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「フィリッポ・ユヴァラ」の版間の差分

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'''フィリッポ・ユヴァッラ'''('''Filippo Juvarra'''、[[1678年]][[3月7日]]-[[1736年]][[1月31日]])は、[[イタリア]]の[[建築家]]。18世紀のもっとも偉大なイタリアの建築家であり、かつ輝かしいとまで評された図案家。


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[[メッシーナ]]の銀細工師の家庭で生まれた。1703年か1704年から1714年にかけて、[[ローマ]]のフォンターナのもとで修業をつみ、はじめ舞台設計者としての名声を得た。この劇場設計での経験は、その後に続くほとんどすべての作品に痕跡を残したといわれる。
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2008年8月7日 (木) 02:53時点における版

ユヴァッラの像
スペルガ聖堂

フィリッポ・ユヴァッラFilippo Juvarra1678年3月7日1736年1月31日)は、イタリア建築家。18世紀のもっとも偉大なイタリアの建築家であり、かつ輝かしいとまで評された図案家。

メッシーナの銀細工師の家庭で生まれた。1703年か1704年から1714年にかけて、ローマのフォンターナのもとで修業をつみ、はじめ舞台設計者としての名声を得た。この劇場設計での経験は、その後に続くほとんどすべての作品に痕跡を残したといわれる。

1714年にサルデーニャヴィットーリオ・アメデーオ2世によってトリノに招かれ、首席宮廷建築家に任命された。1719年から1720年のポルトガルロンドンパリヘの旅行を除いて20年間はトリノに滞在した。

彼の作品数は膨大であって、教会、宮殿、郊外の邸宅、狩猟用の山荘から、トリノの新市街地の配置計画にまで及んでいた。一室内装飾家、家具や美術品のデザイナーとしての作品は言うに及ばない。

教会作品のうち、1715年から15年かけて築いたスペルガ聖堂と、1716年から5年かけて築いたヴェナリーア・レアーレの礼拝堂は、ともにトリノの近くにあって、壮観なものである。前者は、イタリアのすべてのバロック様式の聖堂のうちでもっともすばらしいものとされ、オーストリアメルク修道院スイスアインジーデルン修道院に比較される。

参考文献

  • R・Wittkower Art and Architecture in Itary 1600-1750 Pelican History of Art 3rd edn Haermondsworth 1973