「ボチュク」の版間の差分
編集の要約なし |
編集の要約なし |
||
1行目: | 1行目: | ||
'''ボチュク'''('''{{lang|mn|Böčök}}''' |
'''ボチュク'''('''{{lang|mn|Böčök}}'''、{{Lang-mn|Бөчөк}}、{{Lang-zh|撥綽}}、? - 1262年)は、[[チンギス・カン]]の子の[[トルイ]]の八男で、[[モンゴル帝国]]の皇族。『[[元史]]』などの[[漢文]]史料では撥綽/不者克/合必赤、『[[集史]]』などの[[ペルシア語]]史料ではبوچگBūchagと記される。[[モンゴルのルーシ侵攻|ルーシ遠征]]に従軍して功績を挙げた。 |
||
== 概要 == |
== 概要 == |
||
ボチュクの母 |
ボチュクの母は[[ナイマン]]部出身のマイチェ(Mayiche、馬一実)で、父のトルイにとっては庶出の子供であった。『元史』にはボチュクは驍勇で騎射を得意としたと記されている<ref>『元史』巻117牙忽都伝,「撥綽之母曰馬一実、乃馬真氏。撥綽驍勇善騎射」</ref>。 |
||
チンギス・カンが亡くなり[[オゴデイ|オゴデイ・カアン]]が即位するとヨーロッパ方面への遠征が計画され、ボチュクは[[バトゥ]]率いる遠征軍に入ることとなった。『[[元朝秘史]]』では総指揮官バトゥと仲違いし、一時帰国した[[グユク]]に対してオゴデイ・カアンが[[スブタイ]]とボチュクの庇護があったからこそ、ルーシ人との戦いに功績を挙げることができたのだとグユクの増長を窘める発言が記録されている<ref>村上1976,343頁</ref>。この遠征の功績により、ボチュクはバ |
チンギス・カンが亡くなり[[オゴデイ|オゴデイ・カアン]]が即位するとヨーロッパ方面への遠征が計画され、ボチュクは[[バトゥ]]率いる遠征軍に入ることとなった。『[[元朝秘史]]』では総指揮官バトゥと仲違いし、一時帰国した[[グユク]]に対してオゴデイ・カアンが[[スブタイ]]とボチュクの庇護があったからこそ、ルーシ人との戦いに功績を挙げることができたのだとグユクの増長を窘める発言が記録されている<ref>村上1976,343頁</ref>。この遠征の功績により、ボチュクは[[バガトル|バアトル]](抜都)の称号を賜ったという<ref>『元史』巻117牙忽都伝,「北征欽察有功、賜号抜都」</ref>。 |
||
[[1257年]]、[[モンケ|モンケ・カアン]]の時代には蠡州3347戸を賜り、自身の食邑とした。モンケ・カアンが亡くなると弟の[[クビライ]]と[[アリクブケ]]の間にカアン位を巡って争いが起きたが、ボチュクの動向は明らかになっていない。しかし、クビライ統治下で活躍し列伝も立てられた楚王家の始祖ボチュクがクビライ側に立って参戦したことが記されないのは不自然であるため、アリク |
[[1257年]]、[[モンケ|モンケ・カアン]]の時代には蠡州3347戸を賜り、自身の食邑とした。モンケ・カアンが亡くなると弟の[[クビライ]]と[[アリクブケ]]の間にカアン位を巡って争いが起きたが、ボチュクの動向は明らかになっていない。しかし、クビライ統治下で活躍し列伝も立てられた楚王家の始祖ボチュクがクビライ側に立って参戦したことが記されないのは不自然であるため、アリクブケ派もしくは消極的なアリクブケ支持であったと推測されている<ref>村岡1985,312/339頁</ref>。 |
||
== 子孫 == |
== 子孫 == |
||
ボチュクは[[メルキト]]部出身のチャクン |
ボチュクは[[メルキト]]部出身のチャクン(Čaqun、察渾)を娶っており、チャクンとの間に生まれた息子のセビルゲルが後を継いだ。セビルゲルはコンギラト部出身の女性を娶り、その息子の[[ヤクドゥ]]が後を継いだ。ヤクドゥはクビライ・カアンの時期に北安王[[ノムガン]]とともに[[カイドゥ]]と戦って功があり、後に楚王に封ぜられた。以後ボチュクの家系は楚王家として栄えた<ref>村上1976,351-352頁</ref>。 |
||
== 家系 == |
== 家系 == |
||
41行目: | 41行目: | ||
== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
||
*村岡倫「シリギの乱 |
* 村岡倫「シリギの乱:元初モンゴリアの争乱」『東洋史苑』第24/25合併号、1985年 |
||
*村上正二訳注『モンゴル秘史 3巻』平凡社、1976年 |
* 村上正二訳注『モンゴル秘史 3巻』平凡社、1976年 |
||
*『[[新元史]]』巻110列伝7 |
* 『[[新元史]]』巻110列伝7 |
||
{{DEFAULTSORT:ほちゆく}} |
{{DEFAULTSORT:ほちゆく}} |
||
[[Category:モンゴル帝国の皇族]] |
[[Category:モンゴル帝国の皇族]] |
||
[[Category:トルイ家]] |
[[Category:トルイ家]] |
2021年11月10日 (水) 03:03時点における最新版
ボチュク(Böčök、モンゴル語: Бөчөк、中国語: 撥綽、? - 1262年)は、チンギス・カンの子のトルイの八男で、モンゴル帝国の皇族。『元史』などの漢文史料では撥綽/不者克/合必赤、『集史』などのペルシア語史料ではبوچگBūchagと記される。ルーシ遠征に従軍して功績を挙げた。
概要
[編集]ボチュクの母はナイマン部出身のマイチェ(Mayiche、馬一実)で、父のトルイにとっては庶出の子供であった。『元史』にはボチュクは驍勇で騎射を得意としたと記されている[1]。
チンギス・カンが亡くなりオゴデイ・カアンが即位するとヨーロッパ方面への遠征が計画され、ボチュクはバトゥ率いる遠征軍に入ることとなった。『元朝秘史』では総指揮官バトゥと仲違いし、一時帰国したグユクに対してオゴデイ・カアンがスブタイとボチュクの庇護があったからこそ、ルーシ人との戦いに功績を挙げることができたのだとグユクの増長を窘める発言が記録されている[2]。この遠征の功績により、ボチュクはバアトル(抜都)の称号を賜ったという[3]。
1257年、モンケ・カアンの時代には蠡州3347戸を賜り、自身の食邑とした。モンケ・カアンが亡くなると弟のクビライとアリクブケの間にカアン位を巡って争いが起きたが、ボチュクの動向は明らかになっていない。しかし、クビライ統治下で活躍し列伝も立てられた楚王家の始祖ボチュクがクビライ側に立って参戦したことが記されないのは不自然であるため、アリクブケ派もしくは消極的なアリクブケ支持であったと推測されている[4]。
子孫
[編集]ボチュクはメルキト部出身のチャクン(Čaqun、察渾)を娶っており、チャクンとの間に生まれた息子のセビルゲルが後を継いだ。セビルゲルはコンギラト部出身の女性を娶り、その息子のヤクドゥが後を継いだ。ヤクドゥはクビライ・カアンの時期に北安王ノムガンとともにカイドゥと戦って功があり、後に楚王に封ぜられた。以後ボチュクの家系は楚王家として栄えた[5]。
家系
[編集]『元史』宗室世系表では以下のような系図を伝える:
- ボチュク
一方、『集史』はやや異なる系図を記している:
- ボチュク
- セブクサル(سبکسال,Sebksāl)
- サイン・ブカ(صاین بوقا,Ṣāīn būqā)
- ダシュマン(دانشمند,Dāneshmand)
- イラウダル(ایلاووداد,Īlāūdār)
- ジャウトゥ(جاوتو,Jāwtū)
- トレ・テムル(تورا تیمور,Tūrā tīmūr)
- タクシ(تکشی,Takshī)
- トゥブシン(توبشین,Tūbshīn)
- ブルタチャル(بلتاچار,Bltāchār)
- サウト(ساوت,Sāwt)
- バクタイ(بگتای,Begtāi)
- ボラルチ(بورالغی,Būrālghī)
- サイン・ブカ(صاین بوقا,Ṣāīn būqā)
- セブクサル(سبکسال,Sebksāl)
出典
[編集]- ^ 『元史』巻117牙忽都伝,「撥綽之母曰馬一実、乃馬真氏。撥綽驍勇善騎射」
- ^ 村上1976,343頁
- ^ 『元史』巻117牙忽都伝,「北征欽察有功、賜号抜都」
- ^ 村岡1985,312/339頁
- ^ 村上1976,351-352頁
参考文献
[編集]- 村岡倫「シリギの乱:元初モンゴリアの争乱」『東洋史苑』第24/25合併号、1985年
- 村上正二訳注『モンゴル秘史 3巻』平凡社、1976年
- 『新元史』巻110列伝7