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「マケドニアの戦い」の版間の差分

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'''マケドニアの戦い'''はブルガリア帝国と東ローマ帝国との間で行われた戦いであり、[[シメオン1世]]が初めて東ローマ帝国と戦って勝利を収めた戦いである。
'''マケドニアの戦い'''は、[[第一次ブルガリア帝国|ブルガリア帝国]][[東ローマ帝国]]との間で行われた戦いである。[[シメオン1世]]が初めて東ローマ帝国と戦って勝利を収めた戦いである。


==経緯==
==経緯==
ブルガリア人と東ローマ帝国の商取引はコンスタンティノープルで行われていたが、ある宦官が金もうけのために取引の場所を突如テッサロニキに変えブルガリア人が損をして自分たちが得するようにした。ブルガリアのシメオン1世はこれに抗議したが、皇帝[[レオーン6世]]は宦官と結託していた側近に妨害されて、この抗議を黙殺した。これに起こったシメオン1世は東ローマ帝国に侵攻した。ちなみにこの戦いは、中世で初めて交易問題が原因で起こった戦いでもある。
ブルガリア人と東ローマ帝国の商取引は[[コンスタンティノープル]]で行われていたが、ある[[宦官]]が金もうけのために取引の場所を突如[[テッサロニキ]]に変えブルガリア人が損をして自分たちが得するようにした。ブルガリアのシメオン1世はこれに抗議したが、皇帝[[レオーン6世]]は宦官と結託していた側近に妨害されて、この抗議を黙殺した。これに起こったシメオン1世は東ローマ帝国に侵攻した。ちなみにこの戦いは、中世で初めて交易問題が原因で起こった戦いでもある。


==戦い==
==戦い==
ブルガリア軍の侵入を聞いた[[レオーン6世]]はすぐに首都から軍を送りだした。両軍はマケドニアで激突し、ブルガリア軍が勝利した。東ローマ軍にいた[[ハザール人]]捕虜は鼻を削がれてコンスタンティノープルに送還された。
ブルガリア軍の侵入を聞いた[[レオーン6世]]はすぐに首都から軍を送りだした。両軍は[[マケドニア]]で激突し、ブルガリア軍が勝利した。東ローマ軍にいた[[ハザール人]]捕虜は鼻を削がれてコンスタンティノープルに送還された。


==戦後==
==戦後==
この敗戦に激怒したレオーン6世はブルガリアの後方の[[マジャール人]]族長[[アールパード]]と同盟を結びブルガリアを挟撃しようとした。ブルガリア軍は東ローマとも対峙していたため、マジャール方面に十分な兵力を送ることができず、侵入してきたマジャール人との数回の戦いで敗北した。これに対抗するため、シメオン1世は東ローマと和平交渉を開始するそぶりを見せて東ローマ軍と一時後退させた。しかしシメオンは東ローマから送られた使者を投獄し、北方のマジャール人に全軍を率いて戦いを挑んで勝利した(この戦いで敗北したマジャール人はパンノニア平原に進出することになる)北方の脅威を取り除いたシメオン1世は東ローマとの戦いに集中できるようになった。
この敗戦に激怒したレオーン6世はブルガリアの後方の[[マジャール人]]族長[[アールパード]]と同盟を結びブルガリアを挟撃しようとした。ブルガリア軍は東ローマとも対峙していたため、マジャール方面に十分な兵力を送ることができず、侵入してきたマジャール人との数回の戦いで敗北した。これに対抗するため、シメオン1世は東ローマと和平交渉を開始するそぶりを見せて東ローマ軍と一時後退させた。しかしシメオンは東ローマから送られた使者を投獄し、北方のマジャール人に全軍を率いて戦いを挑んで勝利した(この戦いで敗北したマジャール人は、[[パンノニア平原]]に進出することになる)北方の脅威を取り除いたシメオン1世は東ローマとの戦いに集中できるようになった。


==参考文献==
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2012年6月14日 (木) 12:09時点における版

ブルガリア・東ローマ戦争
894年
場所テマ・マケドニア
結果 ブルガリアの勝利
衝突した勢力
第一次ブルガリア帝国 東ローマ帝国
指揮官
シメオン1世 クリニテス
戦力
被害者数
全滅

マケドニアの戦いは、ブルガリア帝国東ローマ帝国との間で行われた戦いである。シメオン1世が初めて東ローマ帝国と戦って勝利を収めた戦いである。

経緯

ブルガリア人と東ローマ帝国の商取引はコンスタンティノープルで行われていたが、ある宦官が金もうけのために取引の場所を突如テッサロニキに変え、ブルガリア人が損をして自分たちが得するようにした。ブルガリアのシメオン1世はこれに抗議したが、皇帝レオーン6世は宦官と結託していた側近に妨害されて、この抗議を黙殺した。これに起こったシメオン1世は東ローマ帝国に侵攻した。ちなみにこの戦いは、中世で初めて交易問題が原因で起こった戦いでもある。

戦い

ブルガリア軍の侵入を聞いたレオーン6世は、すぐに首都から軍を送りだした。両軍はマケドニアで激突し、ブルガリア軍が勝利した。東ローマ軍にいたハザール人捕虜は、鼻を削がれてコンスタンティノープルに送還された。

戦後

この敗戦に激怒したレオーン6世は、ブルガリアの後方のマジャール人族長アールパードと同盟を結び、ブルガリアを挟撃しようとした。ブルガリア軍は東ローマとも対峙していたため、マジャール方面に十分な兵力を送ることができず、侵入してきたマジャール人との数回の戦いで敗北した。これに対抗するため、シメオン1世は東ローマと和平交渉を開始するそぶりを見せて、東ローマ軍と一時後退させた。しかし、シメオンは東ローマから送られた使者を投獄し、北方のマジャール人に全軍を率いて戦いを挑んで勝利した(この戦いで敗北したマジャール人は、パンノニア平原に進出することになる)。北方の脅威を取り除いたシメオン1世は、東ローマとの戦いに集中できるようになった。

参考文献

  • シュメオン年代記
  • 『バルカン史』(C・ジェラヴィチ (著), B・ジェラヴィチ (著), 野原 美代子 (翻訳) 恒文社ISBN 4770404638