コンテンツにスキップ

「トラヤヌスの門の戦い」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cat調整
 
(4人の利用者による、間の8版が非表示)
15行目: 15行目:
}}
}}
'''トラヤヌスの門の戦い'''は、[[東ローマ帝国]]と[[第一次ブルガリア帝国]]との間で行われた戦いで、ブルガリアが勝利した。
'''トラヤヌスの門の戦い'''は、[[東ローマ帝国]]と[[第一次ブルガリア帝国]]との間で行われた戦いで、ブルガリアが勝利した。

==経過==
==経過==
ブルガリアを征服した[[ヨハネス1世ツィミスケス|ヨハネス1世]]の死後、東ローマ帝国に反旗を翻した[[サムイル (ブルガリア皇帝)|サムイル]]は西部ブルガリアを拠点にし、東ローマ領やブルガリア旧領へ攻撃を繰り返していた。980年以降、サムイルはテッサリアに攻め込み、ラリッサを占領することに成功した。東ローマ皇帝[[バシレイオス2世]]はラリッサ陥落に衝撃を受け、自らブルガリア討伐を決意し、親征を行ったがトラヤヌスの門と呼ばれる峠を進行中にブルガリア軍の待ち伏せ攻撃を受けて大敗し、バシレイオスも命からがら[[コンスタンティノープル]]に逃げ戻った。
ブルガリアを征服した[[ヨハネス1世ツィミスケス|ヨハネス1世]]の死後、東ローマ帝国に反旗を翻した[[サムイル (ブルガリア皇帝)|サムイル]]は西部ブルガリアを拠点にし、東ローマ領やブルガリア旧領へ攻撃を繰り返していた。980年以降、サムイルはテッサリアに攻め込み、ラリッサを占領することに成功した。東ローマ皇帝[[バシレイオス2世]]はラリッサ陥落に衝撃を受け、バルダス・スクレロスの反乱が終息したこともあり、自らブルガリア討伐を決意し、親征を行うことにした。一方で[[ヨハネス・スキュリツェス]]の年代記では、当時ドメスティコス・トーン・スコローンであったバルダス・フォカスや東方司令官たちにブルガリア遠征について伝える必要性を皇帝考えていなかったとしてしている。
トラヤヌスの門と呼ばれる峠を進行中にブルガリア軍の待ち伏せ攻撃を受けて大敗し、バシレイオスも命からがら[[コンスタンティノープル]]に逃げ戻った。

ヨハネス・スキュリツェスの年代記の記すところによると、バシレイオス2世はレオン・メリセノスを後方に残し、トリアディツア(かつてのサルディカ)を出た所にある峠と谷を抜け、ストポニオンに要塞を急造し、四方八方に伏兵を配置していた。しかし、夜間にドメスティコス・トーン・スコローン・テース・ディセオース(西方スコライ軍団長官)でレオン・メリセノスと対立していた「小男のステファノス」がメリセノスの帝都進軍の虚報とメリセノス討伐および帝都帰還を進言し、バシレイオス2世はこれを要れてメリセノス討伐のための後退を指示してしまう。

これによる東ローマ軍後退に気づいたサムイルのブルガリア軍が全軍で東ローマ軍を攻撃し、東ローマ軍は皇帝の天幕や印も残して慌てて逃走し、ブルガリア軍に陣地を占領されてしまう。バシレイオス2世は無事峠を抜けてフィリップウポリスに戻るが、メリセノスが任務を守って後方を守備をしていることを知り、虚報をもたらした上に開き直った「小男のステファノス」に対して激怒してステファノスを投げ飛ばしたという。


==結果==
==結果==
この戦いで勢いに乗った[[サムイル (ブルガリア皇帝)|サムイル]]は、1年後ブルガリア帝国の首都だった{{仮リンク|プレスラフ|en|Preslav}}、[[プリスカ]]を取り戻し、さらに多くのギリシャ人都市を占領していった。一方、バシレイオス2世はこの敗戦で実力を見くびられ、[[アナトリア]]の貴族に反乱を起こされたため、しばらくブルガリアに手を出せなくなった。
この戦いで勢いに乗った[[サムイル (ブルガリア皇帝)|サムイル]]は、1年後ブルガリア帝国の首都だった{{仮リンク|プレスラフ|en|Preslav}}、[[プリスカ (ブルガリア)|プリスカ]]を取り戻し、さらに多くのギリシャ人都市を占領していった。

一方、バシレイオス2世はこの敗戦や戦争中に[[傭兵]]への敬意を欠いていたことでブルガリア遠征から外されたバルダス・フォカスやエウスタティオス・マレイノスら[[アナトリア]]の貴族の不興を買ったことやコンスタンティノープルでの地震による民心動揺によりバルダス・フォカスの反乱が起こり、しばらくブルガリアに手を出せなくなり、バルダス・フォカスの反乱終結後も[[997年]]の[[スペルヒオス川の戦い]]まで苦戦することとなる。

== 脚注 ==
<references/>


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* 森安達也、今井淳子 翻訳『ブルガリア―風土と歴史』
* 森安達也、今井淳子 翻訳『ブルガリア―風土と歴史』
* ロバート・ブラウニング著『ビザンツ帝国とブルガリア』
* [[ロバート・ブラウニング]]著『ビザンツ帝国とブルガリア』


{{デフォルトソート:とらやぬすのもんのたたかい}}
{{デフォルトソート:とらやぬすのもんのたたかい}}
31行目: 41行目:
[[Category:10世紀の戦闘]]
[[Category:10世紀の戦闘]]
[[Category:986年]]
[[Category:986年]]
[[Category:サムイル]]
[[Category:バシレイオス2世]]

2022年5月12日 (木) 06:02時点における最新版

トラヤヌスの門の戦い
ブルガリア・東ローマ戦争
986年8月17日
場所ブルガリアソフィア周辺の山脈地帯
結果 ブルガリア帝国の勝利
衝突した勢力
第一次ブルガリア帝国 東ローマ帝国
指揮官
サムイル バシレイオス2世
戦力
? 30000人
被害者数
重い

トラヤヌスの門の戦いは、東ローマ帝国第一次ブルガリア帝国との間で行われた戦いで、ブルガリアが勝利した。

経過[編集]

ブルガリアを征服したヨハネス1世の死後、東ローマ帝国に反旗を翻したサムイルは西部ブルガリアを拠点にし、東ローマ領やブルガリア旧領へ攻撃を繰り返していた。980年以降、サムイルはテッサリアに攻め込み、ラリッサを占領することに成功した。東ローマ皇帝バシレイオス2世はラリッサ陥落に衝撃を受け、バルダス・スクレロスの反乱が終息したこともあり、自らブルガリア討伐を決意し、親征を行うことにした。一方でヨハネス・スキュリツェスの年代記では、当時ドメスティコス・トーン・スコローンであったバルダス・フォカスや東方司令官たちにブルガリア遠征について伝える必要性を皇帝が考えていなかったとしてしている。

トラヤヌスの門と呼ばれる峠を進行中にブルガリア軍の待ち伏せ攻撃を受けて大敗し、バシレイオスも命からがらコンスタンティノープルに逃げ戻った。

ヨハネス・スキュリツェスの年代記の記すところによると、バシレイオス2世はレオン・メリセノスを後方に残し、トリアディツア(かつてのサルディカ)を出た所にある峠と谷を抜け、ストポニオンに要塞を急造し、四方八方に伏兵を配置していた。しかし、夜間にドメスティコス・トーン・スコローン・テース・ディセオース(西方スコライ軍団長官)でレオン・メリセノスと対立していた「小男のステファノス」がメリセノスの帝都進軍の虚報とメリセノス討伐および帝都帰還を進言し、バシレイオス2世はこれを要れてメリセノス討伐のための後退を指示してしまう。

これによる東ローマ軍後退に気づいたサムイルのブルガリア軍が全軍で東ローマ軍を攻撃し、東ローマ軍は皇帝の天幕や印も残して慌てて逃走し、ブルガリア軍に陣地を占領されてしまう。バシレイオス2世は無事峠を抜けてフィリップウポリスに戻るが、メリセノスが任務を守って後方を守備をしていることを知り、虚報をもたらした上に開き直った「小男のステファノス」に対して激怒してステファノスを投げ飛ばしたという。

結果[編集]

この戦いで勢いに乗ったサムイルは、1年後ブルガリア帝国の首都だったプレスラフ英語版プリスカを取り戻し、さらに多くのギリシャ人都市を占領していった。

一方、バシレイオス2世はこの敗戦や戦争中に傭兵への敬意を欠いていたことでブルガリア遠征から外されたバルダス・フォカスやエウスタティオス・マレイノスらアナトリアの貴族の不興を買ったことやコンスタンティノープルでの地震による民心動揺によりバルダス・フォカスの反乱が起こり、しばらくブルガリアに手を出せなくなり、バルダス・フォカスの反乱終結後も997年スペルヒオス川の戦いまで苦戦することとなる。

脚注[編集]


参考文献[編集]