世雄は大敗した。世雄と側近の数十騎は河間城に逃亡した。世雄は発病して涿郡に帰り、まもなく死去した。享年は63。
[[612年]]の[[隋の高句麗遠征]]においては、世雄は沃沮道軍将となり、[[宇文述]]とともに[[平壌]]で敗れた。撤退して白石山に到着したが、高句麗軍の重囲の下に陥った。世雄は疲弊した軍に方陣を布かせ、精鋭の騎兵200を選び、高句麗軍のややひるんだ隙に縦撃を加えて、包囲を突破して帰還した。敗戦の責任を問われて免職された。[[613年]]、煬帝が第二次高句麗遠征の軍を起こすと、世雄は右候衛将軍として再び起用され、軍を率いて蹋頓道に進んだ。軍が烏骨城に到着したとき、[[楊玄感]]の乱の報が入り、軍を返した。煬帝が[[龍城|柳城]]に到着すると、世雄は東北道大使となり、[[涿]]太守を代行して、[[来県|懐戎]]に駐屯した。世雄は十二郡の士馬を発して突厥を攻撃し、塞外を巡って帰還した。[[614年]]、煬帝が第三次高句麗遠征の軍を起こすと、世雄は左禦衛大将軍となり、涿郡留守を兼ねた。[[617年]]、[[李密 (隋)|李密]]が東都([[洛陽]])に迫ると、世雄は命を受けて涿郡の兵を集めて李密を討つこととなった。世雄が[[河間市|河間]]にいたり、河間城の南に大軍を駐屯させると、[[竇建徳]]を討とうとした。竇建徳は精鋭数百を集め、先手を取って夜襲を仕掛けた。ときに霧が濃く、軍の統率も取れず、状況も把握できないまま、大軍があだとなって世雄は大敗した。世雄と側近の数十騎は河間城に逃亡した。世雄は発病して涿郡に帰り、まもなく死去した。享年は63。


子に薛万述・薛万淑・[[薛万均]]・[[薛万徹]]・薛万備があって、ともに武名で知られた。
子に薛万述・薛万淑・[[薛万均]]・[[薛万徹]]・薛万備があって、ともに武名で知られた。


== 伝記資料 ==
== 伝記資料 ==
*『[[隋書]]』巻65 列伝第30
* 『[[隋書]]』巻65 列伝第30
*『[[北史]]』巻76 列伝第64
* 『[[北史]]』巻76 列伝第64


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2021年11月25日 (木) 08:16時点における版

薛 世雄(せつ せいゆう、555年 - 617年)は、中国軍人は世英。本貫河東郡汾陰県

経歴

北周涇州刺史の薛回(字は道弘)の子として生まれた。17歳のとき、北周の武帝の下で北斉を討ち、功績により帥都督に任じられた。隋の開皇年間、数々の戦功により、儀同三司・右親衛車騎将軍に累進した。604年煬帝が即位すると、番禺の少数民族たちが叛いたため、世雄が鎮圧にあたった。右監門郎将に転じた。煬帝に従って吐谷渾を討ち、位は通議大夫に進んだ。

世雄は清廉謹直で、戦場で勝利をおさめても略奪や横領をおこなわなかったので、煬帝に賞賛された。煬帝は群臣の前で世雄を好人として挙げ、右翊衛将軍に任じた。

608年、世雄は玉門道行軍大将となり、突厥啓民可汗とともに伊吾を攻撃することとなった。世雄の兵が玉門関に到着したが、啓民可汗は盟約に反してやってこなかったので、世雄は孤軍で莫賀延磧を越えて伊吾に向かった。伊吾は隋軍がやってこれないものと考えて、迎撃の準備を整えておらず、世雄の兵が磧を越えてきたのを知ると、軍門に牛酒を捧げて降伏を願い出た。世雄はの旧伊吾城の東に城を築いて、新伊吾と名づけ、銀青光禄大夫の王威を留めて、帰還した。煬帝は喜び、世雄の位を正議大夫に進めた。

612年隋の高句麗遠征においては、世雄は沃沮道軍将となり、宇文述とともに平壌で敗れた。撤退して白石山に到着したが、高句麗軍の重囲の下に陥った。世雄は疲弊した軍に方陣を布かせ、精鋭の騎兵200を選び、高句麗軍のややひるんだ隙に縦撃を加えて、包囲を突破して帰還した。敗戦の責任を問われて免職された。613年、煬帝が第二次高句麗遠征の軍を起こすと、世雄は右候衛将軍として再び起用され、軍を率いて蹋頓道に進んだ。軍が烏骨城に到着したとき、楊玄感の乱の報が入り、軍を返した。煬帝が柳城に到着すると、世雄は東北道大使となり、涿郡太守を代行して、懐戎に駐屯した。世雄は十二郡の士馬を発して突厥を攻撃し、塞外を巡って帰還した。614年、煬帝が第三次高句麗遠征の軍を起こすと、世雄は左禦衛大将軍となり、涿郡留守を兼ねた。617年李密が東都(洛陽)に迫ると、世雄は命を受けて涿郡の兵を集めて李密を討つこととなった。世雄が河間城にいたり、河間城の南に大軍を駐屯させると、竇建徳を討とうとした。竇建徳は精鋭数百を集め、先手を取って夜襲を仕掛けた。ときに霧が濃く、軍の統率も取れず、状況も把握できないまま、大軍があだとなって世雄は大敗した。世雄と側近の数十騎は河間城に逃亡した。世雄は発病して涿郡に帰り、まもなく死去した。享年は63。

子に薛万述・薛万淑・薛万均薛万徹・薛万備があって、ともに武名で知られた。

伝記資料