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「若の富士昭一」の版間の差分

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'''若の富士 昭一'''(わかのふじ しょういち、[[1956年]][[3月29日]]- )は、[[東京都]][[大田区]]出身で、[[九重部屋]](一時、井筒部屋)に所属していた[[大相撲]][[力士]]。現在は[[実業家]]。本名は斎藤 昭一(さいとう しょういち)。得意手は左四つ、[[小手投げ]]、[[上手投げ]]。最高位は東[[前頭]]2枚目([[1982年]]9月場所)。現役時代の体格は190cm、150kg。
'''若の富士 昭一'''(わかのふじ しょういち、[[1956年]][[3月29日]]- )は、[[東京都]][[大田区]]出身で、[[九重部屋]](一時、井筒部屋)に所属した[[大相撲]][[力士]]。現在は[[実業家]]。本名は斎藤 昭一(さいとう しょういち)。得意手は左四つ、[[小手投げ]]、[[上手投げ]]。最高位は東[[前頭]]2枚目([[1982年]]9月場所)。現役時代の体格は190cm、150kg。


== 来歴・人物 ==
== 来歴・人物 ==
中学生の頃は[[剣道]]や[[テニス]]で活躍。[[高輪中学校・高等学校|高輪高校]]に進学してからは、[[柔道]]を経験した。
中学生の頃は[[剣道]]や[[テニス]]で活躍。[[高輪中学校・高等学校|高輪高校]]に進学してからは、[[柔道]]を経験した。


[[九重_(相撲)|九重]]親方(元横綱・[[千代の山雅信|千代の山]])の知人が近所におり、その人に勧められて相撲の道へ進む事となった。
[[九重_(相撲)|九重]]親方(元横綱・[[千代の山雅信|千代の山]])の知人が近所におり、その人に勧められて相撲の道へ進む事となった。


その後、部屋の[[横綱]]・[[北の富士勝昭|北の富士]]や親方自身のスカウトもあって、高校を半年足らずで中退し九重部屋に入門。[[1971年]]9月場所にて、15歳で[[初土俵]]を踏んだ。なお、初土俵の同期には、後の関脇・[[鳳凰倶往|鳳凰]]らがいる。
その後、九重部屋の[[横綱]]・[[北の富士勝昭|北の富士]]や親方自身のスカウトもあって、高校を半年足らずで中退し部屋に入門。[[1971年]]9月場所にて、15歳で[[初土俵]]を踏んだ。なお、初土俵の同期には、後の関脇・[[鳳凰倶往|鳳凰]]らがいる。


序二段時代の[[1974年]]、井筒親方(元・北の富士)が[[井筒部屋]]を創設すると、それについて移籍した。その後、[[1977年]]11月場所前に九重親方が亡くなり、井筒親方がその後を継いだ事で井筒部屋と九重部屋が合併。再度、九重部屋に戻る事となった。
序二段時代の[[1974年]]、井筒親方(元・北の富士)が[[井筒部屋]]を創設すると、それについて移籍した。その後、[[1977年]]11月場所前に九重親方が亡くなり、井筒親方がその後を継いだ事で井筒部屋と九重部屋が合併。再度、九重部屋に戻る事となった。
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以後、暫くは幕下上中位でもたついていたが、[[1981年]]3月場所にて新[[十両]]に昇進。左四つ相撲を得意とし、右の上手を取っての投げの他、相手の左を引っ張り込んで思いっ切り打つ小手投げが得意だった。新十両の場所では大きく負け越して1場所で[[幕下]]に陥落したが、11月場所で関取に返り咲くと今度は連続して勝ち越し、[[1982年]]3月場所で新入幕を果たした。
以後、暫くは幕下上中位でもたついていたが、[[1981年]]3月場所にて新[[十両]]に昇進。左四つ相撲を得意とし、右の上手を取っての投げの他、相手の左を引っ張り込んで思いっ切り打つ小手投げが得意だった。新十両の場所では大きく負け越して1場所で[[幕下]]に陥落したが、11月場所で関取に返り咲くと今度は連続して勝ち越し、[[1982年]]3月場所で新入幕を果たした。


東前頭3枚目の地位で迎えた翌5月場所では、[[北の湖敏満|北の湖]]から4日目に[[金星 (相撲)|金星]]を獲得している。以降は主に幕内中位で活躍していたが、十両に陥落した[[1984年]]11月場所の開直前、肝臓病が悪化したことを理由に28歳の若さで[[廃業]]した。なお同年10月、[[鈴木宗男]](九重部屋元後援会長)の媒酌によって[[浅田満]]([[ハンナン]]元会長、[[部落解放同盟]]大阪府連向野支部元副支部長)の長女と結婚している。
東前頭3枚目の地位で迎えた翌5月場所では、[[北の湖敏満|北の湖]]から4日目に[[金星 (相撲)|金星]]を獲得している。
以降は主に幕内中位で活躍していたが、[[1984年]]11月場所の開直前、肝臓病が悪化したを理由に28歳の若さで[[廃業]]した。なお同年10月、[[鈴木宗男]](九重部屋元後援会長)の媒酌によって[[浅田満]]([[ハンナン]]元会長、[[部落解放同盟]]大阪府連向野支部元副支部長)の長女と結婚している。


現在は、ハンナンのグループ企業である「株式会社 富士」(本社:大阪府羽曳野市。1985年設立、資本金3000万円、事業内容は「ステーキハウス [[ビッグジョー]]」「ちゃんこ鍋 味喰笑」の経営)の代表取締役を務めている。
現在は、ハンナンのグループ企業である「株式会社 富士」(本社:大阪府羽曳野市。1985年設立、資本金3000万円、事業内容は「ステーキハウス [[ビッグジョー]]」「ちゃんこ鍋 味喰笑」の経営)の代表取締役を務めている。
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*『戦後新入幕力士物語 第4巻』(著者:佐竹義惇、発行元:[[ベースボール・マガジン社]]
*『戦後新入幕力士物語 第4巻』(著者:佐竹義惇、発行元:[[ベースボール・マガジン社]]、[[1993年]])p544-p549


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==

2015年1月18日 (日) 05:19時点における版

若の富士 昭一(わかのふじ しょういち、1956年3月29日- )は、東京都大田区出身で、九重部屋(一時、井筒部屋)に所属した大相撲力士。現在は実業家。本名は斎藤 昭一(さいとう しょういち)。得意手は左四つ、小手投げ上手投げ。最高位は東前頭2枚目(1982年9月場所)。現役時代の体格は190cm、150kg。

来歴・人物

中学生の頃は、剣道テニスで活躍。高輪高校に進学してからは、柔道を経験した。

九重親方(元横綱・千代の山)の知人が近所におり、その人に勧められて相撲の道へ進む事となった。

その後、九重部屋の横綱北の富士や親方自身のスカウトもあって、高校を半年足らずで中退し同部屋に入門。1971年9月場所にて、15歳で初土俵を踏んだ。なお、初土俵の同期には、後の関脇・鳳凰らがいる。

序二段時代の1974年、井筒親方(元・北の富士)が井筒部屋を創設すると、それについて移籍した。その後、1977年11月場所前に九重親方が亡くなり、井筒親方がその後を継いだ事で井筒部屋と九重部屋が合併。再度、九重部屋に戻る事となった。

以後、暫くは幕下上中位でもたついていたが、1981年3月場所にて新十両に昇進。左四つ相撲を得意とし、右の上手を取っての投げの他、相手の左を引っ張り込んで思いっ切り打つ小手投げが得意だった。新十両の場所では大きく負け越して1場所で幕下に陥落したが、11月場所で関取に返り咲くと今度は連続して勝ち越し、1982年3月場所で新入幕を果たした。

東前頭3枚目の地位で迎えた翌5月場所では、北の湖から4日目に金星を獲得している。

以降は主に幕内中位で活躍していたが、1984年11月場所の開催直前に、肝臓病が悪化した事を理由に28歳の若さで廃業した。なお同年10月、鈴木宗男(九重部屋元後援会長)の媒酌によって、浅田満ハンナン元会長、部落解放同盟大阪府連向野支部元副支部長)の長女と結婚している。

現在は、ハンナンのグループ企業である「株式会社 富士」(本社:大阪府羽曳野市。1985年設立、資本金3000万円、事業内容は「ステーキハウス ビッグジョー」「ちゃんこ鍋 味喰笑」の経営)の代表取締役を務めている。

なお、味喰笑敷地内には、八角部屋大阪場所宿舎がある。

主な戦績

  • 現役在位:79場所
  • 通算成績:359勝327敗27休 勝率.523
  • 幕内在位:10場所
  • 幕内成績:62勝76敗12休 勝率.449
  • 金星:1個(北の湖から。1982年5月場所4日目)

改名歴

  • 斎藤(さいとう、1971年9月場所)※前相撲のみ
  • 若の冨士(わかのふじ、1971年11月場所-1974年11月場所・1975年7月場所)
  • 若の富士(同上、1975年1月場所-同年5月場所・1975年9月場所-1984年11月場所)

関連項目

参考文献

外部リンク